2. いつも記憶になってから
2-5、佐々木丈、「雪山」。提出期限のために中途半端になってしまった美術の授業の課題がどうしても気になって描きなおしたのだという、その絵は部員が描いたのでもないのに美術部の展示に並べられた。歪な線で上下に分割された縦長の画面を一面塗りたくる白色は、近づいてよく見ればその、雪山の稜線を境に上下で少し違っている。やや黄味がかった山の表面と比べて澄んだ印象をあたえる、その曇って青く灰がかった空を埋める絵の具が、水の勢いでパレットから剥がれ、美術室の横に長いシンクに広がっているのを見たとき僕はすでに、空の色だ、と思っていたのだ。
「あれ」
開けっ放しの扉から頬に差す西日が遮られたので気づいたのか、佐々木は振り向いた。服が汚れるのをきらってか片手でパレットの端っこをつかんで胴体も流しから極力離しているくせに、シャツの捲った袖口には青色が目立っていた。
「帰ったと思ったけど」佐々木がいぶかしむので、「忘れもん」と答えて僕はさっきまで自分の座っていた席の方へ動く。「何?」「財布」笑っていいながら机の棚板をまさぐる。「やば」とか佐々木の方も笑っている間に手になじんだ感触を掴み取った。
「もう終わった?」
机にリュックサックを置いて僕は尋ねる。
「あー。これ洗って、帰る」
「じゃあ待っとく」財布を戻したリュックからスマホを取り出した。「鍵、俺やったほうがいいでしょ」
「あー、ありがと。急ぐわ」
そう言って佐々木はシンクのほうに目線を戻した。それなりに時間がかかったのは今思えば絵の具の使い方に慣れていないから思い通りの色を作るのに必要以上にあれこれの色を足す必要があったので大量の絵の具を余していたんだろう。佐々木もそれを感じていたのか、俺絵の具苦手だわ、と笑っていた。
その日までぼくは佐々木の家の最寄り駅さえ知らなかった。美術室から職員室を通って昇降口、校門から駅までの十分くらいの道のり、各停を待つ間、僕らは共通の友だちの話をして、テレビの話が合わなくて、でも音楽の話が結構できて、最後にまたすこし絵の話をして、ずうっと話していたくせに、結局三年生になってクラスが変わるまで、そう長く話すことは二度とないままだった。
僕の乗る電車が来てしまう直前、去年の文化祭での展示の話のなかで佐々木は、
「高瀬はでも俺、美術部で一番うまいって思った」
と言い、褒められ慣れずに狼狽える僕を笑っていた。
そんな記憶が、卒業以来ほとんど連絡なんかとっていなかった佐々木から突然連絡が来た年明け、本当に僕の頭をよぎらなかったか。浪人の一年間で親との関係が悪化してほとんど押し出されるように実家を出た佐々木からすれば、高校の同級生が同じ町の大学に通っていると知ってそいつと家賃を折半すればと考えるのはある程度自然だったのだろうが僕の場合はそうでもなかった。それが今こうして同居するに至ったのは、本当に、あの時期絵莉とのことばかり考えていて自分の住むところなんて安ければどうでもよかったからだったのか。リビングとキッチンだけでも実家の部屋の二倍あるこの部屋で、僕は自分の場所が分からない。
重くなっていく胸の支えを抱え込むようにうずくまるうち、いつからかもう自分の身体がどちらを向いているのか、ここはマンションか実家か祖父母の家か、高山か和歌山か町田なのか、リビングか和室か寝室か、判然としない薄闇のなかでふと浮き上がるような感覚が身体を包みだしたころ、つむじの先で鍵の回る音、ドアの開く音、人が動いて階段をあがっていく音がするのでそれで玄関、階段の位置が分かってそちらとこちらを隔てるドアの方向から頭が玄関側、足が窓側にあるからとはっきりしてくる自分の身体の輪郭をなでるように空気が動いたのはドアが開いて佐々木が入ってきたからだと気づいたときにはもう意識は戻ってきていて電気がついたのはきっかけでしかなかったから、
「わり、起こした?」
というのに、べつに、と返したのは特に気を使ったわけでもなかった。
身体にこもる熱が足の裏からすこしずつフローリングに奪われていく。冷房つけねえの。佐々木の声もどことなくくぐもって頭の奥まで届かない。麦茶のペットボトルをもとめて冷蔵庫の前に立った、僕はまたティファールの前で突っ立っている佐々木と並ぶ。
「早くない、帰ってくるの」
「中止んなった」
佐々木はコンロ横の小さな窓のほうに手をさしのべて、あめ、と言う。佐々木がなにかを示すときの手の形はまるっきり力が抜けていて、人差し指以外の指が曲がらずにそのまま伸びているから自然と一番長い中指でものを指しているようになる。その白い手も薄闇のみず色に染まっていて雨音よりも先にそれでぼくは外で降る雨をみる。
「中止って雨で?」
「あー。元々先月撮るつもりだったんだよ。それがあれこれ文句が出てなんかずれ込んでさあ、あ撮影の話だけどサークルの方の」
「お湯沸いてるけど」
「あ、やべ」
佐々木はあわててカップにお湯を注ぐ。俺はとっととやれって言ったのになあ、と言いながらゆっくり口をつけた、カップの中身はなぜか色のついていないただの水で、僕がいぶかしむと、
「ん。あーなんか、白湯にしろってうるさくてさ。大学のヤツが。体に悪いんだってカフェイン」
「……おまえ友だちいるんだ」
「なんだと思ってんだよ」
「べつに。今から何すんの」
「あー。まあ時間あるしなあ……」
映画でも観るか、というのでソファに並んだ僕らの目は四時間くらいNetflixとスマホの間を往復して、最後に部屋をぐるりと見渡し、暗いなと呟きがもれればLEDの明るさに行き場を失う。さっきまで眠っていなかったらきっと最後まで見通せなかっただろう異常に退屈な洋画を、でも佐々木が要所要所で変な演出に笑いながらツッコむのでなんとか観て、その次はひたすら場所を移しながら人が死んでいくアクション映画を選ぶけれど隣の佐々木が退屈していないか時々気にする羽目になる。
「そんなこと気にしてんの?」
佐々木は目を丸くして、青椒肉絲の肉を白米の上に休ませて箸を置いた。
「すくなくともおまえが気ぃ使うとこじゃないって」
「そうかな」
「まあ実際趣味ではないっつうか……、楽しくは観るけど本気で取り組む気になんないみたいな、んでもまあそうやって選り好みすんのも勉強になんないし。それってだってトラウマだけで人生語んのとおんなじだし……」
私がこのような性格になったのは青椒肉絲のせいです。
「そうそう。……なんか気持ちわりいな」
少し顔をしかめて肉と米を口に運び、んまい、とつぶやくのを子供かよと茶化す、僕の頭にはふと昼間に思い出したことが頭に戻ってきて、
「すげーな」
ともらせば、なにが、と佐々木が訝しむ。今度は青椒肉絲の皿の上で止まった佐々木の箸の先が目に止まる。
「いやごめんでもなんか」僕も箸を置いて麦茶に口を付ける。「映画みんのも勉強なんだなあみたいな」
言い切って僕はまたコップを傾ける。空中で止まっていた佐々木の箸は肉片をさらって戻っていき、運ばれてきたそれを食べて飲み込んでも佐々木の口は開かない。
「なんで黙んだよ」
僕の麦茶を奪ってやっと佐々木は答える。いや、だって、さあ。
「ふつう、そんな褒めるもんじゃねえだろ。友達のこと」
「……そうか。そんなもんかなあ」
「そうだろ」
「でもじゃあいつ褒めんの」
「いやなんで褒めなきゃいけねーんだよ」
「やまあそれはそうだけど、褒めないのもあれだろ、モチベーションとか……」
「あー。なんでお前にそんなこと心配されなきゃなんだよあほくせー、そもそも思うけどそうやってモチベだの承認欲求だの言ってる奴はさあ、」
「なんでもいいけどおまえ肉ばっか喰うなよ」
「は? あー……」
また押し黙った。佐々木の、テーブルの縁に落とされた視線はやがてぼくの背後へと浮つき、かるく開かれたままになった唇からやがて、そうかあ、と呟きが漏れると、箸は意外なほど素直に野菜を回収しはじめる。ピーマン、パプリカ、たけのこ。反省の意を示すかのようにピーマンが多い。
そうだよなあ。今度は何か確かめるような重たいトーンでそう呟いてもくもくと咀嚼する。なんだよそれとそれを笑う、そのとき僕は昼間に抱えた胸の重苦しさのことなどもうとっくに忘れていた。
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