第22話 エピソード:エリザベス②(2022/01/26 改稿)


 私の事を語るには、私の家庭環境について語る必要がある。

母国のモダンアートの最前線、雑誌やコレクションにも参加する、ティーンエイジャーなら誰もが知っている大手ファッションブランドメーカー「A&A」。その創立者こそが私のパパだった。

 その創設一家の長女。それが現実の私の役割だった。

とは言っても私が「A&A」の創設一家として表立って経営に関わったことはないの。ピルグリムお兄様がほぼ全権を握っていたから。

 ピルグリムお兄様。


 …美しくて、それでいて、聡明な人だった。


 当時まだ学生だったにもかかわらず、大人顔負けの交渉力で、父の側近を纏め上げ、会社が分裂するのを防いた上に、私の親代わりまで努めきった人。

 苦労を才能で解決する、物語の主人公の様な人だった。神童って、ああいう人の事を指す言葉なんでしょうね。

 親代わり、そうよ。私にとって、お兄様が親の代わりだったわ。

私の父と母は私が十歳の時に亡くなった。事件性なんて何もないわ。死因はありふれた交通事故よ。仕事帰りの途中に玉突き事故に巻き込まれて即死だったの。

 薄情かも知れないけれど、今じゃ、両親の顔で思い出せるのは、屋敷に置いてある家族写真に写った表情くらいなの。母も父も仕事第一の人間だったから、家族らしい交流もこれと言って無かったし。

 いつだって、ピルグリムお兄様が変わらぬ愛情を注いでくれたから、両親が居ない事を悲しくは思っても寂しと感じた事は無かった。

 それはさておいて。

 ピルグリムお兄様は王子様の様な人だった。容姿端麗、眉目秀麗、そして、私はそんなお兄様のお姫様だった。

些細な家事をするだけでお兄様は私を抱き抱えて褒め称えた。

外に出る日は、日傘を差してくれる使用人がいつも隣に居て、いつだって誰かが守ってくれた。

怪我をしてはいけないからと、身の回りの事は全て使用人に任せるよう教えられた。


「エリザベス、お前は何も考えなくて良いんだ。お前が望む事は全てこの金で叶えてしまえば良い。大丈夫だ、お前の道は俺が作ってやる。だから安心して自由に生きろ、なにせ、お前は俺の妹なんだからな」


 あの人の愛情を受けて、あの人に真綿に包まれる様に育てられて、世間知らずなお嬢様が出来上がった。

それがゴールドラッシュに来る前の私よ

 本当に自分でも呆れ果てるくらい好き勝手にやったわ。

 会社を持つ兄が羨ましいからと新しいアパレルブランドを新規に立ち上げさせたり、屋敷のメイドに高額なチップを掴ませて我儘に振るまったり。気に入らない同級生はその両親に金を掴ませて転校させたわ。友人も金で作った。

 そのお金を稼いだのは両親やお兄様だけど、与えられたならそれは私のもので、私のものを私がどんな使い方をしようが関係ないとすら思っていた。そのありがたみも考えずにね。

 湯水のごとくお金を使ったわ。

 お金を使えば何でも自由に出来た。

 お金を持っている私は特別で、お金を与えれば何だってしていいんだって思い込んでいた。

 ……ええ、馬鹿な話よ。そんな事あり得ないというのに。

けれども考える事を知らなかった私は、生きている環境を疑うことをしなかったの。

私は私の選択は正しいものだと思い込んでいた。けれど、そんな生き方をしていたから、罰はちゃんと当たったわ。 


 忘れもしない、いえ、忘れられない出来事、絶対に忘れてはいけない出来事よ。

 

 今から一年前、私が十七歳の時の事だった。

 自分のアパレルブランドを立ち上げたって話をしたでしょう。思い付きで立ち上げたっていうのに、お兄様の手腕もあってそのブランドは軌道にのってね。あの頃には数店舗を展開できる程度には成長していた。

 当時の私は、その事を自分の偉業の様に誇らしく思っていて、あの日も実店舗を見る為にお付きの運転手にショップへ連れていってもらっていたの。

 その日、ショップまでの道は酷く渋滞していた。

 海辺の街で片道一車線しかない道路に車が長蛇の列を成していたのを憶えている。遠くの街で殺人事件があった様で、二キロ先で警察が検閲をしていたの。

 いくら待っても、雀の涙ほどの距離しか進んでいかない。待つことに痺れを切らした私は、運転手の制止を振り切って歩いてショップまで行く事にしたわ。

 ええ、勿論距離はあった。私、馬鹿だから。歩いて行けると思い込んだのよ。

 けれど案の定、途中で道に迷ってね。道行く人に助けを求めたけれど、皆取り合ってくれなかった。その時の私は財布も携帯電話も持ち歩いていなかったから、初めて無力な自分を知ったわ。

 タバコ屋の軒下に蹲って、途方に暮れていた。

 もう帰れないんだって、座り込んで膝に顔を埋めて絶望すらしていた。


 ヘレンが手を差し伸べてくれたのはその時だったわ。


 ヘレンは私がお金を使うことなくできた、初めての友達だった。

 私の生涯初めての、本当の友達だった。

 初めて会った彼女は黒い髪の毛に所々油染みをつけてた。しかも灰色のワンピースを着ていて、なんてダサくて汚い人だって彼女を軽蔑したくらいよ。

 最低じゃないか?その通りよドッコ、あの頃の私は、最低な女の子だったの。

 まあ、どんなに嫌でも、その時は彼女しか頼れる人がいなかったから、しぶしぶ電話を借りに付いていったの。

 海辺のトタン板でできた、錆びれた平屋が彼女の家だった。古びた物自体に触れた事も無かったから、最初は全てが汚く見えて、ヘレンの家が生理的に無理だとすら感じたわ。

 けれど、その感覚もその後すぐに吹き飛んだ。 

 電話を借りようと手を伸ばした時、その隣にあるヘレンの部屋が目に入った。

 跳ねたペンキで汚れた床、所狭しとならんだ作業着。

 そこは女の子の自室というより、学校の美術室と称した方が正解な部屋だった。

 その中心に、窓から差し込む日の光を浴びて、それはあった。

 絵具や画材が散らばった部屋の中心の、イーゼルに立てかけられた女性の油絵。

 椅子に座る女性が画家へ微笑んでいる絵だった。

 何処にでもありそうな構図で、卓越した技術があったわけでは無かった。

 けれども、私はその絵を見た瞬間、生まれて始めて心を打たれた。今でも、彼女の絵以上に心が揺さぶられる絵を見た事は無い。受話器を持って立ち尽くす私を心配するヘレンの事は今でも覚えている。

 それほどに、私は彼女の絵に感動したの。

 価値のつけられていない物に初めて「価値」を見出したの。

 それは、私の人生観を変える体験で、私は実際にそれから彼女の絵に心酔して、お兄様には内緒でヘレンの家に絵を見に行くまでの信者になったわ。

 今でも、彼女の絵の全てを思い出せる。

 学校の放課後、内職をする彼女の隣で興奮して彼女の絵を見ていたわ。

 自分の絵を褒められる経験が無かったみたいで、私が賛美するたびに何時も照れていたわ。好きな食べ物、好きな男性のタイプ、不思議と双子かっていうくらいに私とヘレンは気が合った。仲良くなるのに時間はかからなかったわ。


 彼女は貧乏だと言うのに、私が画家になる為の費用を出すと言ってもいつも断っていたわ。心の底から願う夢は、他人のお金を借りて叶えてはいけないと、お金の在り方を何時も気にしていた。

 ヘレンは誠実だった。それでいて、家の貧乏さゆえか、常識と感謝というものを大切にしていた。

 だからこそ、非常識な私に色んな正しい事を教えてくれた。


 リンゴの皮で美味しいヴィーガンブランチが出来る事。

 買い物の際にお礼を言ったら店主から笑顔が返ってくる事。

 親切にしたら感謝が返ってくる事。

 常識を常識として知らなかった私に大切な事を教えてくれた。

 屋敷で知らなかった暮らしを、私は彼女と過ごす日々で知ったわ、

 ヘレンが私に普通というものを諭してくれたから今の私が此処にいる。

 

 けれど、学んだのは楽しい事ばかりでは無かった。


 ヘレンの部屋には一枚だけ布をかけた絵があった。彼女はそれを見られる事を極端に嫌っていて、私がどれだけ金を積むといっても一度も頷いてくれた事は無かったわ。しつこく詰め寄り過ぎて、友達を辞めると啖呵を切られて事もあった。

 それでも、私は彼女の絵が見たかった。

 だから、約束を破ってしまった。


 その日は重たい雨雲が空を覆った日だった。今にも雨が降り出しそうなのに、優しいヘレンは、私に出す来客用のお茶が切れてしまったって、わざわざ買いに出掛にいってくれたの。その間、私はリビングで彼女の帰りを待つことになった。

 

 最初こそテレビを見たりして暇をつぶしていた。

 けど、次第に飽きて他に何かしようと考え出した。そこで、今なら、彼女が隠していた絵が見れるんじゃないかって考えついてしまった。

 いけない考えだって自覚はあった。

 友達が嫌がる事なのよ。それを自覚してするなんて最低だって自覚もあった。

 でも、それ以上にあの優しいヘレンが絶交という言葉を出してまで隠そうとする秘密を暴きたいという好奇心に、最終的には負けた。

 彼女が帰るまでに見終わればいい。

 そう決めて私は彼女の部屋へと忍び込んだ。

 あの絵はカーテンの引かれた埃の舞う部屋の隅にいつも通りあったわ。痕跡を残さないよう、慎重にそこに向かい、私は立てかけられた布を取り払った。

 そして、驚いた。

 そこに在ったのは何て事のないアザミの花畑の絵だった。彼女が幼い頃に描いたもので、画力もまだない時代の、お世辞にもうまいとは言えない水彩画だった。

 とても、友達との縁を切ってしまってでも隠したいと思える代物では無かった。

 どうしてこんなものを隠していたのか不思議で堪らなかった私の後ろで、物音がした。振り向けば、そこに居たのはヘレンだったわ。

 見つかった。私は一度絶交という言葉も持ち出されているから、秘密を見てしまった事がバレて、ひどく焦った。けれど、私以上の動揺を見せたのはヘレンだった。否、動揺どころじゃなかった。

 ヘレンは、私に見られたことを絶望したと言わんばかりに血の気の引いた表情をして、そして最後に泣き出した。

 一体どういう事なのか。訳も分からず、謝りながらハンカチを差し伸べた私の手を彼女は払いのけた。明確な拒絶の反応だったわ。

 そのまま、彼女は座り込んだまま何度も握った拳で「どうして見たの」と私の胸を叩き続けた。


「エリザベスちゃんだけには、エリザベスちゃんだけには、見せたくなかったのに!!」


 彼女の家は、代々漁師を生業としているらしくて、彼女のお父さんは漁師だった。幼い彼女は大漁旗を付けた船を見送る為に、近くのアザミが咲き誇る空地に行くのが日課だったそうよ。

 そう、あの絵は彼女のお父さんとの思い出の花畑の絵だったの。

 そう、思い出、なの。過去のもの、なの。

 もうその絵の題材となった場所は無い。

 数年前、巨大な工場が建造されるためにアザミの花畑は買収されたから。

 

 彼女の思い出はその工場に潰された。

 彼女に襲い掛かった不幸はそれだけでは無かった。その工場から漏れる化学成分のせいで海辺の汚染が進み、水産業者は廃業に追い込まれた。事実上の被害と、根も葉もない風評のせいで。彼女のお父さんも同様だった。

 街の人と同じく船を売り、大漁旗を捨て、漁師服の代わりに町工場の作業服を着るようになった。

 巨大な工場のせいで、アザミ畑も、沖に出る父も、海も、全てが無くなった。

 その工場がヘレンの大切なものを奪った。


 諸悪の根源であるその工場は、アパレルブランドを支える繊維工場で。

 そのアパレルブランドの名前は「A&A」という名前だった。


「私、A&Aを作った奴は、悪魔の顔をした人を人とも思わない人間なんだと思い込んでいた。だって、お父さんを、この街の漁師の皆を不幸に追い込んだのに、幸福にのうのうと生きている奴なんだよ?だから、出会ったら刺し違えても殺してやるんだって決めていた。私たちが味わった苦しみを絶対に味合わせて、謝っても永遠に許してやらないんだって心に誓っていた。……なのに、私が出会ったA&Aを作った奴は、想像とぜんぜん違った。ただのとっても綺麗な女の子だった」


 彼女は大きな瞼を真っ赤に腫らせて、悔し気に床を何度も殴っていた。亜麻色の床が、彼女の涙が落ちた所だけ黒く変色している。


「道に迷ったって子供みたいに泣いていてさ、常識なんて何にも知らない癖に、初めて知った事を、馬鹿みたいなくらいに驚く事の出来る、嬉しいと笑顔を浮かべられる、純粋無垢な子だった。それで、誰も見ない私の絵を、誰よりも愛してくれて、こんなに汚れた私の事を、友達だって言ってくれて」


 顔を上げた彼女の表情は絶望に暮れていた。


「どうして、エリザベスちゃんだったの」


 私はその日、自分の我儘が人を不幸にすることを学んだ。

 お金を無造作に使う事で、誰かが傷つくことを知った。

 私を私に育ててくれた大切な街に取り返しのつかない傷をつけてしまっている事を知って、私はようやく自分がこれまで犯してきた罪の数々を自覚した。


 雨の中、どうやって運転主に連れて帰ってもらったのか覚えていない。ただ、帰り着いて一番にお兄様に怒鳴りついた事はよく覚えてている。


「どうしてお金の使い方を教えてくれなかったの!?私がやっていた事が、誰かの不幸に繋がっているんだって、なんで教えてくれなかったの!?」


 お門違いなんだって分かっていた、それでも、私はお兄様を責めた。

 お兄様が、もっと昔にお金を使った先に起こる事を教えてくれていたら、あの街の悲劇を未然に防ぐ事も出来ていたかもしれなかった。その可能性があるからこそ、こうなるまで、私に現実を教えてくれなかった事実を責めた。

 馬鹿なことよ、自分が悪いのに、それを他人のせいだと責めたのだから。

 あの時の私は、まだ無知でバカだった。だから、私が本気で訴えれば、兄は私を慰めるか、こんな事を想定していなかったと嘆いて謝ってくれると、信じていたの。

 なにせ、ピルグリムお兄様は、どんな我儘を言っても、どんなに馬鹿な事をしようと私に飴のような甘い愛を与えてきてくれた、たった一人の庇護者だったから。

 だから、私がお兄様を責めたとして、お兄様は私の想いを受け止めた上でこれからどうしていくべきかを一緒に考えてくれるのだと信じ込んでいた。

 だからこそ、私はその言葉に対して、お兄様が取った態度が今も忘れられないでいる。


「エリザベス、お前自覚無かったのか!」


 怒り悲しむ私を見て、まるで喜劇でも鑑賞しているかの様に、ピルグリムお兄様は顔をほころばせた。あっけらかんと、笑い始める姿に時が止まったわ。

 ピルグリムお兄様がここで笑い出した理由も、笑われる理由も何一つ理解できなかった。

 凍り付く私を、彼は笑いが止まらないと目尻を拭いながら可笑しそうに慰めた。


「そりゃあそうか!俺、何にも教えなかったからなあ!いやあ、うっかりしてたわ。でもま、お前には要らない事だろう、エリザベス!」


 頭を撫でる手も声音もいつも通りすぎて、だからこそ、目の前にいる人物が本物のピルグリムお兄様なのか、私は判別がつかなかった。

 いや、そう思うのは悪ね。

 私はそれがお兄様なのだと理解していた。理解しながらも、自分の悪の所業を気にするな、と平然と言い放つ男がお兄様だと、信じたくなかった。

 ヘレンに会う前の私ならきっとここまで苦心しなかった。

 けれど、常識を知ってしまった今、私は他人を苦しめる所業をなんて事も無いように言い放つお兄様に裏切られた心地だった。

 だからこそ、ピルグリムお兄様の言葉が理解できなかった。


「でもお前がそんな事気にするなんてどうした?誰かに嫌味でも言われたか?それならもう大丈夫だ、お兄ちゃんがそんな奴地獄に落としてやるから。だからお前はいつも通り、何にも心配しなくていい!」


 なぜこの状況で意気揚々と言えるのか。常識を知ったからこそ、その言葉の端々から滲み出る異常さに私は恐怖していった。

 怖かった。目の前にいるのは、王子様のような見た目の、いつも通りの笑顔を浮かべるたった一人の家族で間違いないはずなのに、それが、家族の皮を被った他人に見えて仕方が無かった。


「違う、違うよ、お兄様。私は、誰かを傷つけてほしいんじゃない。これは、私がお金で誰かを傷つけたって話で」

「そこがもう論点が間違っているだろう?金で誰かが傷つく?当たり前の事じゃあないか」


 お兄様が何を言っているのだと、私の頭を疑うように諭す。


「いいか、エリザベス。金っていう物は、此の世で最も安価な対価だ。紙切れ一枚で、いとも簡単に物事が動く。家も、人材も、経済も、世界も。良い方向へ舵を切れば、金を出した方はその瞬間幸福を掴む。けれど、その裏で幸福を掴めなかった奴は必ずいる。舵を切って辿り着いた居場所で、代わりにその居場所を失うものが必ず現れる。金を使うという行為は、此の世で最も安易に誰かの不幸を生む道具なのさ。だから、なあ、エリザベス。お前の考えは根本的に間違っている。お前が金を使って不幸が生まれたんじゃあない。そもそも、金を使う時点で、誰かが不幸になるんだ。金を使う事で、誰もが幸せになれるなんてあり得ないんだよ」


 ケラケラとお兄様が笑う。


「大丈夫だエリザベス! お前は取り敢えず、今日あった事は全部忘れなさい! そうしてこれまで通り何にも考えずに真綿に包まれた人生を送っていればいい! そんなお前を咎める者はこの屋敷に誰一人としていない! そうして、これからもお前はエリザベスお嬢様で在り続ければいい。お前がお前でいる限り、兄ちゃんは兄ちゃんをしてやるよ」


 王子様の様な面持ちで、お兄様は悪魔の様に笑う。


「なあ、俺のお姫様」


 その時の美しい兄の微笑みが、今でも記憶に焼き付いて離れない。

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