それから

1. きみの瞳が開くまで

 道のど真ん中でうずくまって動かないから、それはもう誰だって死んでいると思うだろう。行って帰ってきてまだそのままだったので、せめて埋めてやろうと持ち上げたら、地面を離れた足がひどく弱々しく宙を掻いて抵抗を示した。右目だけをあけてこちらを見るのでじゃあ左目は怪我で潰れでもしたのかと思って病院へ抱えて行くと生まれつきらしいという。眼球がじゅうぶんに発達しなかったらしい。残った右目もひどい目脂に塞がれているのをたしかめると、さっと姿勢を正し、猫風邪ですね、と告げた、医者の口ぶりはいかにもドライで頼もしかったが、その素っ気なさに憤りを覚えていたというから佐々木の腹積もりはその時点で既に決まっていたのだろう。

 親猫は死んでしまったのか栄養失調に陥り、口からものを食べる元気もないうえ鼻炎で呼吸すらままならず、ほんとうに死にそうだった猫の具合をほんとうにつきっきりで、ほんとうに三日三晩みて迎えた四日目の朝、昨晩までは指で無理矢理押し込んでやらないと食べてくれなかった抗生物質入りの練った粉ミルクの粒を、自分から口を開いて飲み込んだのを見届けると涙が止まらなくなって、そこへ起きぬけの僕がリビングへ降りてきたのを見るとなんにも説明しないでソファに倒れて十時間寝た。意識を取り戻した佐々木が飛び起きると、部屋の隅に置かれた段ボールの前にはぼくでなくて絵莉が座り込んでいて、なんにも言う前から振り向いた。あたし来んかったらあかんかったかもですよ、と、僕が役に立たないのを大げさに茶化すつもりで言ってみたら、佐々木はその内容と関係なく、とにかく「あかんかった」という言葉にびっくりしたのかまたぼろぼろ泣いてしまい、佐々木が感謝の言葉を述べるより先に絵莉は四回も五回も謝ったのだという。

「びっくりしたってバカにしてないスか、子どもかって」

「えー。驚いてたでしょ。ごめんね」

「違うって」

「じゃあ何で泣くんだよ」

「いやだって……もしかしてって思うでしょ。一日目とかほんとひどくて。いつまで生きてられんのかな、いっそ死んじゃった方が楽なのかなって思ってて」

「そんなに!」

「でしょ? じゃあもう、聞いただけでもしかしたらってさあ。いやべつに怒ったりしてないスけど。ただ頭真っ白で」

「いや、それびっくりしたんじゃん」

「違うって」

「ちがくないよ」

「ごめんなあ」

「あーぜったいバカにしてんなあ!?」

 佐々木は大袈裟に頭を抱え、絵莉は声を上げて笑いながらこっちを向く。涙まで浮かべている。やっとの思いで息を吸い込むと、お茶冷蔵庫、と僕にたずねて椅子から腰を浮かせ、出すから良いよと聞くと座りなおした。キッチンへ行くついでに自分の空になった茶碗を絵莉のに重ねて流しへ運ぶ。佐々木の茶碗の中にはまだ一口くらいの白米が、しつこく豚キムチに箸を伸ばす言い訳みたいに残されていた。

 カウンター越しに見えるテレビでモノクロ映画が、そろそろたぶん佐々木の褒める場面に近づいていた。でも画面を遮るはずの佐々木の肩はそこになくて、ここからは見えないけど眠っている猫の様子を見るのにまた部屋の隅っこへかがんでいるのだろう。二人分の汁椀を持ってきてカウンターへ置いてくれた絵莉が、僕と目を合わせた。

「大丈夫そうなの?」

「本人次第ちゃう。……本人ていうか」

「ありがとう」

「ううん。よかった」

 食器に水をかけてかるく手を洗い、背後の食器棚から出した水飲みグラスに冷蔵庫の麦茶を注いだ。ほら、と佐々木が猫へ呼びかけている。

 食卓の椅子に並んで座り、同じ麦茶を飲みながら、僕と絵莉はふたりして段ボールの前に丸まる背中を見ていた。どうやらすでに起きていた猫を後ろから抱きかかえるようにして、目脂をふせぐ目薬を差しているらしく、テレビから挿入歌が鳴ってもぼくらが佐々木の話をしても振り向かない。佐々木のそういう顔は見えないものなのだ。


   ***


「おい」

「おまえー」

「ちょいちょい」

とか言って抱き寄せ、小さく切った刺身なんかを食べさせる。たった一週間でずいぶん生きる力を取り戻して──というか鼻水が収まってにおいがわかるから食べ物を食べ物だと認識しやすくなったのだと絵莉は言った──、パウチに入った子猫用のウェットフードなんかをふつうに食べるようになってもまだそう呼んでいるのでいい加減疑問に思っていたのだが、

「里親さがしてんちゃう」

と絵莉はあっさり答える。

 机にコーヒーカップを置こうとしていた僕の手は一瞬止まった。

「里親」

「んーだって偶然拾っただけやろ……」

 絵莉はそう言うと、自分の左後ろ、この部屋の隅に視線をやった。新しい毛布を敷いた段ボール箱は空っぽだ。

「そもそもここペットいいん」

「許可とればたしか……」

「あいまいやなあ」

「すんません」

 絵莉はグラスを手にとって、飲み干した後に溶けた氷のぶんだけの水を口にした。さっきと全然違うところに置くので、結露でできた円を僕は見た。

「だいたいさあ、冷たくない」

「……あ俺が」

「うん。ねこちゃんに」

「そうかなあ……麦茶まだいる?」

「いい」

 コーヒーカップとグラスを両手に持って流しへ運ぶ。窓の外はいつの間にか暗くなっていて、絵莉の顔らスマホの光に白く照らされている。電気をつけ、僕がソファに座ると、絵莉もスマホに目を落としたままこっちへ動いた。

 テレビをつける。

「なんかだって怖くない……。生き物飼ったことないし。なんかしちゃったら、あの調子じゃ」

「そんなん佐々木くんも同じやろ」

「まあ」

「おんなじ家で飼ってんのに……そんなんやから里親さがしてんちゃう」

「まあ、……」

 夕方のニュースは隣の県の交通事故。外をタイヤがアスファルトに擦れる音と、んーでも、と切り出す絵莉が息を吸ったのまで聞こえた。

「里親もなにも、具合よくなってなかったら意味ないか……」

「ええ。元も子もないこと言うなあ」

「あはは。だいじょぶやと思うけど」

「佐々木が聞いたら泣くよ」

といったのを、絵莉があんまり笑わなかったのもあって僕はちょっと後悔した。でもそのあとキャリーを抱えて帰ってきた本人が、

「あと様子みるだけだって」

といかにもうれしそうにしていて、こっちの気持ちなんか勝手に晴れる。

 佐々木は玄関の床へとキャリーを慎重に置くと顔を上げると、驚いた顔をした。振り向くとリビングの扉から顔を出した絵莉が、スマホを持ったままの右手を振っている。

「あ、絵莉さん? なんでいんの」

「え、言っといてって言ったやん」

「あ、ごめん」

「様子見にきたんやんかー」

「あはは……おかげさまスね。キャリー貸してくれてありがと」

「ううん」

 絵莉はスマホをポケットにしまって、こっちへゆっくり歩いてきた。開け放しの扉から冷気が流れてくる。摘んだTシャツの生地で身体を扇ぐ佐々木の頬に垂れる汗を見て、外暑い、と僕は聞く。ばかあちーと佐々木は答える。キャリーの前にしゃがんだ絵莉は、格子の奥を覗きこむと、

「おじゃましてます」

と言った。

 僕らは目を丸くして顔を見合わせた。

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POSE 東風虎 @LMitP

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