阿波分区ー2 襲撃

 警告、街域東部及び第三塔にて、夜警連を観測。

 区民は可及的速やかに第一、第二塔へ避難してください。


 脳内に響き渡る通信。しかしそれは、少しばかり遅かった。

 瞬く間に、風圧で逆巻く髪。右横を三つの青白い閃光が通り過ぎていく。数秒遅れて、賑やかな喧騒が悲鳴に変わる。振り返るまでもなかった。爆発で吹き飛んできた人の腕が、自分を追い抜いた。心拍は落ち着いている。敵三体は正面。この分区で戦える人が来るまで逃げ切れるか、それが問題だ。全く無意識に、自分はおとりになるつもりだった。

 街端に沿うように走り出す。同時に、三体の口がこちらを追って向きを変える。横目で確認するが、第一塔、第二塔の入り口だろう場所に人集りが出来ていた。第三塔に向かう阿波分区長とジアの姿を確認したあと、再び通信があった。

 

 警告、夜警連やけいれん、第二波を観測。

 各分区への応援要請をかけました。

 全街域ぜんがいいきに防壁を張ります、皆さんは避難を継続してください。


 キィイイインと甲高い音が鳴って、半透明な膜が街と根の端境から一気に立ち上った。栫の結界と同様のものだろう。命の危機などという急場の事態にはならずに済んだらしい。第三塔からは未だ激しい戦闘音。一塔と二塔からは、相変わらずの悲鳴。それぞれ阿鼻叫喚の喧騒のなかにあって、しかし、後者は、徐々に落ち着きを取り戻し始めている。

 飛び散った亡骸や吹き飛んだ建物から考えると、街で犠牲になったのはおよそ十数人。泣きながら、叫びながら、それでも散り散りにならずに全員が避難指示に従って逃げている。有事の際に少しでも被害を減らすため、こういった訓練が日頃から行われているのだろう。気付けば、街にはほとんど誰も居なくなっていた。区民の避難は迅速で、ほぼ終わりかけている。

 安心している場合ではない、自分も避難しなくては。慌てて振り返り、足を速めるのと同時に、ふと背後から音がする。夜警連がその砲で防壁に一撃を食らわせてきた……のではない。消え入りそうなほど小さく、しかし確かに、何かを打ち付けるような音が、何度も背後から聞こえる。嫌な予感と共に、視線を向ける。

 そこには、片腕で少女を抱きかかえた男性の姿があった。少女は目に涙を浮かべ、男性にしがみついている。男性は、鬼気迫る表情でこちらに何かを叫んでいる。どういう理由か分からないが、街の外に出ていたらしい。僅か数メートル先。防壁の向こうの二人は余りに遠く、彼らに獣たちが迫る様子は、夢か何かに思われた。

 本当に不意に、身体が動く。


常権じょうけん権限三けんげんさん翔撒火しょうざんか、行使!」


 彼らに向かって走る。彼らとの間に聳え立つ防壁は、夜警連の脅威に対して展開されたものだ。この記憶喪失の身分で、どうこうできる訳はない。実際、撃ち放った小さな火弾は透明な壁の前に霧散した。勢いのままに繰り出した殴打も、自分の拳を痛めるだけに終わった。


「頼む、助けてくれ!」


 はっきりと、声が聞こえる。近距離の念話能力を持っているのだろう。三十センチの彼方に立つ男性は、何度も何度も壁越しに叫んでいた。


「あんた、権力者けんりょくしゃなんだろ、早く助けてくれ! なあ!」


 権限五には、彼方かなたの火、瞬間移動に似た常権がある。権限六に至れるような、才能に選ばれた半分ではなくても、権力者なら彼らを救えるだろう。あるいは、あちら側に立って戦うことだってできるかも知れない。けれど、自分には記憶がない。権限三。これが未だに自分の限界だ。

 壁は壊せない。瞬間移動はできない。街は自分を除けば完全な無人で、権限三の『伝奏でんそう』では会話が通じる距離までしか声が届かない。彼らの背後の化け物たちは、いまにも飛びかかろうとしている。反射的にここまで来てしまった。けれど、結局自分にできることなんて何一つない。


「何してんだ! 早く、早く!」


 ごめんなさい、あなたが望むような人間じゃないんだ。男性の前で、どんな顔をしているのか分からない。何もできない無能力者の自分を見て、彼は何か一つ観念したようなため息を吐いた。少女を壁際に下ろし、夜警連との間に立った男性は、こちらを振り返らず、言う。


「……この子だけでも、何とか頼めないか?」


 引き絞るような声だった。壁際の少女と目が合う。何が起こっているのか分からないのだろう。混乱と絶望のなかで、目を見開いて、小さな影はただ呆然と立ち尽くしている。自分は何処までも無責任で、最低だ。視界が曇る。少女に比べてよほど軽率で冷たい筋が頬を伝い、眼前の男性の背中が歪む。

 ないのか、本当に、何も? もう一度思い返す。彼我を隔てる壁は、自分の力ではどうにもできない。加えて背後に人の気配はない。助けを呼ぶ手段も持ち合わせてはいない。状況は最悪だ。既に全てが手遅れだ。こんな中で何か、何か。何か……ある。

 猛スピードで巡る記憶のなか、一つ引っかかる。覚えがある。ルベラに最後に襲われた日。デイツの根の上であがった、緊急用の信号弾。放送には、各分区に応援を呼んだとあった。が周防分区から出てきていれば、間に合うかも知れない。小さな可能性に片腕を挙げる。そして、叫ぶ。


「常権、権限三、翔撒火、二津合ふたつあい、行使!」


 空に高らかと上がった花火。

 それは一瞬だけ夜警連たちの注意を引きつけ、一瞬にして相手を呼び寄せた。

 周防分区方面。デイツの右方向の遙か地平の果てに、青い光が浮かんだ。次の瞬間には、それは軌跡を振り切るほどの猛烈な速度を伴って正面から突っ込んできていた。炸裂音。激震が轟き、真横を煌々とした熱風が通り抜ける。眼前の防壁は粉々に打ち砕かれ、莫大な風圧で男性と少女がこちらに転がり込む。


「とりあえず間に合ったわね。ほら、巻き込むから避難した、避難した」


 パンパンと手を叩く音。光線の如く飛来した彼女、周防分区長メーゼは、陽炎ようえんを着込んで街の中央に浮いていた。冷気が肌を撫でる。太陽のように浮かぶ彼女の足下から、同心円状に地面が凍り付き始める。理解が早い男性は、少女を抱え、こちらに一度頭を下げて、第二塔の方に走っていった。見守っている場合ではないと気付いたところで、背後に五重の爆音が落ちる。追ってせまる破砕の衝撃波。何をする間もなく、常権を撃ったままの姿勢で、右手が掴み上げられた。

 先に帰ってなさい。欠伸をしながらこちらに手を振る赤髪の女性を中心に、阿波分区全体を映す視界がゆっくりと後退する。根の群れに穿たれた大穴と、それに吸い込まれて落ちていく傷らだけの三体の機械獣。浮かんだ身体。繋いだ手から滴る血。

中空まできて、丁度自分を囲うように、二十本の槍が眼前に躍り出た。顔を上げると、少女と目が合う。


「ありがとう、ルベラ」


 言葉に彼女は頷いた。赤い孤を引き、阿波分区から加速度的に離れていく。

 遠くに見える戦地は激動していた。阿波分区第三塔が根付近の基部から断裂して垂直に吹き飛び、生み出された巨大な柱が、空中で縦に数回転した後、そのまま剣のように分区西端の夜警連の群れに振り下ろされた。舞い上がる莫大な塵埃じんあい。距離的にぎりぎり視認できる。あれに乗って操っていたのは、『絶閣ぜっかく』ジアだ。

 圧倒的な一撃から続けて、激しい瞬きと乾いた破壊音が連続する。最も大きな通りに、白い華が咲いては散っていた。吸熱反応を操るメーゼ。街に降り立って東側の夜警連に歩む彼女を中心にして、その一歩ごとに、足下から小規模な氷原が十数回形成されては炸裂している。西から風に流れてきた粉塵の雲は、熱波に流されて霧散する。遥か上空の塵埃圏じんあいけんも同じだ。抉じ開けられた晴天の下。絶え間なく明滅を繰り返し、髪を棚引かせて進む彼女を前に、機械の怪物たちは押し返されていく。

 しかし、敵は膨大だ。ここからなら分かる。彼らがいま相手にしているが第一波。阿波分区を囲うようにして、根の上に五重の夜警連の群れが集まってきている。機械の怪物の輪のなかで攻撃性の常権が乱れ飛ぶ。阿波や他の分区の優れた戦闘員が、散り散りになって戦っているのも見える。投げられて飛んでいく巨大な岩石や敵を探して地を這う竜巻、周囲を切り刻む鉄の鎌の舞いや超高圧の水の散弾。加えて、夜警連たちが打ち上げる何発もの砲撃。天地を何度も逆さにする軌道で、無数の攻撃の嵐の合間を抜ける。

 デイツの横を過ぎて、戦闘音もようやく聞こえなくなった所で、近くの根に着陸した。茶色い起伏のある大地に立って、一度深呼吸をする。戦況が気にならないではないが、いまは分区に帰ることが優先だ。思い切り負担がかかった自分の右腕の痛みも、思ったより早く霧消した。ここまで連れて戻ってくれたことに改めて礼を言うと、ルベラは腰に巻いた鞄から取り出した絆創膏を指に貼りながら、小さく頷いた。

 夜警連は大体が阿波分区に向かっているらしく、幸運にも帰路で出くわすことはなかった。その代わりか、周防分区まであと少しというところで、根の上に座る灰色の髪をした女性と鉢合わせた。

 何処かの分区の獄卒だろうか。肩口に赤い刺繍の入った服を着た彼女は、こちらを視界に認めるとゆっくり立ち上がった。露骨に警戒気味なルベラの手を引きながら挨拶をしてみるが、返答はない。自分たちを一瞥した彼女の目は直ぐにデイツの向こう側へと焦点を戻した。哨戒任務か、あるいは阿波分区へのさらなる応援か。邪魔にならないよう、静かに横を抜ける。


「…………十…………却……」


 瞬間、そっと彼女の口が開く。何を言っているかは聞き取れなかったが、その声には何故か聞き覚えがあった。振り返った頃には、もう遅い。背後に姿はとうになく、乾いた風が砂を流してデイツの枝葉を揺らしていた。

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