第7話 誤解されやすいタイプ

 ハッとして目覚める。アルマは慌てて目覚まし時計を確認した。

 やってしまった! 遅刻だと思い慌てて身を起こす。

 見慣れぬ景色に囲まれている事に気づき、アルマは困惑した。

 広い部屋だった。少なくとも、アルマにとっては。普通の人間からすれば、さして見る所のない平凡な一室である。一通りの家具が置いてあり、それなりの壁の厚さがあり、隙間風はなく、変な臭いもしない、ごく普通の清潔な部屋である。

 しばし呆然として、アルマは自分がニコと同じ下宿に引っ越した事を思い出した。

 そうは言っても、実感は薄い。なんなら、いまでも夢を見ているような気がしている。

 アカデミーにやってきてから、アルマは毎晩悪夢を見ていた。夢の中にニコが出て来て、人殺しと責め立てるのだ。彼が許してくれてからは、名も知らぬ生徒達が代わりに登場した。

 出て行け、人殺し、バケモノ、犯罪者、ブス、死ね、消えろ、魔王女――

 それがここでの日常だった。

 なのに。

 今日は夢を見なかった。

 そのせいで、寝坊をしたかと思った。

 何年かぶりに安らかに眠ったような気がした。

 この下宿は、前の下宿程はアカデミーから遠くない。

 もう少し寝ていてもいいのだが、寝直すには目が冴えてしまった。

 とりあえず制服に着替える。

 朝の空気が吸いたくなって、アルマは下に降りて行った。

 前の下宿とはなにもかもが違うのだ。

 周囲の治安だって良い。

 一階は素朴なカフェになっていた。

 雰囲気は良いが、客足は少ないという。

 こんな時間だから開いてはいないが。

 薄暗い店内は、登りだした朝日を浴びて清々しく青ざめていた。

 冷たい空気を吸うと、それだけで身体に溜まった穢れが剥がれ落ちていくような気がする。

 前の下宿では、ただそこにいるだけで惨めな気分になった。夜になると壁の向こうから、男と女の喘ぐ声がした。あるいは怒号と泣き声。耳を塞ぎ、臭い布団に包まって眠るしかない。ただそこにいるだけで、べっとりとした汚れが内側に溜まっていくような気がした。

 そっとドアを開ける。

 朝日の眩しさに目を細めた。

「……早起きだな」

「ひょっ!?」

 風鳴りのように低い声に話しかけられ、アルマは驚いて跳ねた。変なポーズで。

 相手は大家さんだった。とてもそうは見えないが、ニコにはそう紹介された。

 同じ年頃の女性にしてはアルマは長身だったが、彼と比べれば小人も同然だ。

 一人前の大人の男と比べたって、彼は巨人に見えるだろう。

 岩のように厳つい中年の男だった。白髪交じりの黒髪を短く刈り込み、子供が見たら泣き出しそうな強面はあちこちに痛ましい傷がある。左目は眼帯に隠れていた。黒いタンクトップは隆々の筋肉で膨らみ、下には迷彩柄のカーゴパンツを履いている。その上から、鷹の目亭と書かれた黒いエプロンを身に着けている。店の前を掃除していたのだろう、手に持つ箒が玩具のように小さく見えた。

「ご、ごめんなさい。そういうつもりじゃ……」

 あまりに露骨な反応だった。こんな自分に部屋を貸してくれる稀有な大家である。機嫌を損ねたくない。

「かまわねぇよ。このナリだ。とっくに慣れた」

「……はぁ」

 特に言葉が見つからず、生返事をする。

「……あの、よかったら、掃きましょうか」

 このまま散歩に出ていくのもはばかられて、アルマは聞いた。

「余計な気を使うな。後払いでも客は客だ」

 ぶっきら棒に言う。言い方も声も見た目も怖いが、悪い人ではなさそうだった。ニコもそう言っていた。出会って間もないが、彼の言葉は不思議と信じられる。

「いえ……その。気を使っていないわけではないのですが。私のような人間に部屋を貸してくれて……その上後払いまで認めて頂いて……なにか、お礼をしたいなと……」

 正直な気持ちだった。他の大家はアルマの顔を見ると顔をしかめ、あんたみたいなのに部屋を貸したら客が逃げちまうと言われた。もっと酷い事も。

「……そんな事しても部屋代はまけねぇぞ」

 ぎろりと、藪にらみで大家が言う。

「もちろんです。後払いにして貰った分の利子も払います……いつになるかわかりませんが……でも、出来るだけ早く!」

 大家は不愉快そうに鼻を鳴らすと、何も言わずに箒を突きだした。受け取ってみるとただの箒だ。別に小さいわけではない。

「ありがとうございます」

 礼を言うと、アルマは店の前の通りを掃いた。朝の静けさに包まれて、優しい太陽の温もりを感じながらの掃除は、アルマに孤児院での生活を思い出させた。懐かしさと共に、胸の中がほっと暖かくなる。我知らず、鼻歌が讃美歌を奏でていた。

 大家は置物のように店先に立ち、眠そうな半眼をじっとアルマに向けながら、懐から取り出した煙草を吸う。吸い終わると、靴の裏で吸い殻を擦り、アルマに尋ねた。

「こいつも捨ててくれるか」

「いいとも」

 二コリとしてアルマが言う。すっかり自分の世界に入ってしまっていた事に気づき、慌てた。

「す、すみません。その、間違えて……」

 失礼な口を利いてしまった。怒らせてはいないだろうか。

 恐る恐る大家の顔色を伺う。

「かまわねぇよ。俺に比べりゃ、百倍丁寧だ」

 素っ気なく言うと、大家はわざわざ腰を屈めて、吸い殻をアルマの持つ柄の長いちりとりの中に放った。別に、足元に投げてくれてもよかったのだが。

「……あの」

「なんだ」

「どうして私に部屋を貸してくれたんですか?」

 最初、アルマは無視されたのかと思った。

 大家はゆっくりと明後日の方向を向き、しばらく黙った。

「坊主に言われたよ。おじさんと同じで誤解されやすいタイプなんですって。俺の目を真っすぐ見てそんな事を言う奴は初めてだ」

 そして、ゆっくりとこちらを向く。

「お前さんには、俺はどう見える」

「……良い人だなと」

 大家は馬鹿馬鹿しそうに鼻を鳴らし、そっぽを向いた。耳は真っ赤になっていたが。

「……大家さんからは、私はどんな風に見えますか?」

 気になって、アルマは尋ねた。

「……礼儀正しい嬢ちゃんだよ」

 泣きたくなったのは、朝日が目に染みたわけではないのだろう。

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