3. こうしてそこに見えるから(前)

 支えを失ってうなだれ、たまに傾いてくるのを、こっちもややおぼろげな意識で気にかける。ときおり見かけるように眠りこむ頭が見知らぬ隣の乗客の肩へ預けられてしまうのはもともとは互いに触れあうことのないよう他人同士の距離が保たれているからなのだと気づく。こうして人の詰まった座席で肩と肩がくっついていると身体が傾かないから絵莉の頭についてはいまのところ重力に任せるほかない。スマホを支える腕が疲れて目を閉じると、過剰な空調になれてしまったむきだしの二の腕の冷たさと揺れる髪の香りだけがありありとして意識はむしろ冴えてしまう。

 香りは写真に映るのだろうか、目に見えないけれど、こうして吸い込む空気が含むちいさな物質によって感じられるものであるからには、見えないのは単に目の機能の不足であって、どんな小さいものでも映せるカメラがあればにおいを写真におさめられるなら、八〇年前のニューヨークの街角を撮った写真にも、溶けた雪のにおいやガスのにおいが僕らには見えないけれどおさめられている。じっと見つめる写真を窓のようにして、ガラスの結露とその奥で傘を差している人、その傘の角度、通り過ぎていく黄色い車体がそのときその道のどこにあったのかというようにその向こうにあるものの配置を再現していくけれどそれも見えているものからの推測でしかないなら、雪が降っているのだからここにあの湿っぽいにおいが、車が走ってきたあとには知らない古い車の排気のにおいが、と想像していくこととも大差ないはずだろう。そうしてにおいや風しかない空間を立ち上げていくひまもないはやさで窓の向こうでは平べったいまま過ぎていくビル群の輪郭が波打つのをながめているうち停車せず通過したさっきの駅のひとつかふたつ次がそういえば絵莉の降りる駅だったような気がして向こうの肩をたたく。まだ持ち上がらないまぶたの上のアイシャドーの青みはこんなに目立っていただろうか。

 絵莉、絵莉。呼びかけるとようやく目は開いて、青みがかったその色がゆっくり二重に折り畳まれて目立たなくなっていくのを僕は見た。しぱしぱとそれが何度か繰り返され、ささやかなうめきとともに左肩の体重と肌の感触がふっと消える。

「ごめん、寝た」

「寝たなあ」

「うん。……」

 細い電線と太い電線とが空中を捩れあい波うつ。今日ありがとぉね。高校のグラウンドのネットに掲げられた筆文字の横断幕。何が? つきあわせちゃった。もうすぐ離れるのに絡めあう指。ううん別に、あれおもしろかったし。親指が、絵莉の親指をまたいで人差し指のささくれをなぞる。ほんと? じゃあよかった……。

 ご乗車ありがとうございました、から始まるアナウンス。慌ただしくぼくの指をふりほどいて、絵莉は左手のスマホをバッグの中にしまう。

「もー、ごめんね慌ただしくて」

「ううん、べつに」

 膝の上で抱えたバッグの持ち手で絵莉の両手が並ぶ。僕の両手は両足の間にぶらさがる。そうして電線の波打つのがゆるやかになっていくのをふたりして見ている。やがてまたアナウンス、扉の上で見知った駅名が表示され、絵莉の身体にかかった慣性はぼくの肩に預けられる。絵莉が立ち上がるとまたあの香りがして、湿っぽい人混みのにおいに慣れていた嗅覚が不意に開いてしまう。

「じゃね」

 僕の顔に向けて広げた手のひらをひらひらさせて、空気が鋭く排出される音とともに開く扉にわらわらと集まる、その集団のなかに絵莉は混ざってしまう。閉まったドアの硝子の向こうで振り返った絵莉に振り返した手を、こっちから絵莉がほんとうに見えなくなるまでずっと振っている。それは本当にそうしたくてそうしていた頃の名残、もはやただの決まり事になってしまった。絵莉から送られてきたラインはスタンプひとつで、僕もそれにスタンプを返して、それももうただ途切れてしまうのが怖くてそうしているような気がしている。こうして重たくなっていくひとりの自分と、絵莉といる自分の軽さと、それはほんとうに重いとか軽いなのか、どっちがより優先されるべきなのか、その二つは分かれているのか、それは二つだけなのか、それを決めるのは誰なのか。……


***


「におい。あー。なあ」佐々木の口に白米を運んだ箸が宙で遊ぶ。「においなあ」

「いや、わかんない」テーブルの上に頬杖をついた、この角度からでは自分の器のなかにスープが残っているのかいないのか分からない。「説明できてないかもだけど」

「いや言ってることは分かってると思う」

「映像撮るときとか意識する?」

「……しなきゃなあとは思うけど。実際忘れるなあ。まあどうしても忘れるっていうほどやってないしあれか」佐々木の箸が白米の上へ具材を回収していく。キャベツ。人参。豚肉。「あーでもどうしても忘れがちだとは思う。実際気にしなくても作れるは作れるわけだし。写真も同じじゃねーかな」

「んー」

「んでも……あれ。実際その、刺激される感覚は視覚だけなわけだし」手際よく野菜を片づけた箸を指揮棒のように振りながら佐々木は続ける。「どっちも想像だっていうわけだろ。そういう、基本的なところで同じだって話。そしたら直接刺激を受ける感覚がどこかってのもけっこう大事なんじゃない」

「なるほど。……」

 ううん、と唸りながら麦茶のコップを傾けた、佐々木の方でも自分のいったことをうまく呑みきれていないようで僕は残っていた味噌汁を飲み干して空いたお椀を茶碗と重ねて流しへ運ぶ。茶碗にかける水を止めた僕に、ていうか、と佐々木が投げかける。

「そんなんあるなら勝手に行くなよ。割と興味あったのに」

「……絵莉に誘われただけ」

「あなんだ。そっか、なんか写真のひとだもんな」

 食べ終わったらしい佐々木はスマホを取り出していて、戻ってきた僕もLINEの通知を確認する。

「どうしよ。誘うアテあるかな」

「ひとりで行きゃいいじゃん」

「約束ないと行かねえよ。どこだっけ?」

「上野」

「めんどくせっ。行けさえするならひとりでいいんだけど」

「んだそれ」

「じゃああれ。来なくていいから約束だけしてくれ」

「いやわかってたら来ねえだろ」

「うわー、あはは。ツッコミじゃん」

「何そのリアクション」

「いや完全に来るだろうなってのが来たから」

「はあ」

「あー。……」

 マジでどうすっかなあ、とぼやきながら、佐々木も食器を重ねて立ち上がる。右側を通り過ぎていく、そういえば佐々木からはなんのにおいもしないが、同じ家に住んでいるからなのだろうか。

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