第2話 密談
人はそれを褒め言葉なのだと言う。まるで人形のように可愛らしい容姿をしているから、そう呼んでいるのだと笑顔で言う。
だが、表向きでの愛称より、もっとあからさまでわかりやすい呼び名の方で呼ばれた回数の方が多いだろう。
イチヨウ・ミタニの背後には、
次期教導師長候補として、イチヨウはブラックウッド卿に徹底的な宗教教育を受けた。それだけではない。礼儀作法から言葉遣い、視線の運び方、取り入るべき人間とあしらう人間、身につける衣服や装飾品、化粧に至るまで、全てブラックウッド卿の指示に従って動いている。
彼女が自分の頭で考えて行動することはない。数少ない女性の教導師長候補だと言っても、あの女はパパの指示がなければ何も出来ない
(その
敬虔な信者であればその名を聞くだけで顔をしかめるような高級ホテルの
冷たい革張りのソファに、大理石のテーブル。大きな窓の向こうには、昼の東地区の街並みが広がっている。
「────それで? 話というのは?」
テーブルを挟んだ向かい側、三人掛けのソファの右側に収まった男が、低い声で尋ねた。
右の目の下から頬に掛けて、細長い傷が目を引く男だ。十年前、暴漢に襲われた婦人を助けた時に得た名誉の傷痕だと言われている。
(もっとも、その
エドガー・ホワイトフィールド。イチヨウの後ろ盾であるダスティン・ブラックウッドの政敵である。
彼の隣には、二十代半ばあたりの若者が座っていた。ホワイトフィールドの秘書だと紹介されたが、それに相応しい気品などは感じられない。
長い足をテーブルの上に投げ出すようにして座り、へらへらと軽薄な笑みを浮かべている。貴族の秘書と言うよりは金持ちのボンクラ息子の方が近いだろう。
「殺してやりたい男がいるの」
イチヨウは、テーブルの上に一枚の写真を置いた。
ホワイトフィールドが喉の奥で唸り声を上げ、若い秘書は下品な口笛を吹く。
「────これは」
「ぎゃははははっ、何だよお嬢ちゃん。遅めの反抗期か?
白髪頭の険しい表情を浮かべた老人の写真。イチヨウの後ろ盾、ダスティン・ブラックウッド卿。
「それともアレか? 愛しのダーリンに浮気でもされたか? 泥棒猫ともども葬り去ってやりたいって? 女が男を殺してやるってんなら、どうせそんなとこだろ」
半年前、六十八歳になるブラックウッド卿は、二十八歳のイチヨウとの婚約を発表した。結婚式はイチヨウが教導師長に昇格してから行うと宣言している。
だが、そこに愛情などという甘やかなものは存在しない。ブラックウッド卿は、教会への影響力を強化するために、教導師長の妻を欲しただけだ。
彼はイチヨウとの婚約を大々的に発表しておきながら、今年で二十一歳になる女優のベル・サンチェスとの交際を、隠すこともなく堂々と続けていた。
若く美しく才能溢れる新人女優のスキャンダルに、人々は目を見開いたが、同時にイチヨウを嘲り笑うことを忘れなかった。
「なあんだ、結局
────ちょうど、この軽薄で品性のかけらもない若い秘書と同じように。
スキャンダルが表沙汰になったと言うのに、ブラックウッド卿は堂々としたものだった。実際、婚約者に浮気をされたイチヨウのことは
(男だから正しい。男のやったことならば賞賛される。間違っていて、馬鹿にされて、嘲笑われて罵られる愚か者の役を押し付けられるのは、いつも女だわ)
だが、それは男だけの罪ではない。
女も女を見下し、嘲笑い、愚か者だと罵倒する。そうして自分は他の愚かな女とは違うのだと、自分は身の程を弁えているのだと、男達にアピールする。
男が男だというだけで、地に伏し服従を誓う女達も、男と同じぐらい罪深い。
「ペラペラとよく回る口だこと。あなた、私よりよっぽど女らしいわね」
「────は?」
「私はね、あなた達とくだらないゴシップについてお喋りするつもりはないの」
まさかイチヨウに言い返されるとは予想していなかったのだろう。若い秘書は目を大きく見開き、口を間抜けにぽかんと開いたまま固まった。
彼には構わずに、テーブルの上に更に二枚の写真を並べる。
まだ少女の面影を強く残した金髪碧眼の女優────ベル・サンチェスの写真。それから、天使のような微笑みを浮かべた可愛らしい少年の写真。
「ベルには今年で五歳になる息子が居るわ。十六歳の時に産んだそうよ」
若い秘書が口笛を吹く。ホワイトフィールドは険しい表情のままだ。
イチヨウは、ゆっくりと唇の端を引き上げた。若い秘書のことは無視して、ホワイトフィールドに向かって流し目を向ける。
「彼はね、ベルのことなんてどうでも良いの。お目当てはこの子の方よ」
「··········なんだと?」
ホワイトフィールドの右頬が、不自然に引きつった。
母親が幼い子供に寝物語を語って聞かせるように、噛んで含めるようにゆっくりと、イチヨウは告げた。
「彼が性的に愛することができるのは、四歳から十二歳までの男の子だけなの。女なんか最初からお呼びじゃないのよ」
ダスティン・ブラックウッドは、生粋の
たわわに実った豊かな胸、手のひらに吸い付く形の良い尻、色鮮やかな唇、濡れた瞳、鼻に掛かった甘え声────並の男が夢中になるそれらに、ブラックウッドは眉一つ動かさない。
彼が夢中になるのは、産毛が光る柔らかな頬に、少女のような愛らしい顔立ち、声変わりをする前の幼く高い声、それでいて、股の間には立派な男の証を携えた少年だけだ。
「この子の母親はね、強力な男の後ろ盾が欲しいがために、自分の息子を生贄に捧げたのよ────ねえ、許せないでしょう」
イチヨウはテーブルの上に身を乗り出した。
ホワイトフィールドと目を合わせる。相変わらずの渋面だったが、瞳の奥に僅かに迷いの色が見えた。
男は男に甘い。どんな悪逆非道な行為をしたところで、それが男がやった事であるなら、ない理屈をひねり出して擁護しようとする。たとえ、それが自分の反対勢力であったとしても。
だが、女が絡めば話は別だ。
女の罪は許されない。男のように、無茶苦茶な屁理屈で擁護されることもない。
父親ほどの年齢の男の家に上がり込んだというだけで、強姦された少女は売女だと罵られる。男と一緒に酒を飲み、意識を失ったため強姦された女は、合意の上での性交を強姦だと言い張る乞食だと嘲笑われる。
男は常に『女に騙された被害者』だ。
故に────男を破滅に導きたいのなら、女の罪に巻き込んでしまえば良い。
女の罪はどんな小さなものでも断罪される。その結果、巻き込まれた哀れな男が破滅しても────
「────確かにそれが事実であるなら、由々しき事態だ。それで、君は私に何をしろと?」
重々しいホワイトフィールドの声。一度彼と目を合わせてから、イチヨウは姿勢を元に戻した。
背筋を伸ばし、口元を引き締め、真っ直ぐ前を見据える。
目の前には、高級スーツを着た男がいる。その隣では、若い秘書が何とか首を突っ込もうと、ぱくぱくと無意味に口を開閉していた。
「彼は毎月第二水曜日と第四水曜日にお楽しみデーを設けているの。表向きは、子育てのせいでプライベートの時間を取れないベルのために、可愛い可愛い
一人で子供を育てるのは大変だろう。この子は私が見ているから、お前は外で羽を伸ばしておいで────男の甘い言葉に従って、若い母親はいそいそと家を出る。買い物。美容室。映画鑑賞。外食。そして、邪魔者を追い出した男はお目当てのお楽しみを始めるのだ。
「次の第二水曜日────二日後よ。彼のお楽しみの真っ最中に、私と一緒に乗り込んで欲しいの」
「お前一人で行けよ。なんで俺らまで行かなきゃならないんだよ」
「あら? わからないの?」
(お気に入りだか何だか知らないけど、秘書を名乗らせるならもう少しまともに躾をしてからにして欲しいわね)
若い秘書は不貞腐れたように頬を膨らませている。胸中ではホワイトフィールドの指導力不足を罵りながら、表面上では平然と、イチヨウは答えた。
「私一人で行っても止められないからよ。あの人、私の言うことなんて聞かないもの。プレイを見せつけられておしまいよ」
幼い子供を
(目障りな男を失脚させるついでに、幼い子供をヒーローになれるのよ。乗らない手は無いでしょう)
「私はあの子を救いたいの。だから、力を貸してちょうだい」
ホワイトフィールドと目を合わせる。
相変わらず険しい顔だ。眉間には深いしわが刻まれ、口はへの字に歪んでいる。
部屋の中がしんと静まり返った。
ホワイトフィールドは口を開かない。
イチヨウは黙ったまま答えを待つ。
ここで言葉を重ねるのは逆効果だ。男自身が損得勘定を終え、納得しなければ協力は得られない。
若い秘書が三回、居心地が悪そうに尻をもぞもぞと動かし、四回ほどホワイトフィールドに縋るような視線を向け、数え切れないほどイチヨウに向かって歯を剥き出した────まるで猿の威嚇だなとイチヨウは思った────後、ホワイトフィールドはゆったりと口を開いた。
「ブラックウッド卿を殺すということなら協力はできないが────幼い子供を性的虐待から救うことには賛成しよう」
イチヨウは目を大きく見開き、頬の肉を僅かに引き上げた。胸元で祈るように手を組むことも忘れない。
「ああ、良かった」
今までよりも高く、明るい声を上げるように心がけた。
傍目には、ホワイトフィールドの言葉に感激して、思わず歓声を上げたように見えたはずだ。
「あなたの他に頼れる人がいなかったの。これで、やっとあの子を助けられるわ」
────イチヨウとの
「なあ旦那、本当にやるんですかい?」
迎えの車に乗り込んだホワイトフィールドの後に続いた若い秘書は、いかにも不満げにそう言った。
首は動かさずに、視線だけでちらりと秘書の方を見る。
ホワイトフィールドのすぐ隣に収まった若い秘書は、幼い子供のように大きく頬を膨らませていた。
「不満かね」
「だって··········あんな、あんな女なんかの言うことホイホイ聞いちゃうだなんて、旦那らしくないですよ。俺の言うことは全然聞いてくれないのに」
「そう妬くなよ。心配しなくとも、あんな不細工よりお前の方が良いに決まってるだろう」
「本当か!?」
つい先ほどまでしなしなと萎れていたのが嘘のように、若い秘書は顔を明るく輝かせた。
秘書と名乗らせているが、この若者ができることなど何も無かった。傍に置いているのは、目の保養になるからだ。
仕事では何一つ役に立たないが、元よりそれは期待していない。そもそもこの秘書に意見を求めようと思ったことはない。
愛玩動物は、ただ主人の傍に侍り、主人が望む時に、主人がしたいように愛でれば良い。
「ああ、本当だとも────そうだ、不安にさせたお詫びをしよう。何か欲しいものはあるかね?」
「え、え、良いのか!? じゃあ、じゃあ────」
ダイヤモンドの時計、有名ブランドのネクタイ、美しい夜景の見えるレストランでの
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