5. ひとつ隔てた向こうから

 効きすぎた冷房を消せば、窓は閉めたままでも、向かいの自販機の取り出し口に缶の落ちる音さえひどく近い。重曹と油に濡れたキッチンペーパーを捨てる。もう一枚取り出して重曹を吹き付けてから気づく、もう掃除するところがない。IHコンロの表面は大理石のような光沢をもって、奥の窓から差し込む弱い光でも吸いこみ、その窓の枠や束ねられた茶色いカーテン、すりガラスに映る、おそらく新聞配達のだろう原付が通っていく影さえ反射した。その遠ざかるエンジン音どころか、それが止まった向こうでスタンドを立てるのすらよく聞こえる。遠くで小さくなっているのが見えないぶん、音の明瞭さがそのまま近さになって、一連の動作はまるで耳のなかで行われているようでくすぐったかった。

 蛇口からの水の流れは両親指の付け根にぶつかって、泡と一緒に排水溝へ落ちていく。すぐそこで鳴っているわりには家の外で鳴る音のような手触りがなくてひどく平板な、じゃー、という音。近いから煩すぎて、こまかな差異がわからなくなってしまうのかもしれない。どんな小さな音も聞き取れる耳からは空で雲が動く音なんかがきっといちばん確かだ。目を閉じればすぐそばに、おそらく今そこの玄関にない黒のスニーカーが、きっと今どこかの道を踏む音も聞こえるのだろう。

 先週の新譜もこの間知った九十年代の名曲も、気づいたら一分も経たないうちにつぎつぎ切り替えてしまう。どれもこれも聞き飽きたような気がする。たぶん今は何も聴きたくない、一通りやってから気づいた。結局またイヤホンは外して目を閉じると、外を歩いていく親子の話し声が耳元までくる。足音が近づいてきたり、車がそばに止まるたび張り詰めて玄関の方へ向かってしまう意識を手放せない。

 いくつもの足音やエンジン音が僕の上を通り過ぎていき、その都度意識は浮かび上がる。繰り返して繰り返して、すべて徒労で、そうしているうちに日が上り、車通りも増えはじめ、動き始めた街の気配にほだされるようにソファを起きあがろうと考えたちょうどそのとき、食卓の上の佐々木のiphoneが鳴った。

 ソファから跳ね起きて手に取る。着信。西野。緑のボタンを押す。耳にあてる。そうして、

「わっ、あ、え、佐々木くん?」

聞きなれない高く澄んだ女性の声がきこえたとき、やっと身体の反射に頭が追いついた。あなたが西野さんですかたぶん佐々木の大学の知り合いかなんかでしょうけど佐々木はなんで今どこにいるかわかりませんかと尋ねているこの僕は佐々木の……、言葉は浮かんできても、喉が内側で張り付いて開かないみたいに声が出なかった。その沈黙を、待つまでもなく電話口の向こうの声は続いて、

「あはっ、ごめんなさい、あたしからかけたのに驚いちゃった……今どこ? ライン見た? せっくんとかもう結構怒っちゃってて……あは、ごめんなさいなんか。でさ……あの、佐々木くん。こないだ、あんなだったヤツが言うことじゃないかもしれないけど、……あたしね、……」

「あの」

 僕の声にびたりと止まった。iphoneからはなんの音もしなくなった。ただこめかみの汗で画面が耳にへばりついて、にちゃっ、という、音なのか感触なのか区別がつかない。

 もう一度、すみません、と声をかけた、向こうで、完全な無音は途切れ、さあっというノイズとともに息遣いが伝わる。

「え、……ちょっと、だれ」

「……えっと、」

 ぶつっ。向こうのマイクの入力が急に途切れたことによって聞こえる、本来どこで鳴って響いているわけでもないその音が、なぜか電話越しのどの声よりも確かな鋭さをもって左耳に刺さる。下ろした左の掌に視線を落とす。ひび割れた画面は午前十時を示していた。


   ✳︎✳︎✳︎


 佐々木のiPhoneが次に鳴ったのは四時間後だった。ソファから跳ね起きて手に取る。心臓の位置がよく分かる。非通知。

「もしもーし」

 低い男の声。ざらついた要素のない澄んだ声質は太く引いた一本の直線のようで、それが電話越しにもわかる。相当なのだと思う。

「……はい」

「お。……あー、えっと、何て呼べばいいのかな」

 高瀬です、と反射的に答えてから、相手の口ぶりの違和感がざらつく。電話の向こうの声がかけた相手のものと違うと判断する早さも、その知らない相手への口調の気安さも妙で、まるで顔が見えているみたいだった。

「タカセ。高いと、さんずいに頼るだ」

「……はい」

「おっけおっけ。あ、こっちのことはリオって呼んでよ」

「リオ……」

「そうそう。なんか恥ずかしいなわざわざ呼ばれると」

 で、と言葉を区切る。いつの間にか主導権が握られているのがわかった。自分で握りたいわけでもないし、気づくまではそんなものの存在も意識していなかった。

「で、まあ。タカセはさあ。佐々木のなんなのかな」

 ──佐々木の。

「同居人……ていうか」

「え、同居。そういう関係?」

「……あー、そういう関係って、どういう関係か知りませんけど」息が詰まって咳をする。「シェアハウスです、ふつうに」

「ああ、そう。ま、全然。そういう人ならいいんだよ」

「……そういう人?」

「カホ……西野カホ、さっきそのスマホに電話した女の子ね。その子がまあびっくりしちゃって。出た相手誰だったか、確認しろってうるせえのよ、佐々木くんヤバいことに巻き込まれてるんじゃ~、とか言って」

「はあ。それはすみません」

「いや、別にタカセが謝ることじゃないよ」

 ──悪いのは佐々木だし、という。仮にその西野さんに不安を与えた責任がすべて佐々木にあるのだとして、それがそもそも悪いのかすら僕には分からないけれど、リオは軽く笑いながら言い切った。

「まあだからあれ。スマホ置いて出てったんだ」

「そう、ですね」

「そんでタカセにもわかってない。理由も、行った先も」

「……そうすね」

「お、合ってんだ。……あ期待しないでよ。俺もどこに行ったかは知らないし」

 聞いといてなんだけどね、とまた笑う。僕は知らず知らず肩に入った力を抜く。

「……理由は」

「ま、多少」

「多少ってなんですか」

「なんつーの……遠因はなんとなく、きっかけはさっぱり」

「どういうことですか」

「まあでも、どっちもタカセが知るべきことじゃないな。どうせ他所からみればしょうもない」

 鼻で笑ったのがノイズキャンセリングを乗り越えて聞こえてくる。しょうもない。口の中で繰り返す。

「人間関係、サークル運営の滞り、まあ理想の大学生活との食い違い、とかさー、アホくさいでしょ説明、すんのも聞くのも」

「サークルの人なんですか」

「え、俺は違う」

「……」

「ま、とにかくね。ああいう奴でしょ、いなくなることもあるって」

 ──ああいう奴。

「戻ってくるんじゃない、三日くらいで」

 あはは、とお手本の笑いが、例の妙に澄んだ声で聴こえてくる。目尻に寄る皺が見えるようだ。空の右手指がいつの間にかジーンズの縫い目を弄っている。それを手放して、iPhoneを持ちかえて、

「……じゃあ」

 何に繋がる「じゃあ」なのか、分かりもしないで口を開いた。

「あんたは、じゃあ、佐々木のなんなんですか」

「え、……なあ、言ったじゃん」

 あんた、じゃなくてさ、と電話越しでも歪む口元が見える。

「リオって呼んでよ」

 ぶつっ、と、できる限り激しく聴こえてくれと思いながら電話を切った。赤いボタンの上の親指の爪が白くなるほど強く、唐突に。外では大きな叫びを上げて、子供がふたり走っていくのを水の跳ねる音が追いかけていく。気づけば雨が降り出していた。

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