第40話 初めての仕事/初めての喧嘩②
オレンジ色の油カスが目立つ中華料理店の洗い場で、中華鍋を擦る。
傍らには同じく鍋を擦るエリザベスの姿がある。しかし、自分たちの間を流れる空気は最悪だった。
(どうしたものか……)
ちらりと、横目に盗み見る。一心不乱に洗っている背中からは、自分に話しかけるなという彼女の剣吞な意思が滲み出ている。
独古は、声には出さずため息をついた。
お金がいる、それを訂正する気は無い。お金がいるのは事実なのだから。されど、彼女とこんな風に言い争いたかったわけでは無い。タイル張りの天井を思わず睨んだ。
「あの~、エリザベスさん?」
「……」
「ごめんなさい、僕も悪かったと思っています。タイミングと言い方がもっと他に合ったと思っています。貴方の気持ちも考えきれていなかった」
「……」
「あの、だから、少しは返事を返して欲しいな。なんて……」
伺う様な声音で尋ねるが、それでも言葉は返ってこなかった。
初めての仕事、大切な二人の門出の日だったのに、なぜこうなってしまったのか。
彼女への苛立ち、自分への怒り、大切な日が壊れてしまった悲しみ、色んな感情で胸が破裂しそうだ。独古は耐える様に下唇を噛んで空を仰いだ。
神様は何時だって、苦しい時に手を差し伸べてくれない。
「はい、これ少ないけど駄賃」
割烹着姿の店主から差し出される封筒を前に独古たちは無言だった。
ちらりと横目にエリザベスを見る。
彼女は封筒を見つめている。表情はぞっとするほどに冷めていた、瞳が海の様に凪いでいた。瞳の奥で何を想っているだろう。
どうするべきか苦慮する。けれど、何をやっても失敗に終わりそうだった。
受け取らない自分たちを店主が怪しみだしている。
眉根を寄せて訝しげに見られるものだから、独古はすみませんと愛想笑いを返す。
取らなきゃ地獄、とっても地獄。どっちを選んでも悪手であった。
「受け取れば良いわ」
声に振り向く。エリザベスは静かに俯いていた。ずっと無言を貫いていたエリザベスが、独古の顔も見ずにそう呟くものだから、独古は戸惑う。
「受け取ればいいって…」
「言葉通りの意味よ。受け取ればいいじゃない、お金が必要なんでしょう」
「エリザベスさん、ちょっと、何もそんな投げやりな言い方しないでも」
「私の意志なんて無視すれば良いわ。……ドッコの好きにすれば」
「あ、ちょっと、エリザベスさん!!」
明確な拒絶の籠った声音だった。彼女は一方的に言葉を投げつけると店主に一礼すして、踵を翻して店を出る。
何なのだ。何だって言うんだ。自分ばかり。
怒りが湧いた。指が震える。ひきつる口の端から漏れる吐息が灼熱の様だ。ああ、頭に来ている。そう、冷静でない頭の端で自覚する自分がいた。
ぐっと拳を握り、自分も店の外へと向かう。
「受け取らないのかい兄ちゃん!」
「ありがとうございます! お気持ちだけ受け取ります!」
背中から投げかけられた問いに、そう答え、雑踏に消えゆく彼女の背を追いかけた。
********************
「手綱を握っている間は大人しいから、お散歩よろしくね」
三件目のペットの散歩の依頼。
ウエストダンプ露店団地の一角で宝石商を担うマダムがニコニコと、自分のペットと僕たちを送り出した。
「ぶもももも」
エリザベスの持つ手綱の先にいるのは、金髪を生やした牛柄のクラゲだった。傘と触手の境目部分に真っ赤な首輪を嵌められている姿は珍妙だ。空を風船の様にぷかぷかと浮かびながら特徴的な鳴き声を上げている。
常であれば、真新しさに好奇心を溢れ返させた事だろう。
けれど、今の自分にその様な感情が湧き上がる余裕など無い
「……お金、受け取らなかったのね。あんなに必要だって言っていた癖に」
「双方の同意が無いままに事を進めてもいけないでしょう」
「素直にお前が拗ねるのが嫌だったからって言えば良いわ。内心で絶対に思っているくせに」
露店の活気が遠いものに感じた。いっその事、笑ってしまいそうなほどに空気が冷えていた。関係の修復などどうやったらできるのか、そう思えるほどに、溝は深い谷間を作っていた。
「なんでそんな風にとげとげしい態度で言うんです。互いに歩み寄りながらいい方法を考えましょうって言っているだけじゃないですか」
「最終的にはこっちに折れろって思っている癖に」
「なんであんたそんなに頭でっかちなんですか。それを言うならあんただってこっちにおれてもらう前提で話を進めているのは失礼なんじゃないですか」
「そうよ、でもいいでしょ?!」
売り言葉に買い言葉、淡々と進んでいた言葉の交わし合いが止まる。
親の仇でも見る様に彼女が振り向く。
「お金の話なんてしたくない! 耳にしたくない! 話もしたくない!」
その言葉がトドメだった。独古は心の奥で怒りの風船が破裂する音を聞いた。もう、配慮だの、何だの考える余裕など無かった。
「ごちゃごちゃごちゃごちゃ。我儘なんですよ、あんた…!」
マンションの合間に声が響き渡る。露店の端々から興味を惹かれた様に野次馬が顔を覗かせ始める。注目の的になっていたが、人の目を気にするという考え自体が吹き飛んでいた。目の前の少女に対する苛烈な怒りだけが、脳を支配している。
ああ、この怒りのままに噛みついてやろうか。
こんなにも怒りが湧き上がるのは久方ぶりだった。
「どうにかなる? 何とか出来る? 社会舐めすぎだろ、今の自分を守れない奴がこれから先誰かを助ける事が出来るとでも? はっ、笑える。自分に支援の手が差し伸べられる事を前提に動くなんて。考えなし過ぎるよ」
「ああ、はいはい、そうですね。どうせ、私はちゃらんぽらんの我儘娘よ。まあ、自分の身一つ守れないドッコ君は? 私以下と思いますけど?」
「それで、あんたはいつまで金鹿亭の人たちにおんぶにだっこしてもらうつもりなんですか? ああ~、もう、あの人たちの気苦労を考えると涙が出そうですよ。とんだ金食い虫に住み着かれたもんだ」
「言ったわね?! 言っちゃいけない一線を超えたわね!? 絶対に許さないから?! 跪いて靴を舐めて許しを乞うてもきたとしても、絶対に許してやるもんか!」
「ああ~、勝手にすればいいじゃないんですか!? 僕だって、後からあんたが助けてって泣きついてきても絶対に助けてやりませんから!!」
ぎゃあぎゃあと、互いに唾を飛ばしながら喧嘩をする。
逆鱗に触れ、ヒートアップした口論は止まらない。口での攻撃がもう止まらないなくて手を出してやろうかと、拳が震え始める。それはエリザベスも同様で、彼女も懐の財布に手を伸ばそうとする動きを見せた。
一触即発といった、まさにその時だった。
「ぎゃあ、牛だ!?」
「牛!?クラゲ!?」
「チーズドックがああ!!」
通りから激突音と阿鼻叫喚の声が沸き起こった。
その声に、エリザベスと独古、二人して通りを見た。
牛が爆走して、人々を跳ね飛ばして言っている。正確には、牛柄をした宙に浮いたクラゲなのだが。二人してエリザベスの手元を見た。そこにはリードと持ち主のいない首輪しかなかった。目の前のそれが何が起きたかを如実に伝えていた。
二人して悲鳴を上げた。
「ぎゃあああ!? ドッコの馬鹿、馬鹿、ばかああああ!!」
「あんたのせいでしょうが!? あああ、とりあえず休戦です! 走りますよ!?」
牛が作り出した直線をとにかく走る。走りながら涙目にエリザベスが自分を罵倒し続ける。クラゲはまるで、闘牛の様だ。弾丸のごとく、目の前にいる者をすべからず突破していく。とんでもねえクラゲだった。
(これ以上被害を出すわけには行かない…!)
独古はエリザベスに声を掛ける。
「エリザベスさん、あんた小銭かなんか持ってないんですか?! この距離なら銭投げて足止めできるでしょう?!」
「………」
走りながら、指示を投げる。だが、返事はない。彼女は俯いたままだ。
こんな非常時まで、喧嘩を引っ張るつもりか。今度こそ怒髪冠を衝きそうな心地だった。罵ってやろうかと、口を開きかける。だが、そこで彼女が罰が悪そうな顔を急にして、コートの胸元を開き、自分に見せてきた。
その行動に訝しむ。そして、見せられた場所に視線を向ける。
コートの裏側、すなわち、裏ポケットに当たる部分。そこはぺったりとものが入っていない事を主張していた。
「……お金、無い」
「あんた、そんな状況で僕にお金取るなって言ったんすか!? バッッカじゃねーの!」
「うるさい、うるさい、うるさーい!」
まさかの、選抜試験が終わってから一円も増えていない状態であった。
独古は今度こそ本当に神に訴えかけるように空を見上げた。
主よ、主よ、何故あなたはこんなにも無慈悲なのですか。だが、そんな愚痴への返事などもちろん無い。
追いつこうと足を動かす。だが、その距離は一向に縮まらない。
そうして、独古はクラゲの行く先に視線を向けて目を見開いた。ちょうど、クラゲの進行方向に、ジャズ喫茶があった。そこから壮年の女性が出てきている。彼は店内の人に話しかけていて近づく魔の手に気が付いていない。
「あああ!? おじさん危ない! 避けて避けて!」
張り裂けんばかりの声で呼びかける。だが、悲しいかな、声が届くよりも先に彼女は跳ねられた。青い空に人間が舞った。その跳ねられ方は綺麗だった。鮮やかに鮮血が舞う。
「「ぎゃあああ!?!?」」
被害総額、日本円にして四十二万円四千円、軽傷者十五名、重傷者約一人。
始めての仕事は失敗に終わったのだった。
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