After
神在月の夜に
神話庭園を巡る戦いから数ヶ月。
稲佐の浜……からほんの少し離れた港。ゆらゆらと揺らめく水面には月明かりが反射して、対岸へと続く橋のように海を照らす。
そんな光景が一望できる、景観を備えたその場所に停泊する一隻の戦艦型の海上レストラン、"ミカボシ"。戦いを終えて傷ついた船体も今ではその傷跡も分からぬほどに修復されて。
窓一面には月と星空と海が映り込み、この場所で一番の景色を堪能出来るようになっていた。
「いやぁ、やっぱ月見酒はいいねえ支部長殿!!」
そしてその景色を楽しみながらお猪口片手に陽気に話す青年、稲本。
「ったく、いい感じに飲んだくれて。仕事で来たんのにこんなに出来上がってどうすんだい」
やれやれと言った表情を浮かべながらも彼と同じように酒を口へと運ぶこの船の主人、麻雛罌粟。しかし彼はあまり酒には強くないのか、飲んでる量の割にはもう既に頬が紅潮し始めていた。
「ほら、戦いならまだしも事件の実況見分なんて適当に色々聞いて書いちまえばお終いだからへーきへーき」
「霧谷さんの懐刀がこんなじゃ、あの人も苦労してそうだねぇ」
「いやー、はははは……仰る通りです」
冗談混じりに麻雛夏至は口にして、言われた本人もやはり自覚はあるようで少し申し訳なさげにはしていた。しかしやはりその右手が止まることは知らぬ様子だ。
「それにあの人が本当に確認したい事は結と奴さんが暴走する可能性がどれくらいあるか、それをきちんと俺の目で確かめさせたいだけさ。んなもんあの光景を見たら有り得ねえのは一目瞭然なんだけどな」
この場には稲本と麻雛夏至の二人のみ。出雲に住まう彼女ら二人は今は稲佐の浜にて。約束をしたあの場所で、二人きりで満月を見上げている、との事だ。
神話庭園との戦いから数ヶ月。稲本は二人のその様を見届けた。
数千年ぶりの再会。
記憶が奪われても、存在を認識できなくなっても互いに互いを想い続け。彼らの活躍も相まってようやく果たされた約束。
その約束が果たされ確かな幸せを手にした今、彼女がその様な行動を起こす事がないのも、神話庭園の力が再び目覚めることがないのも火を見るよりも明らかだ。
ある意味彼はそう確信しているからこそ、こんな風に柄にもなく呑んだくれているのだ。
「全く。仕事って聞いてたけど、まさかこれがそうとは言わないでしょうね?」
「すみません、遅くなっちゃいました!!」
そして彼のお猪口が空になった頃、二人の声が聞こえた。
「はは、悪いけどこれがその仕事だ、黒瀬」
「ようやっと来たかい二人共。遅くなったのは別に構わないけど、私もこいつも出来あがっちまったよ、光ちゃん」
それぞれがあの時とさして変わらぬ様子で二人の前に立っていたのだ。
「全く……変わらないようね」
「何千年経っても変わらねえもんがこの世界にはあるんだ。たった数ヶ月で人間そうそう変わっちまったら溜まったもんじゃねえぜ」
彼はもう一つのお猪口に酒を注いで呆れた様子の黒瀬に手渡す。だが彼女はそれを受け取らず。
「悪いけど、今日は飲めないわ」
「おっと、確かに俺は仕事として依頼したけど実況見分は明日からだぞ?一杯くらい引っ掛けたって」
「違う。今は、私だけの体じゃないから」
稲本は何のことやら分からず。それは彼が生物学的に無縁だからか、彼が今までそういう事に触れてこなかったからなのか。
ただそうではない二人は気づいたようで。
「ああ……!!黒瀬さん、おめでとうございます!!」
「まさかまさか、めでたい事は先に言ってくれないと!!お前ら、赤飯の用意だ!!」
そして麻雛罌粟の言葉で彼もピンと来たようで。
「赤飯……成る程、おめでたって訳か。いや、本当におめでとうだわ」
あまりの急展開に酔いも覚めたかのように真面目なトーンで返してしまった稲本。ただ彼女が母になったからなのか、以前肩を並べて戦った時よりも纏っている空気が少し穏やかになったようにも思えた。勿論、その気丈さはそのままで。
「っと、二人とも到着したし、御馳走を運ばなきゃだね」
「私も手伝います!!」
「おお、助かるね光ちゃん。じゃあ折角だしお言葉に甘えようかね」
七海は長旅の疲れの色も見せず、いつも通りの朗らかさと共に彼女に着いていくように厨房へと向かう。
「っと、なら俺も……」
彼も二人に続こうと立ち上がるが、その足元は一歩目で僅かに揺らぎ。
「酔っ払いは座ってな!!その千鳥足で配膳できるわけねえんだから!!勿論黒瀬さんもだよ!!」
麻雛罌粟の叱咤にされ、しゅんとしながらも彼は即座に再度座り込む。黒瀬もふぅと一つ溜息を吐きながら、空いてる椅子に腰をかけた。
「本当、何度見てもあの時神話庭園に一太刀加えた人間と同じとは思えないわね」
「言ってくれるなって。スイッチ入ってない時はこんなもんさ。アンタだって旦那さんの前でも"
「ええまぁ、それもそうね」
呆れた様子の黒瀬に相変わらずの稲本。ただそんな彼も何か思うところがあったのか。お猪口に残ってるそれを一気に飲み干し、先程までの揚々とした様子から一転、少し落ち着いて。
「なぁ、黒瀬」
「何?」
「俺はアンタに礼を言わなきゃならねえ事がある」
「あの時の鎮痛剤の話?」
「ちげぇよ。いやまぁあれも感謝はしてるけど……じゃなくて!!」
「礼を言われるまでもなく私は、我々は報酬に見合った働きをしただけよ」
「いやまあそれも含めてだけどよ」
いつにも増して真面目な口調で彼は続ける。
「アンタ、奴さんを殺さないでくれただろ?」
「……ええ、そうね。でも、どうして貴方が?」
黒瀬からすれば色々と疑問ばかり。他人の事で謝れと言うこともあれば、他人を殺さないで礼を言う人間もそうそう居ないものだ。
ただ、彼にもそう言う理由があって。
「少なくともアンタの目を見れば奴さんにただならぬ殺意を抱いてるのは分かってたけどよ、それでもアンタ殺さないでくれただろ」
「共闘するってなった時点でそんな気も失せただけよ」
「それでも、さ」
ほんの小さな笑み。
「アンタが殺さないでくれたおかげで、結にとっての大切な人は死なずに済んだんだ」
「助けたのは七海よ」
「その後に殺さない選択肢を選んでくれたのはアンタだ。アンタがあの選択をしてくれたからあの子の未来は幸せな物になったんだ。だから、さ」
彼は深く、深く頭を下げる。
「エージェントではなく、彼女に関わった一人の人間としてアンタに感謝を」
決して酒に酔ったから、などでは無く。心からの彼の謝意。
「……本当、変わってるのね」
「復讐に駆られる奴の気持ちが分からない訳じゃねえから、な」
彼自身が同じ様に刃を研ぎ澄ましてここまで来たから。弾を込め続けてきた彼女の想いも、弾倉に弾を残したまま引鉄を引かなかった彼女の想いも、少しだけ感じ取れてしまったから。
「だからよ、今日呼んだ分の報酬は新しい生活の足しにでもしてくれ」
故に彼は彼女の行先を笑顔で願う。復讐無きその先に、彼女自身のハッピーエンドがある事を。
「感謝するよ。コマンダー」
「やめてくれやめてくれその呼び方は。前も言ったけどそんな柄じゃねえんだって」
「ああ、知ってるさ」
彼女も少し意地悪く笑顔で応えて。稲本も憑き物が落ちたような彼女の様に安心してか自然と笑みがあふれていた。
「なんだいなんだい二人で盛り上がって。まさか黒瀬さんに飲ませたわけじゃないだろうね?」
「いや、俺も妊婦に酒を飲ますまで畜生じゃないですよ支部長。ただ色々聞いてただけですって」
「そうかい、ならいいんだが」
「これ、ここでいいですか?」
「ああ、ありがとう光ちゃん」
稲本と黒瀬が話を終えたところで、二人と出雲支部のメンバーがその手に料理という料理を持って現れた。
そして彼らに用意された豪勢に豪勢を極め付けたような料理の数々。
「さーて、たんと食いな!!」
「頂くとしましょうかねえ!!」
「ええ、折角だし」
「いただきます!!」
和食から洋食まで、どれもが胃袋を揺する香ばしい匂いを発して。皿にとって口に運べば口の中が溶けてしまいそうな程に旨みが広がり、気がつけば自然と笑みを浮かべてしまう。
「いやー、やっぱり美味いもん食ってると幸せだわなぁ……」
「本当に、お給料までもらってこんなご馳走食べてバチが当たったりしないでしょうか……」
「大丈ー夫大丈夫。七海ちゃんとかは普段が激務だからちょっとくらい休んだって問題ないさ。俺はバレたら始末書を書かされるかもしれねえけど……」
「支部長、明日で構わないからレシピとかを教えてもらえないでしょうか……。その、今後家にいることも増えるから……」
「ああ、構わんよ。明日はレストランも休みにしてるからウチの奴らも暇だろうし。本当は門外不出だけど黒瀬さんには特別だ」
「ありがとう、支部長」
箸を、食器を進める手は止まらず。気がつけば口数も少なくなって、それぞれが無言になってしまう程に。
ただやはり彼女にも、ここに来たからこそ少し気になる事があって。
「その……あの人と結ちゃんはどうしてますか……?」
あの人、それはかつてマスターブロウダーと呼ばれ、この出雲で彼らと死闘を繰り広げた相手。同時に七海にとっては彼女の命を救った恩人であり、今まで彼女にとって戦う理由だったその人。
今はもうFHのマスターエージェントとしてではなく、この出雲で暮らしているとは聞いていたが具体的には何をしながら生きているのかは聞かされてなく。
「そういえば、私も詳しい話は聞いてませんでしたね」
「ああ、その事なんだけど……」
途端、稲本と麻雛罌粟は互いに見つめ合う。不気味にも思える程に笑いを堪えている。
「な、なにか変なものでも入ってたんですか……?」
「い、いや違うんだ七海ちゃん。ただな?」
「変なもんと言うよりは、この料理に答えが入ってると言うべきだな」
余計に不気味さは増していって。だが何となく、二人の回答から答えも察することができて。
「……もしかして、この辺の料理の食材、彼女達が作ったの?」
「ご名答!!」
「私もビックリしたよ。うちの支部の土地を幾らか分け与えて欲しいと言われて譲ってしばらくしたら大量の野菜が送られてきたんだからさ」
詳しく聞けば、彼女らは最初に交戦した村の跡の土地の一部を譲り受け、そこで生活の基盤を立ち上げたようで。しかし現代で生きる為には先立つものが必要ということは彼女達も理解していた。そこで何をしたかと言えば、彼女の持つ無限に等しい命に力を借りて土地を耕し、作物を育てる。そしてそれを三つ星レストランたるミカボシとのコネを起点として日本各地に売り込むという、あまりにも出来に出来た流通戦略。彼らが食していたのはまさにその戦略の始めたる作物達だったのだ。
今は田を耕し、来年からは米の流通をも画策しているようだ。
「何というか、こう……」
「そうなるのも無理ねえよな……」
かつての仇敵が想像を超えて平和に生きていた事に言葉を失いかける黒瀬。
「でも、もうあんな風に戦ってなくて良かったです……」
「ああ。何も問題を起こさないどころか、アタシらとしても助かってるくらいさ」
恩人が誰かの命を奪うことなく、大切な人との平穏な日々を過ごしている事を知って安堵する七海。
どちらにせよ、もはや彼女に明確な敵意や殺意といった感情はもう見受けられないようだ。
ただそれは同時、彼から七海への一つの疑問が生じて。
「七海ちゃん、相変わらず激務って聞いてるが本当なのかい?」
「はい。以前と何も変わってないですよ」
「その、奴さんはもう大人しくしてるんだし、もっとのんびりやってもいいんじゃないのか?」
何処の誰かのお節介が移った……訳でもない。ただ彼から見れば例えあれだけの実力を持っていたとしてもやはり七海は年頃の少女で、それでいて壮絶な過去を歩んできたのだ。
そんな彼女には、今まで歩むことの出来なかっただけの日常を、平穏を過ごす権利があると思っていた。
しかし、彼女はそうも思ってなく。
「確かに、私がイリーガルとして活動してた目的は果たす事ができました。でも私はあの人の大切な人が犠牲にならないようにしたいっていう理想を引き継ぐ……ってのはおこがましいかもしれないんですけど、それでも私があの人に救われたように、全力を尽くしたいんです」
その眼は光に、確固たる意志に満ち溢れていて。
「とは言ってもどうすればいいか分からなくて、今までと同じようにがむしゃらにやってるだけなんですけどね」
それでもはにかむ彼女の笑顔が、彼女が理想に溺れる事もなく走り続けていることを指し示す。
「大丈夫よ。貴方が倒れない限りは、ね」
黒瀬の言葉は七海の背を押すように。彼女は七海が"もしも"だけで語ることはなく、決して倒れることなく立ち続け誰かを守り続ける事を知っているから。
「七海ちゃんなら大丈夫さ。君は奴さんの攻撃も、あのクソッタレの攻撃も受け止めたんだから」
稲本も彼女ならできると確信して。それは未来を覆った影も、眩き命の光で振り払うのをその目で見たからこそ。
「でも無理はするんじゃないよ。もし困ったらアタシたちがいつでも手を貸してやるから」
麻雛罌粟なりのお節介。永く生き続け、それでいて託される重みを知ってるからこそ、彼女が背負いすぎないように手を差し出して。
紡ぎ紡がれた願い。それは彼女の信念を、想いを支え。
「ありがとうございます。私、絶対倒れませんから」
彼女も笑顔で応えて。そしてその笑顔が彼女なら大丈夫だと、彼女の行先も光に満ち溢れてると確信させた。
気づけば、皿の上の料理の殆ども無くなって。夜も更け月も真上に昇り、月見も佳境を迎え。
「さて、そいじゃあそろそろ団子の時間といこうか!!」
鬼たちと麻雛罌粟お手製の団子が取り出されて。
「よーし!!酒のつまみとして頂きますかねえ!!」
「飲み過ぎ無いでくださいね?」
「全く、本当に……」
皆も甘味は別腹と言わんばかりにそれに手を伸ばし、食の最後を楽しもうとひとつを口に放り込もうとした瞬間。
ガンッ、という鈍くも力強い音。誰もその音がドアが開いた音とは想像が付く訳もなく。そして彼女がここに居るとも、誰も予想が付くはずもなく。
「マ、マスターブロウダー!?」
「何、私がいたらダメなの懐刀?」
「いや、お前さん結と稲佐の浜にいたんじゃねえの!?」
想定外の彼女の登場に驚き、あまりの事に刀を創り出してしまったが、彼女は気にも留めず。
「だって貴方、この子に"皆んなで月を見よう"って言ったんでしょう?全員いるならちょうどいいじゃ無い」
「いや、まあ確かにちょうど良いっちゃ良いけどよ!?」
気づけば彼女の後ろで少し申し訳なさげにしている結。
麻雛罌粟と七海は少し困惑しながらも彼女をなだめようとして。少し睨みを効かせながらも一つ溜息ついて団子片手に腰掛ける黒瀬。
終わったはずの宴も、気がつけばまた新しく始まったような気がした。
「その、すみませんこんな風に皆さんを巻き込んでしまって……」
改めて申し訳なさげにする結。
「ああ、いやいいんだ」
稲本は刀をしまいながらも、穏やかな笑顔で彼女に応える。
「それよりお前さんこそ良かったのか?二人っきりで月を観てたんだろ?」
「二人で話してここに来たんです。皆さんがここにいるなら、私はちゃんと皆さんに救われたんだって、今幸せだって伝えたい……って話してたらいつの間にかミカボシまで来ちゃってました……」
小さくはにかむ様子。月明かりに照らされるその笑顔は年頃の少女らしく、それでいてこの場の誰よりも幸せそうで。
「……なら、俺たちが命賭けた甲斐があったってもんだ」
優しく、優しく温かな手で彼女の頭を撫でる。そういえばこんな風に撫でて大丈夫だろうか、なんて考えも少女の笑顔と安堵した様子を見れば吹き飛んだ。
「ねえ、何してるの?」
「うおおお!?怖えよお前さんよ!?」
「お、落ち着いて!!」
剣幕に、今にも稲本を殺しそうな目で睨みつける彼女。なんなら既に少し振りかぶっていて。
「ほら、お前さん達もこっちに来な!!」
「結ちゃん達の分もお団子ありますよ!」
「早くしないと無くなるわよ」
そして気づけば皆、並んで月を眺めていて。
「行きましょう、稲本さん」
「っと、そんな引っ張るなって」
彼も少女に手を引かれるようにそちらへと足を運び、彼も窓の外を見上げる。
空高く、輪郭を空の闇に滲ませながらもはっきりと辺り一面を照らす。それは一片たりとも欠ける事もなく、満ち満ちていて。
「ああ、全く、今日の月は————」
多くの物が変わる中で、決して変わる事のなかった契り。積み重ねられた彼女を救いたいと願った彼らの想い。
それら全てが結ばれ合って生まれた縁と約束の物語。手にした未来は、幾星霜も変わる事のない月明かりに照らされて。
「いつにも増して、綺麗だな」
全ての約束が、ここに果たされた。
終
神話庭園 the Novel 芋メガネ @imo_megane
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