第2話 動けない夜(2022/01/26 改稿)

「…ただいま」


 少し錆びているドアノブを回す。

 独古の家は職場から二十分ほど歩いた所の住宅街にある。二階建て、合計八部屋のオンボロアパートの中部屋だ。 

 一人暮らしだから当たり前だが、誰からも返事は帰ってこない。

 片づけられきれていないレシートや洋服が散乱する床に鞄を放り出してベッドに雪崩れ込んだ。

 床の掃除、風呂、夕食の準備、やらなければならない仕事は山ほどある。けれど、鉛の様に重たい身体は動かない。


 いったいいつからこんな風になってしまったのだろう。


 脳裏に浮かぶのは先ほどの女子高生の後ろ姿だった。

 自分が高校生の頃はこんな大人になるなんて思ってなかった。

 同僚との飲み会、帰宅後の夜の一杯、大人と言う煌めく時間を満喫して過ごすのだと信じて疑わなかった。

 それが今はどうだ、会社に出るたびにヘマをして、帰り着いたらスーツのままベッドに雪崩れ込んで。なんて情けない。

 どうしようもない今こそが、大人になった独古だった。


「…、ねむ」


 落ちかける瞼をなんとか開いても、またすぐに落ちてくる。やらなければいけない事全てを放り出してこのまま、眠ってしまおうか。

 今、眠りの欲望に負けた所で、誰が自分を叱るわけではない。

 自分が自分に負けるだけなのだ。自己嫌悪の理由がまた一つ増えるだけだ。

 抗う事を止めて瞼を閉じた。

 その時だった。

 どこかで電話の音が鳴った気がした。タイミングが悪い。

 枕元をまさぐってスマホを探り当てる。そのまま耳元に携帯を当てた。


「……もしもし」

「独古、お前、今夕飯食べずに寝ようとしていただろう」

「……なんで分かったのさ」

「僕に分からない事があると思ったのか、このヴァカめ。お前が思う事なんて僕にはお見通しさ。何年の付き合いだと思っている。それこそ、お前だって僕が誰か名乗ってないのに声だけで僕だって分かっているだろう」

「……僕が眠ろうとした瞬間を見計らって電話をしてくるのは何時だって君だけだよ、君影」


 フン、と鼻を鳴らす音がした。

 脳裏に、特徴的にカールした前髪を指で遊ぶ君影の姿が浮かんだ。シックな赤いソファに寝そべりながら、電話しているに違いない。

 君影は独古の古い友人だ。

 それこそ、付き合いは小学校の頃からになる。


「僕が眠る間際に電話をしたんじゃあない。今日、君が僕の電話を取った瞬間、君は長い瞬きをしたんだ。眠りこけたと錯覚する程、深く抗いがたい瞬きをね。ゆえに僕はお前が眠る間際に電話したんじゃあない。証明ここに完了」

「……へりくつ」

「屁理屈じゃあない。事実だ」


 彼は子供の頃から周囲の機微に敏感で在った。今は小説家なんて職に就いたせいか、昔以上に人の心の動きを読むのが上手い。

 誰かが落ち込んだりしている雰囲気を感じると、さりげなく話で謎のマウントを取ってその暗い雰囲気から遠ざけようと意図的に話題を振ってくる。

 十数年の付き合いになれば、それが、気難しいかれなりの愛情表現だと分かっていた。

 他人であれば癪に障るだろうけど、気心のしれた今ならば、むしろ、その不器用な気の使い方が嬉しく思える。


「お前の事だ、また仕事で躓いたんだろう。ベッドに沈み込んでいるのが想像につく」

「いつもじゃないし、今日は偶々だし」

「お前は要領が悪いんだ。他人の事も自分の事も、もっと我儘に生きやすく生きればいいんだ」

「誰もが君影みたいに怪獣の如く振舞えるわけじゃあないよ」

「怪獣ってゆうな。僕は僕のインスピレーションに突き動かされて行動をしているだけさ」

「その発作に巻き込まれている編集部さんの事を少しは気にしてあげようよ」

「ふん、そうして生まれる僕の小説で、あいつらは利益を得ている。文句を言われる筋合いはないね」


 また、君影の俺様節が出ている。独古は苦笑した。

 なんだかんだで目が覚めてしまった独古は、それから君影と他愛のない話をした。

 その時間だけで心が解れて疲れが取れていく心地だった。

 あっと、今度会った時に聞こうと思っていたことを思い出す。


「あ、そうだ。新作の小説の広告みたよ。いつの間に書いていたのさ」


 思い出したのは彼の新作の小説の広告であった。

 偶々HPのディスプレイ広告が目に止まった。

 夏の青空を背景に、麦わら帽子をかぶった白いワンピースを着た少女が、飛行機雲を眺めている。

 何の広告だろうと興味を持って見ていて、そこに親友の名前を見つけて驚いた事をよく覚えている。


「今回は面白いぞ、何せ僕らの思い出を元に書いているからな」

「僕らの?」

「中学の頃の日常を参考に書いた。ほら、僕たちよくたむろって遊んでいただろう?」

「……そんなことあったっけ」


 中学の頃は、どちらかと言えば学校か家でしかあっていなかったような気もするが、何処で待ち合わせて遊んでいた事などあっただろうか。

 思い出そうとするが、靄がかかったように思い出せない。

 疲れゆえに記憶が馬鹿になっているのだろうか。でも、彼と妄想話に花を膨らませた覚えはあったから、きっとその事だろう。そういえば、公園でそんな事もあった気がした。


「あったさ。親友との思い出を無かったことにするなよ、薄情者」

「疲れて脳が働いていないだけだよ。でも、それなら面白そうだね」

「ああ、面白い。僕が保証する。だから、絶対読めよ」

「分かった。読むよ」


 笑いながら頷いた。

 と、そこで、あっと思い出した事を呟く。


「学生時代と言えば、小学校の頃も、よく二人で物語の妄想をしていたよね。ほら、架空の街を舞台に少年が自分の夢を探して冒険する話」


 話すうちに、思い出がさらに鮮明になっていく。

 ランドセルを背負ったまま、夏休みの公園で二人でよく話をしていた。

 そうだ、脳内に朧げな光景が浮かび上がる。

 その頃の自分の中で想像ごっこというブームが訪れていた。

 言葉の通り、架空の世界や人を想像して、その設定の人物になりきって遊ぶというものだ。


「二人で落書き帳をベンチに並べてさ、敵の設定を考えたり、アスレチック遊具を街に見立てて、ごっこ遊びしたりさ。空想の街の話をして、想像に夢見て。……あの頃が一番楽しかったな」


 小学生のあの頃はもしかすると人生で一番楽しかったのではないだろうか。

 楽しい事だけを考えて、何かを傷つくことに怯る自分の事など想像する事すらなかった。

 過去の自分が遠い幻想のように思える。

 子供の頃のあの頃が、きっと、今思い描く自分の成りたい理想そのものだった。

 大切な人と二人、あの公園で夢見ていたあの頃が人生で一番幸せな時だった。


「……あの頃に戻りたい」


 ぽつりと呟いた声音は思っているよりも疲れていた。


「……お前、ちゃんと休めてるんだよな」

「うん、休みはある。大丈夫」

「本当の、本当に大丈夫か」

「本当の、本当に大丈夫」


 心配そうな親友の言葉にそう答える。

 この優しい友人にこれ以上心配など掛けたくなかった。

 君影は少し黙っていたが、やがて、そうか、と呟いた。


「……明日の打ち合わせがあるから僕も今日はここで寝る。お前もゆっくり休めよ」

「うん。今日はありがとう。君影もゆっくり休んでね」


 それじゃあ、と名残惜しい気持ちで電話を切る。

 仰向けに寝転がる。真っ暗な部屋の天井にはカーテンの向こう側から夜の街の光が一筋差し込んでいた。


(本当に、いつからこんなに悲しい大人になったのかな)


 小学校の頃は本当に楽しかった。

 空の色、風に乗る雑草の香り、目に映る全ての色がキラキラしていて、五感で感じる全ての色がキラキラしていて、五感で感じる全ての事に感動していた。

 いつから、その楽しさを無くしてしまったのだろう。

 こんなに草臥れてしまったのだろう。

 そもそも、いつから、夢見る事を諦めてしまったのだっけ。

 思い出そうとすると頭が痛かった。

 泥の様な疲れを自覚する。

 眠くなってしまって、独古は瞼を閉じた。

 このまま深い眠りについて、夢に溺れてしまえば良いのに、なんて思った。


 どうせならあの小学生の頃に想像した世界なんてどうだろう。

 楽しい一時だけを詰め込んだ世界に永遠に入り込めれば、きっと幸せなはずだ。


 そんな世界に恋焦がれた。

 夢に溺れる自分が1秒でも続きますように。

 そう願って、頬を流れる雫には気づかないふりをしながら、独古は眠りについた。


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