第5話 懐かしい夏の夢(2022/01/26 改稿)


 夏の空気の匂いがした。

 ひどく懐かしい暑さが身体を包んでいる。

 遠くで錆びれた砂場で子供たちがいた。

 砂を舞い上がらせて、汗を気にせず遊んでいる。

 森林の方へ視線を向ければ、ランニングウェアを着て走り去る男性や、木陰で休む犬、飼い主がいる。

 その公園の中心で、木陰の下の真っ赤なベンチに独古は座っていた。

 隣には大きな誰かが居た。

 それは男性であった。黒いズボンに、真っ青なパーカーと懐中時計を模したペンダントをつけている。

 独古は誰であるかを知っていた。

 君影だ。

 だが首を上に向けなければ彼の顔が見えないのが不思議だった。まるで自分が縮んでしまったような…。そこまで考えて、独古は自分が小学生の姿になっている事気づいた。

 君影は首を傾げる独古には見向きもせず、熱そうに首元を仰ぎながら、独古に話しかける。


「独古はさ、どんな夢を見たいの?」

「夢?」

「そう、夢さ」

「夢って、どの夢?」

「どの夢って、将来の方の夢さ。独古ぐらいの年齢なら、ヒーローになりたいとか消防士さんになりたいとか、なにか一つぐらいなりたいものくらいあるだろう?」


 独古は悩んだ。なりたいものと言われてもパッと思い浮かばない。

 生ぬるい風が二人の間にある自由帳をパラパラとめくったのが目に入った。それは、小学生の頃に使っていた自由帳であった。それをめくれば鉛筆で書き殴った架空の街のデッサンやそこで暮らす登場人物たちの姿が書かれている。

 空想の世界に夢見た、幼い自分の夢の結晶であった。


 一つあるじゃないか。


 独古はあの頃の自分がなりたいものを思い出した。


「僕、夢の人になりたい」

「え、夢?」


 独古は自由帳を手に取ってそこに描いている絵を見せつけるように開いた。


「遠い国で魚釣り魚をしたり、スーパーマンになって空を飛んだり、これに書いているみたいな街で大冒険をするの! 夢の世界ならなんだって夢を叶えられるでしょ? そしたら、僕、冒険家になるんだ! それで皆からちやほやされて、毎日笑顔で過ごして、そんでもって、だれにも、自分にも負けないかっこいい僕になるんだ!」


 そう、あの頃の自分は幸せな夢を切に願っていた。

 ノートの世界に理想を詰め込んで、毎日放課後にその世界を夢見て遊ぶくらいに。

 独古はキラキラとした目で夢を語る。


「それに、夢の世界なら、時間なんて関係ない! ずっとこんな風に二人で遊んでいられるよ! 遠い国にだっていけるし、ヒーローになって二人で何でも屋もできちゃう! それってすっごい楽しそうでしょ!」


 どうだ、どうだと独古は胸を張った。もの凄い発想じゃないだろうか。君影も称賛の声を出すだろうと期待していた独古だったが。

 見れば君影は反対側を向いて可笑しそうに肩を震わせている。

 何が可笑しかったのだろう、ムッとした顔で不満を伝えれば君影が目尻を拭いながら謝る。


「いや、将来の夢が夢を見ることとか現実に夢見てなさすぎでしょう」

「むむ、本気に本気なんだよ。僕、本当に夢を見たいんだよ」

「今の状況でそれゆうかなあ、本当に独古は面白いというか。でも、まあ、そうだなあ」


 君影がふっと笑い、遠くの空を見上げる。

「夢の世界か、確かにその発想は無かった」

「君影?」


 名前を呼べば、君影が独古の方へ顔を向ける。夏の空を背にするその姿は見慣れたもののはずなのに、何故か風に吹かれて消えてしまうような印象を覚えた。


「そうだなあ、夢の世界ができたら、その時は独古、一緒に行こうか」


 そうだ、これは、ひどく懐かしい、いつかの光景。

 からから、と何かが回る音がする。


 景色が切り替わる。

 浮遊感に襲われ、次の瞬間水の中に落ち込んだ。

 羊水のような暖かさを孕んだ闇の海だった。

 どこからともなく流れる潮の満ち引きに身を任せるがままに独古は沈んでいく。

 独古の身体を伝い、気泡が上へ、上へと登っていく。けれど、それとは逆に独古は下へと沈んでゆく。

 思考は止まっていた。朦朧とする意識のままに水の底へと落ちていく。深度が深くなるほどに、全身から重力が消えていく。

 それは心地よい海だった。微睡の淵の様な甘い気だるさが全身を支配する海だった。

 数秒前まで何を考えていたのかが分からない。

 何か大切なものを取りこぼしてしまった気がした。

 何だろう、それは、魂に刻み付けてでも忘れてはいけない事の様な気がするのに。

 独古はそう思った。だが、その思考も次第に麻痺してゆく。

 余りにも抗い互い睡魔に、このまま眠ってしまおうかと思う。

 意識が遠くなってゆく。

 世界が遠のいていく。

 このまま甘い水に溶けていこう。そう思い、身を委ねようとした。

 そうして意識が途切れかけた、その時だった。


 リン、リン、と高音が聞こえた。最初はその音が何か分からなかったが、疑念に駆られて意識が浮上するにつれてその音が眠る目に聞こえていた自分のスマートフォンの着信音だと気が付いた。

 何時までも鳴り続ける音は、独古が応答する事を待ち望んでいる。

 出ないと、行けない。

 独古は音の成る方へ手を伸ばした。

 暗がりの中、宙に浮いたスマートフォンが震えている。

 先ほどまで動かすのも憂鬱だった手が、今は軽い。

 通話ボタンをスワイプすればノイズ混じりの音が聞こえた。

 それは、さっき聞いたばかりのそれでいて、ひどく懐かしい声だった。


「目を覚ませ、独古!!」


 親友のその声に瞼を開く。


 独古は跳ね起きた。

 走り終えた後の様に心臓が痛い。

 頭がぼんやりとしているせいで、そこで異様に視界が眩しい事に気が付いた。

 部屋は夕方になりかけで暗かったというのに。

 疑問の答えを得るべく顔を上げて、視界に映った光景に独古は目を疑った。


「え」


 大通りを流れていく沢山の車。立ち並ぶ巨大なビル。その壁面には隙間なく色鮮やかな大型の広告ディスプレイが飾り着いている。

 独古は視界に映る光景が一瞬信じられなかった。それは、自国の街から遠くかけ離れた異国の街の風景だった。

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