第10話 初めての朝(2022/01/26 改稿)


 独古は古時計の鐘の金音で目を覚ました。

 寝ぼけ眼を擦り、あたりを見渡す。朝日が差し込むフロアには、いまだ眠ったままの客達が点々と転がっている。

 自室でない事に独古は一瞬驚いた。しかしすぐに「夢からは醒められない」という言葉を思い出す。

 ずるずると、独子はカウンターにもたれかかった。

 人間、驚くと言葉を失うと言うが、当事者になって改めて実感した。

 元の世界はどうなっているのか。天井を見つめながら、ふと考えた。それと同時に浮かんだのは、部長の怒りの表情だった。

 独古の口の端に自然と自嘲が受かんだ。真っ先に思いつくのが、帰りたいという切望でも、両親の顔でもないなんて。こんな状態だというのに出社できない事を心配しているのだから、笑うしかない。仕事に毒されている。


(あの喧嘩の後に無断出勤だからクビ……になってるかも。三越先輩には、迷惑かけているだろうな……)


 そこでふと、現実世界の自分の事を疑問に思いついた。寝ている自分はそもそもどうなっているのだろうか。自室に寝たきりの状態である所を発見してもらえなければ、本体に待っているのは餓死である。

 考えることが多すぎて、頭痛がする。独古は溜息を吐いた。ここで思い悩みすぎて、鬱になっていても仕方が無いのに。

 不安な事はほかにもたくさんある。しかしゴールドラッシュに居る自分にはどうしようもない。君影や両親が自分を見つけてくれることを願うしかない。そう思い込まざるを得ない。

 どうにもならない事を、どうしようかと考えていてもそれ以上の答えは出ないのだから。

 むしろ、今、自分が向き合うべきなのはゴールドラッシュでのこれからの生活についてだ。しばらくはゴールドラッシュで暮らす事を前提に考え、行動しなければならない。

 だが、地理も、金を稼ぐ方法も、人も、世界の在り方も、ゴールドラッシュの世界像が漠然とし過ぎていて、どうやって生きて行けばいいのか想像がつかない。だからこそ、ここで生きていく、そう決意をするにも踏ん切りがつかない。


(情けないなあ・・・)


 相変わらずの己の優柔不断ぶりに、独古は溜息を吐いた。

 その時だった。首筋に氷を直に当てられたような感触が走った。


「ぎゃっ!?」

「おー、良かった。起きてたか」


 条件反射で顔を上げれば、黒いエプロンを着たビンカがカウンター越しに笑っていた。手には水滴のついたグラスを持っている。

 首筋を襲った冷たさの正体がわかり、独古は軽く眉を顰める。悪戯への文句の一つでも言ってやろうと口を開こうとする。と、そこで昨夜自分が彼を怒らせてしまった事を思い出した。

 じくじくと心の傷が痛みだす。どう謝罪を切り出せばわからず、開きかけた口を閉じる。

 思い詰めた顔をする独古を見て、ビンカはすぐに察したようだった。罰が悪そうな顔になると、後ろ髪を搔いた。


「俺もあんな態度を取って悪かった。混乱すれば誰でもああなる」

「考えなしに口にしてすみませんでした」

「良いって言ってるだろう。ほら、朝から空気が悪いのも嫌だし、お互い水に流そうぜ」


 ビンカが料理の乗ったプレートを差し出した。置かれたのはレタスとハムのシンプルなホットサンドが乗っている。

 いくら独古が罪悪感を持っていても相手がもういいと言っているのであれば、これ以上謝っても仕方が無い。事実は無かったことに出来ないし、これから同じ事を犯さない様に自分が改めるしか無い。

 昨夜の事を脇に置いて、気持ちを切り替えた独古は彼に礼を言ってプレートを受け取った。

 ホットサンドを手に取り、一口頬張る。アクセントに入っている酸味の強いソースが絶妙なうまみを引き出している。

 もさもさと食べる独古の様子を見て、ビンカも安心したのだろう。一息つくと彼は視線をホールの方へと向けた。


「そこの飲んだくれども! そろそろ起きろ! これ以上、人様の店を宿代わりに使うんじゃねえ!」


 店内をぐるりと見渡したビンカが店内に残っている客を一喝する。まだ起きたくない、母ちゃんあと一分とビンカに慈悲を乞う者もいたが、ビンカはフロアに出るとまだ起きていない者たちの頭を叩いていき確実に起こしていった。

 容赦のない姿は鬼の様だ。だが、それを言えば彼らと同じく叩かれそうだったので独古は言葉を飲み込んだ。


「んだよビンカ。朝から叩いて起こすとか。お前はキティにするみてぇに優しくやってくれよ。それとも甘い起こし方も知らないのか、この童貞め」

「それを望むなら宝石街の方のそういったお嬢様方の所にでも行け。生憎だが、この店はお前らの様な大きい乳飲み子の面倒を見る余裕はねえんだよ」

「母ちゃん酷い! 俺もう母ちゃんの子供やめる!」

「てめえのような大きい子供を持った覚えはねえって言ってるだろ!?」


 先ほどまでの静けさは何処へ行ったのやら、客人達が起きたと同時に店の雰囲気が一気に喧騒を取り戻す。

 これが日常なのだろう。

 中指を立てて談笑するビンカ達の間には、くだけた空気が流れている。

 後ろから足音が聞こえ、独古は振り向いた。グラスを抱えたママと、頭を押さえたエリザベスがこちらへ歩み寄ってくる。


「おや、ドッコ! もう起きていたのかい!」

「ママさん、リザさん、おはようございます」

「んま~! リザちゃあ~ん、おはよう! 今日の君も麗しい~!」

「ビンカ静かにして、頭に響く…」


 エリザベスが眉間を揉みながら独古の隣のスツールに座る。

 はちみつ檸檬、とエリザベスが要求すればキッチンへと引っ込んだビンカが一瞬にして湯気の立っているマグカップを持って戻って来る。


「お望みの品です。俺のお姫様」

「ああ~、脳に染み渡る~。二日酔いにはやっぱりこれよね」

「そう言っていただければ、このビンカ、感謝感激の極みです。俺のお姫様」

「あんまりリザを甘やかし過ぎるんじゃあない」


 スパンと、ママのチョップがビンカに入る。

ビンカは何か言いたげな表情であったがママの笑顔の圧力に負け、渋々と言った表情でキッチンの方へ下がっていった。

 ビンカはエリザベスの事となると漫才の様に色めいた態度を取る。

 これが彼らの日常なのだろう。

 疾走感の溢れたやり取りに、独古は凄いなあと思わず苦笑してしまう。

 自分もその一因に加われたら幸せだろうに、とも思う。はたしてそんな日は来るだろうか。彼らを少し羨ましく感じた。

 独古がぼんやりとそんな事を考えているうちに、テーブル席の方の客達は差し出された水を飲んで一息つくと何処かへ出掛けようと荷物をまとめ始めた。

 どこへ行くのだろう。独古が彼らをじっと見つめていると、その視線に気づいた一人の男性が、仕事に行くんだよ兄ちゃんと答えた。


「俺たちは街の方で働いているんだよ。俺たちの中にはそろそろ店を出ないと始業時刻に間に合わない奴もいるからな。皆、遅刻を許さないおっかない店主にケツを蹴られてないからこうやって準備しているってわけ」

「そうそう。ああ、働きたくねえ・・・」

「こら、あんた達! 何時までここで油を売っているんだい!」

「おお~こわっ! 今行くからそんなに怒んないで、ママ~」


 男性はママにぺこぺこと頭を下げつつ、じゃあな坊主、と独古に手を振ってから店を出て行った。

 周囲に居た客達もママに昨晩の礼を言って仕事へと向かい、一分もすれば、店内には独古やエリザベス達以外、誰も居なくなった。

 まるで嵐の様だった。

 ジュークボックスからジャズのゆったりとした音楽が流れている。その音量が大きく聞こえて、先ほどまでがどれだけ賑やかだったのか、独古は改めて気づいた。

 それは、今までの日常では決して得られない朝の出来事であった。

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