残暑見舞い申し上げます!(敦・太・国)

 夏、だ。

 ヨコハマは大都会だ。そう云うとコンクリートジャングルのように思えるかもしれないが、此処は古くからの港湾都市である。街並みは管理され、街路樹、公園など、意外なほど緑に溢れている。

 そう、自然豊かだ。

 武装探偵社の社員寮が真夏のロックアーティストのライブ会場になるくらいには。




(……暑い……)


 しかも五月蝿い。

 表記し難いほど重なり合った蝉の鳴き声に、抗議する気力もなく。中島敦は社員寮の一室、畳の中央で伸びていた。

 短い生命を爆音で表現する演奏の合間に、清涼感を与えようと古き日本の心がチリンチリン、と控えめに伴奏を添えていたが……効果は今ひとつである。


(……風鈴が鳴る程度には風があるんだな……)


 しかし如何せん気温が高すぎるようだ。コンクリートジャングルとはいかずとも、その割合が多いのは事実である。窓から見える景色が熱せられた空気でゆらゆらと歪んでいた。

 熱風しか入って来ない窓だが……僅かに伺える青空は爽やかだ。

 敦は熱気に蒸された頭でぼうっと、その空と、手前にいる人物を眺めた。

 この部屋を敦が訪れた直後からその人は同じ場所にいる。まるで絵に描いたように窓枠に背中を預け夏空と蜃気楼の街を背景に文庫本を開く横顔と姿を観察した。

 特に表情は作らず静かに視線を文字の上に落とす瞳は流石に少々うんざりしてるように見えた。額が汗で濡れている。

 部屋着らしい薄手の紺色の浴衣は少々はだけられていたが、彼の場合はそれで肌の露出面積が増えるわけではない。きっちり包帯は巻かれていた。

 文庫本を持つ手とは逆に花火の絵が描かれたうちわが握られているが、時折揺らめくだけでその機能への期待は大分損なわれているようだ。

 パタン、と文庫本が閉じられる。ゆっくり瞳が伏せられた。


「―あーづーいぃぃぃぃ」


 べしゃぁと畳に落ちて溶けた太宰治が夏に降参宣言を上げた。

 敦とほぼ同じ体勢で畳に倒れたまま、死んだ目が此方を捉える。多分敦も似たような眼差しで見返しただろう。それだけ気力を削られる暑さだった。


「敦君、一体何しに来たの」

「……何しに来たんですっけ……?」


 本日、敦と太宰は有給休暇日である。他の社員は皆、探偵社に詰めていてこの社員寮の建物にいるのは二人だけのはずだ。


「全く私としたことが……油断したね。むしろ探偵社に行ってお茶汲みでもしている方がよっぽど休めたに違いない」


 普段の太宰さんより働いてますね、それ。

 脳裏に思い浮かべた感想が伝わってしまったのかもしれない。太宰の眼差しがちょっと剣呑になった。

 ただ直ぐに暑さに削られたのか死んだ目に戻ったが。


「此れはいけない……敦君、水風呂にでも入ろうか」

「……水風呂……」


 その単語に反応してむくっと起き上がる。確かに水でも浴びれば多少違うだろう。

 にやあと太宰が笑った。


「よーし、じゃあ連れて行ってくれ給えー」

「ええ……」


 別に忌避する気はないが、暑いんじゃあなかったのだろうか。にゅるんと畳の上から半身を起こした敦の背中の上に移動した太宰は、顎を白い髪の上に載せてぼやいた。


「うーん……今日の敦君はちょっと獣臭い……」

「ええ⁉」


 確かに大量に汗をかいていたであろうが、あまりに酷い言い草である。

 出来る限り急いでずるずると太宰の長身を引きずりながら風呂場へ向かった。

 狭い浴室だ。だが洗い場も浴槽も何とか二人で入れるくらいの大きさはある。ギリギリだが。

 浴槽の上部の壁に取り付けられたホルダーからシャワーヘッドを外して栓を開ける。


「うわぁ⁉」

「あー、お湯になっちゃってるね」


 勢いよく噴き出した水流の温度に悲鳴を上げる。

 もしかして水蒸気が混ざっているのだろうか、雑音混じりに水量を変えるシャワーに不安になった。


「この建物の水道管、大丈夫なんですか⁉ 破裂しません⁉」

「う〜ん……今度国木田君あたりと相談しようか」


 上司の苦笑いを見ているとシャワーから聴こえる異音が収まってきた。

 恐る恐る指を濡らしてみると水になっている。


「おお、水風呂は出来そうだよ敦君」

「良かったです……」


 取り敢えず肘の辺りまで水に濡らしながらしみじみと安堵の声を上げた敦は、横でひょいと浴衣のまま浴槽に入った太宰に目を瞬いた。


「脱がないんですか?」

「敦君のえっち」

「はァ⁉」

「あははー、もう面倒だからこのままでいいや♪」


 敦の持つシャワーヘッドに飛び付いて、首筋に冷水を当てて幸せそうな声を出す太宰を半眼で見ながらとりあえずベルトを抜いて、浴室の外に投げた。

 ……なんで休みなのにいつもの服を着てしまったんだろう。


(……汗で張り付いてズボンが下ろせない……)


「もうそのまま入ってしまったらどうだい? 着替えは貸すよ?」

「お願いします……」


 浴衣と全身の包帯に水を含ませた太宰が、鎖骨付近に水を遊ばせながら云うのに頷いて、浴槽の縁を跨いだ。


「はい、いらっしゃーい」

「ひょう⁉」


 しゃがみこんだ途端に後頭部にシャワーを向けられて思わず悲鳴を上げた。

 じゃぶじゃぶ髪の間に水を通すように手を添えて漱がれて一気に熱気が洗い流される。ふあーと云いながら浴槽の縁に顎を乗せた。


「一通り汗を流して。終わったら排水口の栓を閉めよう」

「はい!」


 シャワーを渡されての指示にしゃっきりした返事を返し、とりあえず水流で布地を浮かせるようにして脚から引き剥がす事に成功したズボンを洗い場に落とす。

 ネクタイは外してあるので襯衣はボタンを外すだけだが……太宰が長身を活かして浴槽の側へ引き寄せたものを見て、敦は首を傾げた。


「髪の毛洗うんですか?」

「うん、敦君がね」


 そんなに臭ってただろうか。一瞬そう思ったが、どうやら違うらしい。


「水で濯いだだけで軋んでるよ、敦君。私が君をふわふわのもふもふにしてあげよう!」

「結構です」


 これ以上ないぐらい極上の微笑みを浮かべた太宰にすげなく敦は断りの文句を返した。


「僕をもふもふにしてどうするんですか⁉ 白虎には触れないんだから意味がないでしょう」

「ジェネリックもふもふ」

「訳が分かりません」


 同じ効果か怪しいものを試しに生産しようとしないで欲しい。

 突然真顔になった太宰に此れは暑さのせいだろうかと悩み始めたが(一瞬で悩むまでもない何時も通りだ、と思い至った)、その隙にシャワーヘッドを奪い取られる。

 涼を得る為だろう自分の首筋に当ててにんまりしている。


「ふっふっふっ……さあ抵抗は無駄だ! 観念し給え!」

「にゅわああああああ!!」


 洗い場に頭だけを出すように拘束され、容赦なく頭髪洗浄剤シャンプーをかけられて髪の毛と頭皮を揉まれながら、敦は悲鳴を上げた。

 両腕がろくに動かせないと思ったら、捲り上げた襯衣で肩周りを絞っている。序でに浴槽の中の泡が落ちないように堰にしているようだが。

 ──何でこんな人を無理矢理洗うのに慣れてるんだ⁉ この人は!!

 器用な男なので別にこれが初挑戦でも不思議ではないかもしれない。敦は諦めてだらっと浴槽の縁にもたれかかった。

 襯衣が傷む方が心配だ。


「おー、いいこいいこ」

「僕は虎になるけど虎じゃありませんてば……」

 

百も承知でやってるだろうことは判っているが、ぐるぐる唸りつつ何気に上手い洗い方に語気が緩まった。

 しゃかしゃかと小刻みに指先が頭皮を満遍なく擦っていき、最後に頭をぐるりと撫でられて、流水を当てられる。


「本当はお湯でやった方が善いのだけどね」と水音の隙間から聴こえて、思わずガチな声で「勘弁して下さい」と言った。

「あはは……そうだね、私も嫌」


 しみじみとした太宰の声と同時に水音が止まる。正確には溜まった水に蛇口から出た水が落ちる音に変わった。

 ただ水が溜まるのを待つのが退屈だったんだろうなあ、と思いながら、髪の毛を絞り、序でに襯衣も洗い場に脱ぎ捨てて体を起こす。


「いや……しかし今日は本当に暑いねえ」

「……全くですね」


 肌に触れる水気の隙を余さず突いて、再び襲いかかってくる熱気にうんざりと言葉交わす。溜まった水に浸かってる部分はマシだが、水道を止めたらすぐ温くなってしまうのだろうか。

 多少は温度の低い浴槽の縁に頬を付けて体力温存を試みていた敦は、ふと車の駆動音と停止した音を拾って目を開いた。


「太宰さん、表に社用車が来ました」

「んー?」

「太宰ー‼」

「……国木田君だ」

「国木田さんですね」


 後頭部を壁に付けていた太宰と特に意味もなく頷き合う。

 その熱気を殴り飛ばすような声の主は、更に蝉の拍子ビートに挑むように規則的な足音を立てながら、この部屋の前に到着したようだ。


「太宰! 居るんだろう、開けるぞ! ん? 敦も此処か!」


 風呂場からは死角になってる玄関の靴を確認したのだろう。中々の騒がしさで一歩足を踏み込んだ国木田が、まず正面の畳の部屋を見て、そのまま首を捻って此方を見た。敦と目が合う。


「お前達、何をしている」

「一目瞭然じゃないか! 暑い、熱いよ、国木田君!

 昼日中の我が家が、此れ程地獄の釜の如き熱さとは、日頃勤労に励む身としては予測が付かなかったね! 私とした事がとんだ不覚をとったものだよ!」

「「は?」」


 思わず声が重なった。国木田に至っては青筋が浮かびかかっている。彼が噴火する前に敦はとりあえず言い添えた。


「まあ確かに僕が何時も帰ってくる時間には結構涼しいですけど」


 おそらく山から海へ向かう風が熱気を追い出してくれるのだ。


「……毎年、此所の改修の提案は出るがな、予算の都合がつかんのと仕事とトラブル解決に駆けずり回るうちに夏が終わって何となくそのままになる」

「忙しさは悪!」

「サボり魔のトラブルメーカーが何を云うか!!」


 駄目だった。水面が小刻みな波紋を浮かばせた気がする。


「あー、あー……国木田さんは! どうして此方に?」


 放って置くと漫談だかどつき漫才だかが終わらなくなるので、再び強引に割り込みつつ、敦はハッとした。


「──真逆事件ですか!?」


 国木田がわざわざ直接太宰を呼びに来たとなると大変な事件ではないだろうか。

 敦は慌てて立ち上がった。



「敦君、敦君、君今パンツ一丁」


 すぐにしゃがみこんだ。


「違うから安心しろ。しかし備品管理的には大問題が起きてるぞ。

 今年は中元やら手土産やらでやたら蕎麦を貰っているんだが、今日とうとう戸棚から溢れた。

 二人とも昼は未だだな? 胃を貸せ。出来る限り減らすぞ」

「行きます!」


 どうやら食費が浮く。鏡花も事務所で喜んでいるだろう。


「すごく敦君向けの用事だけど、真っ直ぐ私の部屋に来たのは何で?」

「乱歩さんが『最短で最速の手順』だと」

「成程」


 名探偵は何でも知っている、的な先輩二人の会話を聞きながら、その辺に引っ掛けてあったタオルを拝借して体を拭いていた敦は恐る恐る話しかけた。


「あのー、ところで着替えは……」

「ん? 嗚呼、上の部屋か」


 ちらと足元の脱ぎ捨てたままの服を見、心持ち上に視線を向けた国木田が目を閉じて米神を揉む。


「『最速』のうちには俺が面倒をみることも入ってるのだろうな……。仕方がない、」

「国木田君、敦君には私の浴衣を貸すよ。多分、上の部屋は閉め切りで凄まじい暑さだ。行きたい?」

「……何処だ、押入れか?」

「あ、えーっと下着は?」

「諦めろ。どうせすぐに乾く」

「うう……」

「あははー。国木田君、ついでに私の分もよろしくー!」

「甘えるな! むしろ普段から川に入ったままうろうろしているだろう、貴様は! 包帯を巻き直す時間はない。いっそ其れで来い!」

「えー、ひどーい」


 ぶうぶう云いながら浴槽から出てきた太宰にタオルを渡す。……染み込んだ水分まで拭き切れるだろうか。


「有ったぞ! ええい、暑いな! 冷房も日のあるうちはあまり効かぬという話だが、やはり壁の断熱か……? 丸ごと建て直しだ、其れは!」


 浴衣を広げて湿気と埃を払うように振りながら(代わりに熱気を得そうだ……)予定らしきものを組み立てているらしい次期社長に心中で応援を送りながら、敦は彼の方に夏の空気を掻き分けて移動した。


〈了〉

 自然乾燥したら頭が大変なことになった。


「……もふもふ」

「ふふふ……。敦君、耳が四つに増えてる」

「あーはっはっはっは!」

「あ、ひょっとして此れが見たくて迎えを用意したンですか?」

「──ううー……がう!」


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