4. いくつか隔てた向こうから
もうこのままずうっと繰り返すのだろう。何回言っても直らない、コンビニに出るのに履いただけのジーンズとか冷房除けに一日持ち歩いただけのカーディガンとか、そういうのをなんとなく引っかけておいて自分で処理しない。それでこうやって僕がぐしゃぐしゃの布の塊を抱えて階段を登る羽目になるが、厳密に考えるなら一昨日僕が作った五人前くらいの豚キムチにその一因がある。まあ仕方ないかとも倍面倒だとも思う。それは別に今の僕の気持ちでしかないから別にいいけど、共有のスペースにあれこれものを残していくのは同居人のいる人間の生活態度としてどうなのか、とか。よく見れば埃の目立つ階段を登っている最中も聞こえていた、ピアノの音の中からノックに対する返答なのだろう呻きを聞き分け、服の塊から離した右手で引き戸の取っ手をさぐりあてる。
そうして開いた、扉が、ピアノの後ろで鳴っていた電子ノイズを防いでいたのだ。過剰に冷えた空気とともに流れ込んでくる音は、落ち着いた旋律に反して何か激しい騒音を打ち消すためとも思われるボリュームだった。薄暗い部屋の中、横顔は机に頬杖をついた右手で鼻まで覆われていて、なにか見てはならないものを見てしまったみたいな瞳だけがパソコンの画面に青白く照らされている。骨張った肩越しに見る、おそらく映像編集ソフトの画面がいったいどういう意味をもって佐々木に迫っていたのか、今考えてもまだ分からない。
むやみに晴れた空は捩れあう細い電線の隙間までむらなく青い。僕が一歩進むごとに一滴垂れてくる気もする、額の汗をいちいち指の先で拭っている、この間も、ドアの前に放りなげた服はたぶんそのまま、なんなら姿勢も変えないでまだ画面に向かっているのだろう。なんにも言わないで出るわけにもいかないから二言三言、軽い文句や今から出かける旨も言いのこしたはずだけど記憶にない、佐々木がいつもの生返事だったからか。返答がないならあとになってみれば言っていないのと同じことなのかもしれない。同じこと? 覚えていないことはないのとおなじことではないんじゃないか、……これも厳密に考えたらの話でしかないか。実際には、たぶん一ヶ月ぶりくらいに顔を出した講義や井上や倉澤と交わした会話を、経てきて今リビングのソファに寝ころんでいるという気はしない。疲れて飯食って水が入れ替わって、いくら僕を構成するものが更新されていようと、実感としてはただ一日を過ごしてただここへ戻ってきて、ついさっき佐々木と交わした会話の内容もほとんど覚えていない。せっかく唯一確かなこうしている現在もアプリとアプリの間を往復している間にいつの間にか終わるので明日絵莉と会うことを考えて憂鬱になる。
あっちを見ている間にこっちのタイムラインが積み重なっていて僕はまたちょっとだけ面倒なことを考えずにすんだけれどそれもすぐに引き戻される。思い出したら憂鬱になるような関係がいつまで続くのだろう、とかいう不安も、どうせ会ってしまえば消えるのだから無いようなものなのだろうか。絵莉はどうなのだろう。一緒にいない時間の絵莉のことをもしかしたらほとんど知らないかもしれない。佐々木のならそれで今朝二階で見たような、僕には分からないことで苦しむあの目が浮かぶ。それが今も二階のあの扉の奥で椅子に縛り付けられたように座っている。見えていないことで今はひとまずそれだけが確かだった。
***
「──あれ」
「なに」
「え高瀬どうすんの」
「んまあちょっと。今度かな」
「あー。んじゃ」
「おつかれ」
僕らはそれぞれ違う講義棟で授業を終え、二つの建物をつなぐ地下の通路で合流して向かった、大学会館の一階でいつも通り買ったサラダとサンドイッチをやっぱり三階で食べた。勢いよく開けすぎて散らばったキャベツをウェットティッシュで集めるその手をふいに止めて、
「バッテリー持ってる?」
と言う、絵莉の眼は僕ではなくて左手の窓の向こう、今日もまた無茶な晴れ方をした空に向けられていて、ぼくもその中を舞うジャグリングのバトンとかを見ながら答えていた。
「バッテリー?」
「モバイルバッテリー」
「あー、あるけど。貸す?」
「ううん今じゃなくていい」
「なんで」
「やー三限切ろかなって」
「え?」
「あるなら遅くまで外いれるから」
「どっか行くの」
「うん、どっかね。どっか」
「あー、どっかね」
飲み干したコーラの缶を今日は購買の前でなくてバス停の自販機の横で捨てる。アスファルトにひびの入った幅広い歩道を降りていく。僕は顎を垂れていく汗を手の甲で拭う、踏み出すハイカットのコンバース、変圧器のある電柱の複雑な輪郭、マンションとマンションの間に並ぶ室外機、ラーメン屋の汗ばむ行列に、いちいち絵莉はレンズを向けた。汗が止まらないからマスクもはずして、うなじに張り付いた髪をはがしたその手でまたシャッターを切る。身も蓋もない適当な会話がだんだん途切れるようになっていく。ポケットに何かを入れているのも暑いから僕はスマホを手に握って、ときどきたかたかとミュールの底を鳴らして何歩か先に行ってしまった絵莉の丸めた背中を撮った。緑色の木陰、カーブを曲がってきた原付の車体の傾き、所々剥がれた空色のフェンス越しに見えるテニスの練習風景、古いとこ屋の看板とLEDの信号機の薄さ、手すりの影、複雑に噛み合う赤い鉄骨、足の長い水鳥、川面、大きな橋の真ん中で、絵莉はやっとカメラを下ろした。
「あち」
左頬の汗を右手で拭って、カメラを鞄にしまった絵莉は川の方を見たままでいた。
「マッチちょうだい」
「ん」
手渡されたペットボトルの露で濡れた手を、絵莉は僕のTシャツの裾で拭いた。のぞき込む川は案外浅くて、水面の凸凹がそのまま川底にゆらゆらと影を落としているのがここからでも見える。後ろを通る車のタイヤがアスファルトを擦る音の方がエンジン音より鮮明に聞こえる。絶え間なくうごく川面を見ていたら、この足の下にも水が流れていっているのだという感覚が強まって足下がふわふわする。もしかしたらずっと見ていられるかもしれない。あち、と絵莉がまたつぶやいて、僕は返事なんかしなくていいと思った。
こういう時間を残したくて写真を撮るのかな、と思う。でも川面の写真を何枚とっても今のこの感じが帰ってくるとは思えない。それで工夫しないといけなくて面倒くさいのだろうか。そんなようなことを言葉に起こそうとしている間に、
「あついよ」
と絵莉が服の裾を引っ張ってくるのでぼくらは橋を渡った。またただ笑えるだけの話に戻ってきてどっちに行くかなんて相談しなかったけど左に曲がって、いつの間にか川沿いに駅へ向かっていた。
次の大きな橋が見えたら右に曲がって大通りに入り、駐車場の広いローソンに寄る。すずしいすずしいと小さな声で言い合ってそれぞれ色の違う炭酸と、絵莉はガリガリ君を買って店を出る。
なあ、と僕は、アイスの袋をゴミ箱に捨てている絵莉の背中に声をかけた。
「なに?」
「……いや、なんだろ」
「なんやの」
「一人の時に俺のことって考える?」
「なに、急に」
「いやべつに。……なんもないけど」
「んー」ほとんどため息みたいな声を出して、絵莉はアイスをかじった。「まあ……、ふつう」
「ふつうって」
「去年はあれやったけど今はなー」
「まあそんなもんか」
「でもあれ、浮気してんのかなと思ったら殺したなるけど」
「はあ……」
「でもそんくらいかな」
絵莉はそこまで言ってから二口目をかじった。そうやって悠長に食べているから駅につく前に溶けて崩れて手が汚れて、こっち側のホームに電車が来て、見えなくなるまで棒も持ったまま、その手を空中に泳がせたままでいた。席に座ったらLINEがきて、今も右手はあのままなのかと思って笑う。朝は車内の冷房で冷えていって、あとには首筋のべたつきだけが残った。
***
鍵をひねったら閉まったからおかしいと思った。電話をかけたら二階で鳴った。引き戸の向こうは窓も開けっ放しで熱気がこもっていて、その重い湿気の中でスクリーンセーバーだけがゆっくり蠢いていた。机に伏せられた本も、食卓のマグカップの中ですっかり冷めた白湯もそのままで、ただ動く姿だけが見当たらない。歩いたぶんの空腹に任せて食べても豚キムチはまだ残った。Youtube、Twitter、LINE、Safari。玄関の鍵を開けたまま、それらの間をどれだけ往復しても佐々木は帰ってこなかった。
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