お屋敷もの(太・中・鷗・蘭)
「―善し。休憩だ、楽にしてくれたまえ」
妙に柔らかな響きを持つ家令の声と同時に中也の全身から勝手に力が抜けた。糸の切れた人形のように弛緩した四肢を投げ出し、虚ろな目で部屋の中を映す。
一番最初に映ったのは若干慌てたような心配しているような色をのせた蘭堂の顔だ。教育係らしく厳しい表情を作っているが、胸の前で構えた鞭が所在無さげに揺れている。
背景の此の部屋の装飾は疲労でぼやけて見えなかったが、相当の金子を費やして造られ、年月と手間を重ねて権威を重厚に纏うようになったそれらは、容易に脳裏に描き出せた。何しろ出入口や窓、調度の配置を完全に覚えるまで何十周も屋敷内を歩かされたのだ。此れでまだとりあえず中也が役目で行き来する部分だけ、と云うのだから恐ろしい。
「何? 情けなーい。此のくらいでバテてたら何も出来ないよ。野生に帰ったら?」
「あァ?」
頭の後ろから、尖った少年の声が聴こえて、中也は反射的に敵意のこもった応えをしていた。
「……野犬……」
隣に置かれた全く同じ拵えの椅子に少年が座っている。厭そうにそう呟いて顔を背けた彼は黒の蓬髪、如何にも此の屋敷の子供らしい白い襯衣に黒の上下に何故か顔や手首を被う包帯をその衣装として馴染ませていた。
中也と違って此の休憩時間も頬杖を突く程度の寛ぎ具合で余裕そうだ。
太宰治。……中也は此のいけすかないお坊ちゃんの為に此所にいる。
「俺は犬じゃねえ。……ったく、黙って立ってるなら一日でも一晩でもやれるがよ……」
「……じゃあ番犬」
「犬じゃねえ、つってんだろ」
先の戦争から帰って来なかった父も兄も軍人、兄の友人で何かと援助をしてくれた蘭堂も元軍人だ。中也もそちらの適性が高いのか、その真似事は苦もなく出来た。
だがついさっきまで午前を丸々使って行われた訓練は中也には不向きだったようだ。
(いや……向いてる人間いんのか……?)
うんざりと思い返しながらそう胸中で独り言る。
此の座り心地の好い椅子の上で背筋を伸ばしたまま延々話を聞くのだ。
帳面に話の内容を書き取ることもしない。ただ誰でも知っているような建国伝説やら王族の偉業などを聴かされるだけだ。時々続きを話せと振られ、答えられなければ鞭が手の甲に当てられる。集中力の低下や疲れで顎が落ちてくれば下に差し入れられた鞭に引き上げられて正される。
痛くはない。それよりその度に子犬の様に潤んだ目をする恩人の方が堪える。
(俺に戦い方を教えたときは容赦なくボコボコにしてくれたってのに、何なんだよ蘭堂の旦那は……)
「……蘭堂君も武張ってるんだよねぇ……。自分が苦手なことを中也君にさせるのは気が引けるかい?」
「……むぅ……そんなことは」
何やら部屋の外に指示を出して戻ってきた家令……森にからかうように云われ、乏しい表情を多少困らせて蘭堂がもごもごと抗弁する。
喧嘩腰になったせいで多少戻った活力を使って中也は体を起こしたが、面白そうに一瞥しただけで咎められはしなかった。代わりに「嗚呼っ! 駄目だよ太宰君、リボンを解いちゃうのは!」などと叫んでせっせと結び直したりしている。
「却説……そろそろ昼食だ。充分休憩はとれたかな?」
物凄く不本意そうに首元をいじる太宰の腕を掴んで制止しながら、そう此方に笑顔を向けてきた森に中也は声に出さず呻いた。
昼食の間もマナーの訓練になってるのだろう。……折角の馳走も味が分からないに違いない。
「森さん、詰め込みすぎじゃない?」
「私もそう思うけど、付き人がいないと学校に戻れないのだよ、太宰君」
「学校戻りたくないもん。詰まらないし」
「確かにもうあの学校の授業など君には不要だろうが、卒業しないと社交場に出れなくなってしまうよ。あ、それとも此の屋敷でずっと私と楽しく暮らすかい?」
「嫌」
「だ、太宰君……」
最短で提案を拒否され、崩れ落ちつつも何故か満面の笑顔の森と、絶対零度の無表情になった太宰を怪訝な顔で眺めながら、椅子から立ち上がった中也は伸びをした。
「中也君、太宰君のエスコートを」
「……応」
気がすすまないが仕方ない。
相手に近付くとこちらも思い切り眉間に皺を寄せていた。
(……やっぱ気に食わねえな)
込み上げてくる警戒心か嫌悪感にちりちり神経を焼かれながら中也は手のひらを差し出した。
〈了〉
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