不思議の国へようこそ!(アリス鏡花ちゃん)

 深夜。月明かりがカーテンの隙間から零れる満月の夜。

 寄宿する社員寮の一室で泉鏡花はゆっくりと瞼を開いた。

「―?」

(敵襲? ……違う)

 急な覚醒の理由を探して自問してみるが、其れにしては緊張の気配が薄い。

 この建物に起居する探偵社員はこの魔都ヨコハマでも百戦錬磨の異能者ばかりだ。何か異変が有れば、皆目を覚ます事だろう。

 其の認識に安心してばかりではいられないが……と、自身で気配を探りながら鏡花はじわりと焦燥感が浮かび上がったのを感じた。

(……誰も起きてない、……むしろ……誰も、いない?)

 静か過ぎた。

「……っ」

 布団を跳ね除け、枕元の携帯電話と短刀を掴み、窓の正面に体を重ねない為畳の上を滑るように低い体勢で移動し、押入れの横の壁に背中を預ける。

 衣擦れと黒髪の床に落ちる音が静寂を揺らしたが……此の動きで敵の注意を引いてしまっても構わない。むしろその方が好都合だ。

 鏡花の今の最優先事項は同居人の少年―中島敦の安否確認だった。

 彼はこの押入れの下の部分を寝床にしている。ほんの数時間前確かに入っていくのを見送ったが……此処まで近付いても寝息ひとつ聞こえなかった。

 即座に短刀を片手でも抜けるように夜着の帯に鞘を押し込みながら、押入れの縁に指を当てる。僅かに開いた隙間に差し込むと一気に押した。

 ガタン、とそれなりに大きな音をたてて半分ほど開いた襖をそのままに、鏡花は手を引っ込めると呼吸を数える。

 ひとつ、ふたつ、……反応無し。

 体の大部分を壁に隠し、押入れの中を覗き込むと……其処はもぬけの殻だった。但し、

(……?)

 生き物の温度が残る暗い空間の少々乱れた布団の上に、兎のぬいぐるみがある。

 トラッドスタイルの茶色い上下に白いリボンがついた金色の懐中時計。鏡花の知らないぬいぐるみだ。兎を好む鏡花は社員や知人からそのモチーフの贈答品を時々貰うが、此の兎には覚えがない。敦が購ったものだろうか。

(下に何か敷いてある?)

 忽然と消えた敦の気配と痕跡に目を凝らしながら、そのぬいぐるみに手を伸ばして持ち上げると、それは開かれたままの本だった。

 重りが無くなったためか、僅かに紙の擦れる音をたてて浮き上がったその頁には、英字で一行だけ書かれている。

 鏡花の夜目が効くためか、紙が白いせいか……其れはこう読み取れた。


『Welcome to Wonderland!』


「!」

 脳裏に其の短い文章を浮かべた途端、本から発した光に身構える間もなく包まれ……パタンと本の閉じる音が誰もいない部屋に響いた。


 ふわり、ふわりと落ちていく。

 椅子、柱時計、絵画、花瓶、絵本、遊戯札、鍵……様々な調度品が浮かぶ奇妙な空間を、鏡花はゆっくり落下していた。水に沈むような速度だったが、そのような抵抗は感じない。

 ただ体の周りにリボンや白い縁飾りのついた青い布地が傘のように広がっている。

 どうやらエプロンドレスのようなものを着ているようだ。気が付けば一本の三編みにしていた髪も二本の束になっていた。触ってみると普段自分でそうするより高い位置で結ばれているようだ。

 手に持っていた携帯電話や短刀は消えている。が、直前に手に取った兎のぬいぐるみは残っていた。

 其れを両腕で前に抱えて、落ちていく先を見極めようと体を傾けると足が硬い床に付いた感触がした。

 即座に反応した鏡花はふらつかぬ様に腰を落として姿勢を整える。

 そのまま素早く左右を警戒した。まだ調度品は頭上に浮いたまま、薄暗い広間としても壁が全く見えないような広さはあり得るのだろうか。

「此処は、一体……」

 あまりの奇妙さに呟く。直後、視界の端を過ぎった白い影にハッと顔を向けた。

「あれは、兎?」

 何処かで見た茶色の上下、手には白いリボンのついた金色の懐中時計、白い髪に覆われた頭部から伸びる白い……長い耳。

 あっという間に遠ざかって行くその後ろ姿は、鏡花の探す同居人の少年そっくりだった。

「―待って!」

 最早点のようになったその兎の少年を追い掛け、今までの警戒を全て投げ捨てて、鏡花は全力で走り始めた。


 その腕に抱いていたはずのぬいぐるみが一冊の本に変わっていることに気が付かないまま。


 To be continued...?

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