POSE
東風虎
これまで
1. まずはたしかなことから
「東京いこうかな」
いや、もう二時だけど。佐々木のいうことがこうしてひどく唐突なのは末っ子の躾や機嫌取りにかける気力を失っていた両親がそれを許してきたからだ、とは本人がいつか言ったことであり、そのあとすぐに取り消したことでもある。結果と原因とを安易に繋ぐようなやり方は佐々木の信条からすれば許されることではなかった。そもそも死んでもいない人間の言動に或る傾向を見出してそれを個性として摘出すること自体そういった考え方の延長じゃないか。俺も高瀬も特徴や傾向の寄せ集めでなくとにかく全体としてあって、いくつかの大きな転機なんてものはなく、今ここにいる俺は言い出したらきりがないような細かな経験も含めた人生の時間全てを背負っている、みたいなことも言っていた、気がするけど定かじゃない、ただ少なくとも僕はそうやって覚えているし、そうやって考えている、節もある。
「だから明日も俺がそんなだったらその理由は今晩うどん食ったからでもあるんだよ、なんつうの、……」
厳密には。これははっきり言ったのを覚えているからたしかなことだ。たしかなことから始めていくに越したことはない。その日の佐々木が昼下がりにいきなり東京に行こうと言い出したのは親のせいでもあるし昨日の夕飯の麻婆豆腐のせいでもある。明日からの佐々木がどんなふうであれ、そのことについて僕たちは朝食べたクリームパンや、出かける前に急に思いついてつけたシルバーのリング、見るだけ見て買わなかった無数の服となぜか試着もせず即決したゾウの柄シャツ、タワーレコードに大垣書店、変な時間に食べたバーガーキングと帰ってから前の晩の残りを食べながら見たyoutubeの動画にも理由を求めていい。僕についても同じことが言える。
そんなわけで俺たち別れませんか。理由というほどのものはありませんが、厳密にはワッパージュニアのセットや音楽と人の今月号にも責任の一端があります。
とは言えないのでまた水曜二限が終わっても帰れない。昼休みの後もう一コマ分待って三限後に合流し、駅で解散するまで笑顔でいる。向かいのホームで手を振っている、真っ白なブラウスに濃紺のスカート、あっちのホームに電車が着いてそれが去るともう見当たらないその影と十数秒後に送られてくるLINE。絵莉、もしある日の悲しい出来事を原因に離別するなら失意とともに思い出すには最適な光景。それを目の前にしながら僕は冬の日のことを思い出している。比喩でなく胸に何かが詰まるような感覚と、視界が鮮明で一秒一秒が刻々と過ぎていく、あの時の気持ちを再現したくて絵莉と会うような気がする。今日も体の疲れだけがありありとしたままぼんやり過ぎていった。佐々木の考えに従うならそういう時間のことも明日以降の僕にとっては自分の一部になる、小学五年生の思い出や中学三年生のトラウマとも並んで。急激に疑いたくなってくる。
駅、駅、大きい駅、駅。改札を出て大きい道の角から角、マンションのエントランス、102号室。鍵をひねったら逆にかかった感触がしてため息が出る。自分が帰ってきたとき玄関に鍵をかける習慣がないらしい。こんどは逆に鍵を捻り、ドアを開けて踏み出したらいきなり目が合った。うわ、と声が出る。水の流れる音。玄関の右手にあるトイレから、ちょうど佐々木が出てきていた。
「あ? おかえり」
佐々木の方は少しも驚いていないらしく、お前鍵締めろよ、と言っている間にも左手にある洗面所へさっさと流れていく。
「鍵?」こんどは左から水の音が鳴りはじめる。「あー。ごめん油断してた」
「油断ってなんだ」僕は左耳のイヤフォンも外してポケットに突っ込む。
「もっと遅いと思ってた、夜食ってくるじゃん水曜」
「……今日はなんか、」手に持ちっぱなしだった鍵を下駄箱の上に放る。「まあ早かった」
「LINEすりゃーいいだろ、わかってたら帰ってくるまでに鍵かけたって」
「いや逆だろふつう」床に腰を下ろして鞄を置いたら、足と肩が疲れでぶわっとする。
「確かに、──あ靴脱ぐなよ」
と言われて靴紐にかけた手が止まった。振り返ると佐々木はタオルで手を拭いているところで、無理な体勢で顔だけこっちに向けている。
「なんで」
「買い物行くだろ。めんどいしょその靴」
佐々木の、そのまだ水滴も残る人差し指がぼくの足元、黒いハイカットスニーカー、を指さした。そのときはなんとなく流したことだけど、どうしてあのとき佐々木は僕が履いている靴がわかったのだろう。家にいる間に残っている靴をたしかめたりするわけはないし、僕が帰ってきてからすぐに足元を見たとか。そんなことあるか? 最初からふたりで買い物に行くつもりだったら見るかも。それ自体なさそうだ。無意識に人の履いている靴が目につくのだろうか。まあ、言われてみればちょっと靴に詳しい気はするし。靴に限った話ではないかもしれないけど……。
「どしたん?」
「いや、佐々木がさ……」
いや、やっぱりなんでもない。何となく頭の動きにしたがって口走ってしまっただけで、べつに絵莉と共有できるような話はないのだ。
「なに、言いかけてやめんといてよ」
「いやべつに、わざわざ話すことでもない」
「はー」
大学から一番近いスターバックスにできる列はいつも持ち帰りの客ばかりで、狭い店内に二人がけの席は八つもないがそれなりに選択の余地がある。絵莉とはいつも奥まった壁際の四角い机の席に座る。こっちにコーヒー、あっちにサンドイッチとソイラテ。また七十代くらいの女性が妙に店員と話し込んでいる。
「佐々木ってあれやんね、一緒に住んでる人。肌のきれーな」
サンドイッチを食べ終えた絵莉は手をウェットティッシュで拭きながらそう言った。その爪のピンクが肌の下を流れる血の色でなくてネイルカラーなのを僕は知っている。
「なにで覚えてんだよ」
「だって喋ったことないし……」そう言った絵莉の顔は僕から離れていった。肘がテーブルから離れて、体重が背もたれに移る。「あと小さかった」
「そんなにか?」
引っ越してすぐ、絵莉がうちに来たとき、佐々木はそういえば殆ど二階から降りてこなかった。作業が大詰めだとかなんとか。気まずいのが理由なら外に出ただろうから本当だったのだと思う。挨拶くらいはしていただろうか。
「芸大やっけ。映画とかやってるって」
「映画っていうか。映像全般、みたいな。いや俺もよく知らない」
「見せてもらったりせんの」
「うんまあなんか一回見たけど。よく分かんなかった……あとなんかめっちゃ長かった」
「ふーん」絵莉の手が目の前のトレイの上に散乱するサンドイッチや紙ナプキンのゴミを皿の上へと移動させていく。僕はコーヒーの残りを無理して飲み干した。「どんな感じなんやろ」
「どんな感じって」
「そういうの本気でやるの……本気でって、学校とか通ったりして。やるのってさ」
「ああ」
絵莉は自分の耳たぶを少し引っ張るように触っていた。何もついていない左側。右耳では銀色の輪の中で小さな星が揺れる。
「憧れるかもなあ。どんな感じなんかなあ」
そんなことを言うので僕は佐々木が深夜、リビングへ降りてくるときのことを思い出していた。階段を降りてくる気配に従ってソファに寝そべっていた僕はスマホをしまい、中途半端な姿勢で固まったまま、寝たのかと思った、と言う。唸るような生返事だけして佐々木はカップにインスタントコーヒーをざらざら入れ、電気ポットの湯を沸かす。それをただじっと待っている。そういうときの佐々木の顔を僕は見たことがない。見たことがないが、まあ。
「大変そうだよな」
そう言ったこの口の砂のような感触がまだ残っていて不意に靴紐を解く手が止まる。金曜、佐々木は僕より遅い。
玄関の段差に腰掛け、靴に手をかけたままの姿勢でもう動く気が失せ、ふと水曜日のことを思い出す。言われた通り靴を履いたままここで待っていると、2階から財布とスマホだけ持って降りてきて、
「わり、行こ」
そう言った佐々木と目が合う。その目線は最初水平だったのに、佐々木の裸足がサンダルに滑り込むように降りてくると佐々木の側へと傾いた。ちょうどこの段差くらいなんだ、確かに小さい、とか、なんでこんなことばかり考えるのか、そんな問は佐々木に倣って厳密に考えていけば無数に答えが用意できて意味をなくす。けれど、靴を履いたまま動かないドアノブを睨みつける、僕にはいつまでもそう厳密でいられる自信がない。
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