3. こうしてそこに見えるから(後)

「そうかなあ?」

 一通り黙って聞いていた絵莉は、カップサラダを混ぜる手を止めてこちらに目を向けた。

「なんで?」

「なんでってだって」またフォークが動き出し、「見えへんから」

「それはまあ」

 ぼくは手の中でぬるくなりつつあったサンドイッチを飲み込んだ。大学会館三階のカフェテリアスペースは四回生でも存在を知らなかったりして、並べられたスチールの椅子と机の埋まり具合は疎らだ。

「いやでも」なぜ言い掛けてから午後の紅茶に口を付けたのかわからない。キャップを閉めながら僕は、「見えないっていうのは小さいからで」

「えー。でも写真って見るもんやで」

 言葉を切ってまでへの字にした口が開いて野菜を頬張り、あこれ美味しい、と呟きを漏らして絵莉の話は考え考えまた続く。

「まあほら、映ってるのはなんかそうかしらんけど。見えへんかったらないのとおんなじやと思う。菌とか何個映ってんの、そんなん言い出したら」

「あー。いや、だからそういうのも映ってはいるんだよなあって話なんだけど」

「意味あんのそんなん」

「……そう言われると」

 そうして言うこともなくなってサンドイッチのゴミを片づけていると、左手の階段を上がってきた背の高い人影が、ふいにこちらへ手を挙げた。一瞬目が合う、知らない上回生らしいその人へと絵莉も目を向けると、

「あー。おつかれっす」

と手を挙げ返した。

「ここでみんの初めてだな」と、絵莉のそばで立ち止まったその人は、窓の向こうを見ながらマスクを鼻の付け根まで持ち上げた。「いつもお昼ここなの?」

「あ、べつにそんな。今日だけですよ」

「ふーん。……まあ、んじゃ」

 おつかれっす、と言った絵莉に笑いかけ、僕にも気のせいか小さく会釈して、その人は回転扉からカフェテリアを出ていった。その先はバルコニーになっていて、いつもそこに陣取っている大道芸サークルが向かってくる人影をみて練習を止めた。中国ゴマやカラフルなバトンを両手に持って佇む数人の人影の間を、申し訳なさげに横断していく。喫煙者だ、端っこにある灰皿が使いたいのだろう。シャッター音。

「うぅん」

「なに撮ってんだ」

「ま、なんかちょっと」

 絵莉は真っ黒いカメラをテーブルにおくと、プラスチックのフォークを手に取り、再度がしゃがしゃとカップサラダに取り組みはじめたが、

「先輩?」

 とぼくがたずねると手を止めた。

「うん、クリタさん」ふーん、「あれ、話さんかった?」わすれた、「言ったってー。あれあれ、新歓で酔うて割り箸割って泣いた」あーきいたきいた、やばいな、なんだ割り箸って。「今もう飲むのやめてんて」もったいない。「ねえ。先たばこやめえや」

 またシャッター音。煙草にありついたクリタさんの周囲をカラフルなバトンがいくつも舞う背後の空にはあまり夏らしくない薄い雲が広がる、その光景はたしかに写真らしかったのかもしれないが、ここから撮ったのではそこのアルミの窓枠とか手前の誰も座っていない椅子と机なんかも映ってしまうのではないかと思った。ただそういえば絵莉の撮った写真はだいたい妙に要素が多いのでそんなものなのかもしれない。めんどくさー、という絵莉のつぶやきの意味はつかみかねたが、僕はわざわざたずねなかった。

 絵莉がなんでもかんでも写真におさめたがるのは今に始まった話ではないが、スマホでなくわざわざミラーレスを持ち歩くようになったのは少なくとも去年の夏以降の話だと思う。そういう理由で絵莉の持っている鞄はいつも猫の描いてあるキャンバス地のトートか青いレザーのカメラバッグで、一時期よく持ち歩いていたグレーの小さなショルダーバッグは、まだファーつきのモッズコートがかかったままの暑苦しいポールハンガーにかかったまま、今日もただ部屋の隅で斜陽を浴びている。

「なにみてんのー」

 トイレから戻ってきた、絵莉がぼくの手元をのぞき込む。僕は一瞬なにかをごまかすようなそぶりを取りかけたが、その必要もないので絵莉の方へ画面を傾けた。

「あー。なつかしぃ」

 僕のとなりまで来た絵莉の足はそのままいきおいよく体重を放棄して、沈んだソファの座面が空気を吐き出す。二月六日のカメラロール、山の名前はもう忘れたけれど、とにかく展望台の空色の手すりに肘を預けて、絵莉は町を見おろしている。

「この鞄」とぼくは写真のなかの絵莉の背中を指さし、視線はポールハンガーの方にやって、「さいきん見ないなと思って」

「カメラ入らへん」

「よね」

 鞄もなあ、とかいいながら絵莉は自分のスマホに視線を落とした。

 僕の撮った写真にはたしかに展望台からみた町の遠景が映っていても、あくまでそれを眺めている絵莉を撮ったものでしかなかった。けれどたとえば同じ旅行で絵莉が撮ったあの写真には確かに僕が映ってはいるけれどその奥の植木鉢、舗装された道路のコンクリートの質感や光の角度や、そうした景色全体を手前で遮っている放置された自転車のスポークにも意識が向くようになっていて、僕は自分の映っている写真を眺める気恥ずかしさもおぼえないで写真展の真ん中に突っ立っていた。そこに映る僕の身体は風景側の存在だった。

 シャッター音。テレビの向こうの縦長の窓から、黄色い陽の光が差している。それに向かって絵莉はまたミラーレスを構えていた。めんどくさ。また同じことをつぶやく唇に、今度の僕はたずねた。

「……なにが?」

「え。なにがってなにが?」

「めんどくさって」

「あー、え、だってな」手の中のカメラをいじって、さっき撮った写真に目を落とす。「見えてるまんまは撮れへんやろ。それがめんどい」

「それってめんどいの?」

「めんどいよ。工夫せなあかんし」

「そういうこと」

「うん」

 僕はスマホの画面を切って絵莉の肩に体重を預けた。

「旅行またいきたいね」

「行こうよ」

 窓から入った光がフローリングにぶつかる、その角度は少しずつ変わっていくのにそれを見ることはできない。好き、と言った絵莉に、俺も、と返した。今がずっと続けばいいみたいなことを間延びした声で言って絵莉を笑わせた。その間も光の角度は変わり続けていて、駅で絵莉と分かれたときにはもうすっかり暗くなっていて、家に着いてから自分から絵莉の家のにおいがするのに気がついたが、どれもこれも同じことの繰り返しのように思えた。僕は絵莉があの鞄を最後に持った日を、そうと思って過ごしはしなかった。

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