第3話 最悪の一日(2022/01/26 改稿)

 スマートフォンから等間隔のペースでベルの音が鳴り響く。

 アラームに起こされて、独古は目を覚ました。

 カーテンの隅間から差し込む木漏れ日が、朝が来たのだと告げている。

 

 だが、ここでカーテンを開ける気になどなれなかった。

 

 ノー残業デーの日から、三日が経っていた。

 あの日、三越先輩に助けてもらい、資料の提出に間に合った。のだが、その日に独古は別件でやらかしてしまい、結局、部長には怒られてしまった。

 三日たった今も部長の独古に対する冷めた態度は軟化しておらず、その余波が部内の全体に広がり、独古のデスク周辺は居心地の悪い雰囲気となっている。

 周囲から早くこの雰囲気を戻せという無言の圧力を掛けられてはいるが、挽回の機会は、今の所訪れていない。

 独古は頭を深く布団に埋め、頭を掻きむしる。

 会社へ出る事が憂鬱で、それでいて、自分の心が傷つくあの環境が恐ろしい。

 けれど、時間は早足に独古に現実に向き合えと急き立てる。

 社会人なのだから、悲しみに何時までも引きずられてはいけない事なんて自分も分かっていた。

 嘘の仮面を被ってでも切り替えろと、心の隅で自分の顔をした理想の誰かが言う。

 けれど、悲しみを、痛みを、恐怖を飲み下せない。呼吸さえ奪うそれらの毒を飲んで、笑いに変えて次に進んでいく、自分はそんな器用な人間ではない。

 

「ああ、行きたくないなあ」


 独古は布団に顔を押し付けた。息を殺して、布団越しに自分を抱きしめる。

 口から出た零れ出た言葉は紛れもない本心であった。

 現実から逃げられる手段があるなら何でもいい。

 この吐き出し方の分からない感情を抱えたまま生きるくらいなら、独古はこのまま永遠の眠りにつきたかった。


 ***********


「な、夏越君、ど、どうしたの、大丈夫?」


 その声にはっとする。

 独古は夕暮れの会社に居た。

 目の前でコピー機が小刻みに印刷物を吐き出している。

 朝の出来事に気を取られ、今から意識が遠のいていたようだった。

 声の方へと顔を向ければ、そこには三越が居た。

 真っ黒い瞳。その瞳の中心には青い顔をした自分が映っていた。


「きょ、今日、ずっと顔色が悪いよ」


 心配げな声に独古は苦笑いする。


「……僕、そんなに顔色が悪いですか」

「い、いつもと様子が違って、なんだか不調そうだなって……。な、夏越君は何にも言わないから、よくわからないけど、けど、でも、でも、態度に出やすくてわかりやすいから」

「そうなんですかね」

「い、いや、」


 印刷を完了したことを告げる機械音が鳴った。

 居心地の悪い空間だった。

 言いたい事があるなら、ばっさり言ってくれればいいのに。

 独古は何故か、三越の優しさにむかついていた。

 いつもなら思う事すらない思いが胸の中で蜷局を巻いていた。


「そ、そう言えば、最近のニュース見た?」


 そんな独古の気持ちなどしらず、三越が空気を和ましたかったのだろうか、別の話を始める。

 どうして話しかけてくるのだろう。こんな面倒くさい後輩放っておけばいいのに。

 本音を言えば、独古は今すぐこの場を去ってしまいたかった。けれど、苦しい気持ちの片隅に残った微かな理性が、先輩の好意を無下にするな、と喚き、ぎりぎりで独古を踏みとどまらせた。


「ニュースってどのニュースですか」

「あ、あれだよ、全国的に眠りから醒めない患者が増えてきているってニュース」


 独古はふと、三日前に見た女子高生たちを思い出した。あの時は話に興味がなかったから気にしていなかったけど、思い返してみると、同じ話題だった気がする。

 家族が起床時間を過ぎても起きてこなく、心配で様子を見に行けば、そこには眠りから醒めないない家族が居た。そんな事件が増えているのだという。

 SFかと疑うような内容だ。しかし、実際にはその揶揄も馬鹿に出来ない。なにせ、眠りから醒めない患者は投薬治療などをしても起きる気配が無いという。今までの科学では解明しきれない未知の現象が発生しているのだ。

 彼らを目覚めさせる手だては今なお見つかってない。


「み、未知の物ってなんでこんなに、こ、怖いんだろうね」

「そうですね。実態が分からない限り対応策もありませんしね。ウイルスっていう噂ですけど、まだ解明されてませんし、実際は催眠術なんじゃあないかって噂もありますよ」


 少し気分が解れ、心に静けさが戻ってくる。それと同時に鈍くなっていた知覚がはっきりとしてきて、そこで、独古は自分に対して啞然とした。


「な、夏越君? 夏越君?」

「は、はい!?」


 下から三越が心配げに覗き込んでくる。


「か、顔色が悪いよ。た、体調が悪いなら、ややややっぱり、今日は早めに帰った方が」

「大丈夫です! まだまだ働けますから!」

「…本当に?」

「本当の、本当の、本当にです!」


 そこから早く離れてしまいたかった。

 こんな自分を見られてはいけない。

 独古は大丈夫ですから席に戻りますね、と笑顔で焦る本心を隠しながら席に戻った。

 デスクに戻って、パチリ、パチリとホチキスで先ほどの資料をまとめる。

 単純作業に没頭すれば、いつもは大概無心になれる。けれど、今日はなかなか上手く行かない。

 脳裏に先ほどの三越との会話がちらつく。

 漠然と危機感が胸にこびりついているのが分かる。

 ここ数日、ずっとだ。自分でも、どうにかしていると思うくらい、独古は思いつめていた。

 まるで見えない薄氷に心が覆われているようだった。真冬の嵐の様に、荒れた心が軋んでいる。

 あとひとつ何かあれば、この均衡は壊れてしまいそうだった。

 マイナスな思考をコントロールしようと思って、中断していた資料閉じの仕事に再度向き合う。もう、このまま、どうか何も起きずに今日も、明日も、明後日も終わってほしいと願う。

 けれど、神様は独古が思う程優しくないらしい。


「おい、夏越。お前この前の会議で決まった伝達事項、全社一括でメールしてないのか」


 しん、と空気が凍る。

 部長から怒りの感情が滲んだ声が飛んでくる。

 独古はその声にその方向を向いた。


「え、メールですか?」

「とぼけるな。最後の方で決まったメールだ。社内の人間が自社ホームページをかなり見ていて、受注注文ページの正確なクリック数の数値が取れていない事が問題になっただろう」


 そんな話あった気がする、でも、何か指示があっただろうか。


「社内の人間は基本、受注核にページをクリックしないよう、全体に通達メールをしろと指示しただろう」


 独古は慌ててメモ帳をめくった。

 何処にでも持ち歩く、自分が訊いたことを細かく書いたメモ帳だ。

 全部の言葉をメモしようとミミズの様な文字になっているそれを走り読みするが、その様な指示は見当たらない。  

 指示を聞き漏らした?

 顔から血の気が引く心地がした。

 部長は大きな溜息をつくと、電話口の相手に謝ってから受話器を置いた。


「部長、す、すみませ」

「体調が悪いなら今すぐ帰れ。メールは俺が書く」


 思ってもいなかった言葉に一瞬考えが呆けた。


「お前が居ても碌にならないから、今すぐ帰れといったんだ」


 冷たい壁を張っているような声色であった。

 取り返しが付かなくなる。

 ここで食い下がれば何かが終わってしまうと、危機感に駆られ必死に縋りつく。


「すみません。自分のミスです。なので、すぐやりますので」

「お前、いつも、いつも、自分のミスです。すぐやります。っていうけどなあ、そうなる前に防ごうっていう考えが本当にあるのか?」


 すっと、部長が顔を上げる。

 年代物のレンズ越しの瞳は死んだ魚のような色をしていた。


「ミスは誰にでも起こり得る事だ。それにお前は俺の部下だから、どんなに嫌でもお前を守るさ。立場上、どんな大事を起こされても俺は愚痴を吐いてもお前を守らなきゃならない。俺もお前みたいに守られてきたからこの年まで仕事が出来てきたわけだしな。自分でも分かっているからやるよ。でもなあ、俺も人間なんだよ。そして、上司である前にお前の同僚なんだよ。だから、こうも何度も何度もミスされて、しわ寄せを何回もされれば、俺も疲れるんだよ」


 怒鳴る気力も無いと言わんばかりに、覇気のない声。それは、この人と仕事をしている中で初めて聞く声音で、同時に、その人が普段は出さない様にしてきた声音なのだと気づいた。


「もう、今日は帰っていいよ」


 部長はそう言い視線をパソコンへと戻すと、フロアに沈黙が広がった。

 固唾を飲んで見ていた周囲も、痛々しい雰囲気に一人、また一人と視線を逸らしていく。三越も何か言いたげ口を開きかけ、やがては表情を俯かせた。

 ここで何かを弁明しても、この針の筵の様な空気が変化する事は無いだろう。

 このまま仕事などできる雰囲気ではなかった。

 ああ、駄目だ。このままここにいたら壊れる。薄氷が、ぴしりと音を鳴らした。

 すみません、とこの場で唯一言える言葉を言い、鞄を手に取ってフロアから出た。 

 エレベーターへと向かう独古の背を誰かが追ってくる。


「な、夏越君、ほ、本当に辛いなら無理しなくていいんだよ!」


 三越の声に返事をする気力は、もう無かった。

 独古はエレベーターに乗って反転し、ぺこりと頭を下げた。

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