6. 開きっぱなしの扉から(前)
目を閉じても何も追えない、だからすぐ眠りに落ちて、雨だけがひたすら続く。ときおり鋭い音が通り過ぎるから車の通ったのがわかる。それぞれ空から降ってきて、地面や屋根やそこに止めてある錆まみれの自転車のサドルやハンドルを叩く。空から地面までの距離を考えれば比率としてはほんの微々たる差でも、落ちてきた高さが違うのだからたてる音も少しずつは違うはずで、それを聞き分けられる耳があれば、雨音から3DCGみたいに立体的な街の像を組み立てられるはずだ。聞き分けられていなくても、そういう情報を含んだ音をいま僕の耳も受け取っている。厳密には、厳密には──。
八時三十分から四十分、五十分と、三つ目のアラームで体を起こした。寝汗で張り付いたシャツを体から剥がし、水道から汲んだ水を馬みたいに三杯続けて飲む。二階で着替えを済ませて降りてくると、雨音はもう風の音と聞き紛うほど収まっていた。ほんとうに急に落ち着いたのか、夜から絶え間なく耳に張りついていたから雨足の弱まっていくのが分からなかったのか。カーテンを開けると、道路の上を波うっていく風が見える。空中を埋め尽くす細かな雨粒が風に攫われているのだ。その様子をじっと見つめていると、はっと振り返った部屋の空中がからっぽで、地面と水平の平面にひと粒の水滴もないことが、不意にひどく奇妙に思われた。床、テレビ台の縁、椅子、机、佐々木のiPhoneのひび割れた画面。手に取り、ホームボタンを押しても通知は表示されない。ケースもなく裸の、つるりとした側面を撫でた。
靴ひもを丁寧に結んで立ち上がり、下駄箱の上の鍵をポケットにしまうと、右手で傘立てのビニール傘を手に取って左手でドアを開ける。空になった右手で鍵を取り出して振り向くけれど、下駄箱の上に置いたままのもうひとつの鍵のことが頭をかすめて、腕は固まった。
だから、そうしてけっきょく、背後に心もとなさをおぼえながら、鍵を鞄にしまってエントランスを出ることになる。雨はもうほとんど降りやみ、白い靄が通りを覆いつくしている。屋根の外へと踏み出せば、その湿っぽい匂いばかりが胸を占めた。傘はささなくてもよかったけれど、さしてみるとひびく雨音は、傘の内側で反響するからかろうじて聞こえてくるのだろう。こまかな粒は傘の表面を垂れるほどの重さもなくそこにとどまる。歩くうち次第に肌へとまとわりつく感覚が、汗なのか雨なのかもわからず、身体の輪郭が滲んでいく。スニーカーの白いつま先にはこまかな汚れが目立つ。雨が洗い流してくれればと思う。
ふと道の真ん中で、ずっと俯いたまま歩いていたことを、首の痛みに気づかされる。顔をあげれば、いつもの角を曲がりそこねていた。ただ引き返すのもなにか気が進まなかった。そうして、塀に囲まれた古い家々の間を抜けていくこの細い通りは、やがてひとつ先の国道にさしかかる。たしかすぐそこを川が流れていた。車道を挟んだ向こうには河原に降りる階段がある。スマホを取り出して時間を見れば電車まであと二十分あって信号は青だった。いまのうちにと歩調を速めた。
濡れた土の上にまた一歩踏み出せば、かすかにだがぱしゃりと聞こえる。細かいから見えはしないが泥の飛沫が飛んでいる、と心のどこかで靴の汚れを厭うけれど、かといって引き返すでもなく、駅の方向へと川沿いを下っていく。こういうのを巡り合わせというのか、それとも単なる気まぐれか。時間や信号などのあれこれを巡り合わせだと感じる僕の主観を左右するのは気分だけど、今こんな気分なのはここまでの色々の巡り合わせによるものであって、どっちにしろ変わらないのだと思う。僕が回り道をすることになった原因は佐々木の失踪です。今はたいして極端とも思えない。
雨は止んでも雲はまだ分厚いから大きな橋の影は輪郭も曖昧で、いつのまにか踏み込んでいた、橋の下はコンクリートで舗装されていて、道の左端にはぼろぼろの段ボール数枚とわけのわからないがらくたが、でもこれはたぶん置いてあるのだろう。右では、川だから当たり前だけど水が絶え間なく流れている。その水面をみた。
泳いでいた。いつも通りに橋の上から見下ろしていては単なる帯のように流れるけれど、こうして横から眺めれば、今朝までの雨で増水した川ははっきりと上下に波打ち、この空間のなかを自在に動き回っていた。ただどうしてか音がない。川底の泥を飲み込んでか土色の、流れは不気味なほど静かに通り抜けていく。蹴り出した右足の裏が砂利を噛んだのが耳のすぐそばへ響き、踏み出した左足は日陰から日向へ、──ということはすでに太陽を遮る雲は薄く、201講義室に入った時にはもう雨が降っていたことなんて忘れていて、だから、気づいたのは再び降りはじめた雨に中学生の集団が声をあげた駅のホームでのことだった。
「あ、傘」
「ん……あー、またやってんじゃん」同じ講義を受けて同じ電車を待っていたミノベが、僕の手元を見て笑った。あっちの手にはちゃんと木製の持ち手が握られている。「戻る?」
「いやーもういい」
「何のもうだよ」
ミノベはたいしたことでなくても目尻に皺が寄るくらい笑う。友達が多い理由のひとつだろう。またスマホを取り出すけれど、通知のないロック画面が映るだけだった。電車はなかなか来なくて会話は疎らになっていった。
じゃあ、おつかれ、──挨拶を交わして、ミノベの乗ったままの各停を降りると小雨だった。細かな雨は音もなくアスファルトを黒く濡らしていて、そうして屋根の下の乾いた灰色との間にできた境界線を、踏みこえればさっきまで聞こえなかった雨音が肌から直に響く。針のように細かい雨粒は、しかしびっしりと雲から地面までの空間を埋め尽くしていて、そのなかを通っていくのに慌ただしく走るのはむしろ身体にまとわりつく雨粒を増やしてしまうだけのように思われたが、気づけば足取りは早まっていた。
だからもうドアの前に来る頃には前髪から雫も落ちて、乾いたエントランスのコンクリートに円く染み込んだ。ドアノブは、雨で滑る手でも抵抗なく下まで降りて僕を受けいれた。ただいま、とよそよそしく声をあげても返事はなく、雨水を吸い込んで固まった靴紐を苦心して解くと靴下までまるっきり濡れていて、僕はそのまま一階にも二階にもあちこち足跡を残して、また戻ってきたリビング、まるっきり朝と同じくiPhoneが置かれた食卓の前で立ち止まった。
僕は長いため息をついて、靴下を脱いだ。
「ちゃんとするかあ」
それからシャワーを浴びて洗濯を回して、冷蔵庫にある食材で一人分と少しの食事を作り、食べたら皿を洗って、歯を磨いたあと日付が変わるより前に二階のベッドで長く眠った。朝起きたら雨は止んでいた。リビングのカーテンを半ば開けて、乾いた灰色のアスファルトの中のあの透明な欠片が反射する朝の光を見つめた。
コーヒーを飲んで支度を済ませ、玄関に向かう。昨日とは違うスニーカーに踵を馴染ませる。下駄箱の上の鍵を片手にドアノブを握る、──その時になってやっと気づいた。
ドアノブはやっぱりなんの抵抗もなく下まで降りた。けっきょく昨日の晩も鍵は開けっ放しだったのだ。急に、佐々木と二人で食事をしたときの本当にくだらないやり取りがすごいスピードで思い起こされた。箸で僕を指した佐々木の顔が、撮ってもないのに写真みたいによみがえってくる。こういうことって本当にあるんだと僕は思った。
またため息をついて、僕はエントランスへと出た。鍵はそのまま鞄にしまった。エントランスの重い扉も開けて、反響しなくなった自分の足音を、追い抜かしていったエンジン音から聞き分けながら、やっぱり無限に聞こえる耳があればと思った。あの黒のVANSのソールがアスファルトに削られる音が、どこかはわからなくても聞こえれば、そうでなくても声や息が聞こえれば、どこかでとにかく生きていることはわかる。そうであってほしいと思った。
なにより帰ってきてほしかった。
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