第11話 結ぶ
白き月が空に昇る。
闇に滲んだ水面を照らし、夜空と地上に橋をかける。ただそれは人が渡ることは能わず、いつの日か神が空へと赴く為に使ったのだろうか。
そんな想像を巡らせてしまうほどには光は闇夜を拓いている。それこそ星のまたたきさえもかき消すほどに。
月齢にして十四夜。マスターブロウダーとの戦闘から五日。
あれから不気味と言うほどに何事も無く平穏な時間が流れた。少女の記憶は未だ戻らずとも、ある程度彼女の素性については予想はついた。
恐らく彼女は古代よりタイムスリップしたか、或いは長い時を眠り続けていたか。どちらにせよ現代の人間ではないということはここ数日彼女と交流を続けてきた彼らの中でも一致していた。
そしてマスターブロウダー、彼女は大きな行動は起こさずとも確実に、確実にその時の為に動いているのも確認できた。あの村を中心にして彼女の死の群勢は数を増し、その戦力を増やしに増やしている。狙いは確実にこのミカボシであり、そして行動を起こすならば今日であると分析班も結論づけていた。
だからこそ今も流れる平穏があまりにも歪で警戒は怠らず、それでも張り詰めすぎないようにと夕餉を囲む。
「……ふぅ。食生活が恵まれるのは、ありがたいわ」
「……もう明日が満月ですね。思ったよりあっという間に日にちが過ぎた気がします」
「まぁ、皆さんのお口に合っていれば幸いなのですが」
黒瀬はその時のためにと英気を養い、七海は窓より月を見上げて、麻雛罌粟は皆のためと鮭のアラから作ったスープを装っていて。
「こんだけうまい飯食って平穏に過ごせるなら移籍もアリかもなんて。何より月が綺麗に見えるのもまた、な」
稲本も気の抜けた様子でそれを受け取って、徐に椅子に腰掛ける。
「このままの時間が過ぎればいいのだけれどね」
ただ彼女もそうは言いながらも懐に備えている全ての銃火器のセーフティを外す。七海も愛用の盾をその身から離すことはなく、麻雛罌粟自身も彼女の部下に逐一連絡を取り警戒は怠らない。
マスターブロウダーが神話庭園を狙うならば、この少女が狙われる可能性は大いにあり得る。故に万全の守りを、確実なる体制で彼らを迎え撃つ。
そんな中、少女は窓に張り付くように月を眺めていて。
「どうした嬢ちゃん。お月さんはそんなに見張ってなくても逃げねえぞ?」
彼は優しくいつものように笑みを浮かべて問いかける。ただそれに対して彼女は少し寂しげに。
「その、綺麗なのはもちろんですが、とても懐かしい気がして……でも……やっぱり何も思い出せなくて……」
その月は満月に似ていて、きっとそれは彼女の胸の奥底に眠る約束を思い起こさせるのだろう。けれど白き光の前でも記憶に靄はかかったままで、それが余計に彼女の心を苛ませている。
彼女を彼女たらしめるものは全てどこかに置き去りにされて、最後に残った約束さえも不確かで。
「……嬢ちゃん、名前の方も思い出せてないんだっけか」
「そう、ですね……」
今、彼女をこの場所に繋ぎ止めるものはあまりにも少なすぎるのだ。
オーヴァードを日常に繋ぎ止めるのは人と人との繋がり。されど人を人たらしめるのは名前や記憶といった個、そのもの。
確かに彼女のページは今は彩に溢れ、幾つもの新たな記憶が綴られている。それでも今の彼女にとってその書物は表題が消し去られてしまっているも同然で、それこそ人としての輪郭を失ってしまっている。
名とは、ただの文字の羅列かもしれない。
けれどそれは人に輪郭を与え、その人を象る物。誰かの願いを形にした、そのものだ。
それを彼は知っていた。己もあの人に付けてもらった、大切な名前があるから。
己が名前に込められた願いも知っていたから。
だから————
「……その、あれだ。このままずっと嬢ちゃんって呼ぶのは不便だからよ、もしお前さんが嫌じゃなければ今から俺はお前さんの事を、『
その彼の言葉に少女は少し不思議そうに、驚いた様子で。
「あっと、えっとだな……約束を、縁を結ぶって意味で結なんだが……どう、だろう……か」
逆に彼は自信の無さからかどんどんと声は小さく、その視線は救いを求めるように仲間たちの方を向いていく。
「可愛いじゃない。私はそれで構わないわ。いつまでも貴女や少女じゃ、可哀想だからね」
黒瀬はほんの少し、懐かしみながらも彼を称賛するように応えて。
「そうですね。私としてもいつまでもあなたってのはどうかと思いますし」
七海も笑いかけながら、少女に寄り添うようにして。
「稲本さんがそう名付けるのでしたら、私は構いませんよ。少女ちゃんはどう?」
麻雛罌粟が少女に問い掛ければ、彼女もその表情を綻ばせ小さく笑みを浮かべて。
「結……ですか。ありがとう……ございます……。とても、うれしいです」
少女はその名を噛み締めるように何度も口にして。その瞳は誰が見ても輝いて、ほんの少し揺れてるようにも見えた。
「よ、よかった……」
そしてその様子を見た彼は肺に溜まっていた息を全部吐き出し力を抜く。
「名前って色んな意味込められてるし……名づけるなんてしたことねえしで不安だったから……」
「いえ、いつもは私が名前を付ける立場だったので……新鮮でとても嬉しいです」
少女、結は心から弾んだ言葉を口にして、稲本はそれにより一層安堵した様子だった。
同時、彼女の言葉が引っかかった。
「名前を付ける立場だったんですか?何か動物を多く飼ってたとか……?」
七海は疑問に思うと同時にその事について尋ねる。そうすれば結はあっという表情と共に口を開いて。
「あ、えっと、その……"イザナギノミコト"様の巫女としての仕事でもありまして……」
「え……その名前って……?」
この場の誰もが知っている。イザナミノミコト、それはこの日本を創り出した始まりの神。
同時、思い出す。その対となる神の名を、イザナミノミコトを。
そして死を司る、彼女の事を。
————衝撃。
「っ……今のは!?」
船が大きく揺れ、艦内にその振動という振動が伝わり轟音が鳴り響く。
「戦闘員、各自所定の位置へ付け!それ以外の者は即刻避難区域へ退避!これより、ミカボシは戦場へと移行するぞ!!」
即応。艦内に麻雛罌粟の声が響き渡り一気にその場の空気が張り詰める。
「クッソ……嫌な予感ってのは当たるもんだな……!!」
先程までの緩みが嘘のように稲本はその手に刀剣を創り出し、即座に戦闘態勢へと移る。
「このタイミングで、ですか……」
七海も直ぐにケースよりその盾を取り出し万全を整える。
「さて、食後の時間には早いけど……頑張りましょうか」
そう言ったその手には既に拳銃が握られている。無論、安全装置は外されている。
だが状況は最悪。既にミカボシ内部への侵入を許し、彼女の死の軍勢は次々と船内を制圧しながら迫り来る。
ただ、少し不思議とも思える報告に麻雛罌粟は疑問を拭えぬようでいて。
「どうした支部長殿!?」
「いえ、一般職員や非戦闘員の被害は無いと……どうして……?」
これが戦争ならば容赦も感慨もなく敵は全て皆殺しにすべきである。にも関わらず、彼女達はその誰にも危害を加える事なくこの場所と遺産保管庫を目指し進んでいるようで。
「いや、今はいい!遺産保管庫へ続く通路のシャッターを即刻閉じろ!あそこの近くに支部員は居ない!なるだけ早く頼む!!」
「ふん……変わらないわね、そう言う所」
黒瀬はその事を聞いて些か気に入らないといった表情を浮かべたのち。
「支部⻑、うちの兵隊を保管庫の防衛に向かわせるけど、大丈夫?」
「黒瀬さん、申し訳ありません。宜しくお願いします!戦闘員、一般支部員の保護に一応回れ!アレは危険だ、私がやる!」
その言葉に黒瀬は頷き、無線の周波数を彼らに合わせ。
「ジャック、レイン、保管庫へ。こっちは、客人を出迎える」
「ラジャー」
「了解」
二人の返答を聞いて、そのまま流れるように二丁のガンブレードをその手にした。
「何で、そういうことをする気はあるのに……」
その一連の流れを聞いて七海は悲痛な顔をして、それでも決して盾を握るその手を緩めはしない。
「結、お前さんはどっかに隠れて大人しくしてるんだ。いいな?」
傍で稲本は結に優しく微笑み、彼女を安心させようと努める。結もそれには小さく頷き、一歩踏み出そうとした。刹那。
————血の匂い。
死が、蔓延する。
「今ここにイザナミノオオミカミの
足音、と共にむせ返るような、濃縮された血の匂いがして。
「死の穢れを齎し咎を喰らいたる」
生ける者はただ一人。されど纏いし死はその誰よりも重く、深く。
「死の刃を持つヨモツイクサをここに
その死が、今この場所に溢れ返る。
そして禍々しいまでの穢れを齎し、咎を負う者達がそこに姿を顕現した。
「結ちゃん!!」
現れたそのヨモツイクサによって彼らは取り囲まれ、結の姿もヨモツイクサに阻まれ見えなくなる。
「これで逃げ道は塞いだ。そして数日振り、と言ったほうがいい?」
そしてその死の群れの中心に立ちし彼女、マスターブロウダーは稲本の方を向いて厳かに口を開いた。
「こんなしがない剣士を覚えてもらっててどうもだ。で、なんだ、わざわざ雑兵の俺を殺しにここまで来たってか?」
彼は相変わらず飄々とした態度を見せるが、決してその所作の一つにも隙は見せず。いや、むしろ誘い込むように揺らめいて。
「懐刀を雑兵呼ばわりする者がいたら、そいつは素人かうぬぼれた愚か者」
「へぇ……案外評価してくれてるのかい」
けれど彼女はそれさえも見逃さない。稲本の内なる殺気さえも彼女は見抜いていた。
「合理的ね。結と離されるとは。目的は普通に考えて、彼女か」
黒瀬は冷静に状況を見て、冷き眼光を彼女に向ける。
「それで、何か用かしら?結ちゃんを攫った以上、目的は完遂した。なら、あとは逃げるだけじゃないの?そんな非合理的な事をするジャームだったかしら、貴女?」
その言葉は稲本とは対称的に、敵意をむき出しにして投げかけて。
「結……?」
けれど、彼女はその言葉には疑問を呈する。その反応は黒瀬にとっても予想外で。
僅かな膠着。されどそのまま彼女はそのまま言葉を続ける。
「出雲のUGN及びFHの遺産は全て無力化、破壊は完了した。私からの要求はただひとつ、神話庭園を引き渡すこと」
「神話庭園を渡せだ……?俺らが持ってりゃそもそも探しにも来ちゃいねえよ」
「現在、神話庭園の行方は私達も不明です。勿論あなたの様なものに確保させる気も無いのですが」
稲本と麻雛罌粟の回答は、彼ら全員の見解そのもの。
結は神話庭園に関係していない?
いや、そもそも神話庭園はこちらにある?
何にせよ何にも繋がらない点が今いくつも生まれて。
「……非戦闘員には手を出さない。そんな手段を選べる程度には切羽詰まってないんですよね?」
その中、七海が一歩前に踏み出して彼女に言葉を投げかける。
「だったら、何でこんな、UGNだけじゃなくFHからもヘイトを買うようなことしてるんですか!?もっと穏便な方法はないんですか!あなたの約束っていうのを果たすためには!」
それは今にも泣きそうで、それでも必死に堪えながら振り絞った声。
————理解できるから。
彼女が目指す世界も、その原動力たる想いも。
————理解できないから。
そのようなやり方しか、破壊でしかそれを成し遂げんとする理由が。
だから、こんな状況でも問いかける。言葉を投げかける。まだ、諦めたくはないから。
「もうこれしかない。そしてこれは……私の、イザナミノミコトの巫女として為すべきこと。もう時間がない。これしか、ない」
それでも、彼女は答えず。
「遺産は全て無力化させなくてはならない。これはその為の事前準備。もちろん、わかってもらおうとは思っていない」
頑なにその真意を答えようとはせず。
「もう犠牲は、これで最後にする、その為にも神話庭園を確保しなくてはならない」
目は伏せて、けれどその瞳は決して揺らがず、意志は固く。それはもはや狂気の域にまで達していた。
「七海さんだったかしら?」
黒瀬も、一歩前に踏み出す。
「ジャームに対話は無意味よ。それにもう彼女は恨みを買い過ぎてるわ。手遅れよ」
静かに言葉を紡ぐ。ジャームが救えぬもので、その狂気に堕ちた眼を引き戻す方法がこの世界にはない事を知っているから。
何より————
「……手遅れかなんて、分かんないじゃないですか。それにまだあの人がジャームって断言できる証拠だって……!!」
「いい加減にしなさい!!七海光!!」
叫ぶ。
「敵を前にもしもを話すな!!あれは敵!!そしてこちらは守るべきものがある!!ならば、それ以上を言うな!!」
躊躇いが、迷いが死に直結するものであると知っているから。七海の今の状態が自殺行為そのものだと分かるから。
「……私はこれ以上、目の前で仲間をあの女に殺されるのは御免なのよ!!死ぬなら、私の眼の外で死になさい!!」
何よりもう、かつての惨劇を引き起こさせるわけにはいかないから。
「……命の恩人なんです」
それでも七海は怯むことなく、黒瀬に真っ直ぐと答える。
「そんな人が、さも死ぬしかない大罪人のままなんて、許せないじゃないですか!!償いはいるかもしれません。けど、殺しておしまいになるかもしれなくても、私はそこで思考を止めたくなんてない!!」
それは彼女にとっての譲れない一線が、揺るがぬ意志がそこにあるのだから。
「死ぬつもりなんてないですよ……そんなの姉さんやあの人への侮辱なんてする気はないです……!!それでも、ただ『倒すべき敵だから」だけで終わるなんてしたくない……私は理解するのをあきらめたりなんてしない……!!話す気がないなら話してくれるまで粘る……理解できないとしてもわかり合えないとしても、話してくれなきゃ何も変わらないんです……!!」
そしてそれは戦うことができない、七海の覚悟の現れ。
「……もちろん、皆さんに迷惑をかける気はないですよ。私は死にません。そして死なない私が皆さんを守るから、皆さんも死にません。死なせるつもりなんて、ありません」
己も死なず、誰も死なせずに成し遂げんという狂気に近しい意志が彼女の言葉の一つ一つに宿っていた。
「……なら好きにしなさい」
そしてそれは、彼女に示すには充分だった。
「でもね、覚えておきなさい」
同時、彼女は重ねるように言葉を紡ぐ。
「恨みってのはどれだけ消そうとしても、消えないのよ。焼き付いた様に、こびり付いた様に、残るのよ」
己の胸に手を当てて、未だ消えず疼くその傷痕に誓うように。
「……恨みの晴らし方が殺すだけだなんて私は思わない。本人がそう思っているんだとしても、それしかない人がいるとしても、それだけが真理だなんて認めませんから、私は」
そんな彼女に、真っ向からぶつかるように答えて。
「あなた達にも護る者があるように、私には護るべき信念、約束がある。知りたくば、護り通してみなさい、七海」
「……その言葉、忘れないでくださいね」
彼女も、マスターブロウダーも彼女を認めるように、静かに言葉を投げた。
そして今、この場の誰もが神経を研ぎ澄まし、己が力の全てを解放する。
「目標、マスターブロウダーの無力化!あれは殺してはダメ!何らかの情報を知ってる可能性が高い!可能な限り生存させて下さい!これは、支部長命令です!」
響き渡る声と共に己が力を両の手に宿す。人ならざる鬼としての全ての力を、この正念場を乗り越える為。
「あの人をこれ以上ただの殺人⻤のジャームになんてさせない!!絶対に全員守り切る!!」
強き覚悟と共に大盾をその手にする。誰一人死なせない為に、そして彼女に誰も殺させない為。
「
冷徹に冷静に武器を構え照準を定める。目の前の敵を撃滅し、己が胸に染み付いた黒を晴らす為。
「ま、何にせよ……俺は俺の剣でこの信念を示すさ」
揺らがぬ動きでその手を柄に当て抜刀の構えを取る。ただ静かに、目の前の脅威を斬り伏せん為に。
「あの子との約束を必ず護る。それがイザナミノミコトの巫女としての私の、誓言……」
一歩踏み出すと同時、死の群勢も己が手にその武器という武器を構える。彼女自身も、その腕から生やすように赤き鉤爪を構える。赤は靡いて、その瞳が深い闇の中で鈍く輝いて。
「……イザナミノミコトの巫女。今ここに、参る」
少女は死を纏う。
ただ一つ、約束を守らんが為に。
————守り抜け。
降りかかる死から、その手にした固き意思で。
————打ち砕け。
迫る絶望を、誰かの想いを守る為。
————撃ち抜け。
未だ晴れぬ憎しみを、願いの先に進む為。
————斬り拓け。
眼前覆う闇を、交わした約束を果たす為。
これは互いの信念をかけた死闘の幕開け。
そして少女の物語は、今ここに結ばれる。
続
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