ゴールドラッシュ

稲足 真一

序章:夢の始まり

第1話 今は遠き夏の夢(2022/01/26 改稿)

 遠い国の魚に出会う夢。空を揺蕩う夢。出会えるはずのない人に出会う夢。

 僕らは想像を通して、夢の世界を渡る。

 その世界は時に残酷で、時に享楽的で、時に幸せに満ちている。

 夢に溺れて現実を忘れられる時間というものは、言わば、現実で背負う責任を全てかなぐり捨てて自由になれる時間そのものだ。現実ではありえないからこそ、とても幸福なものだと僕は思う。

 だから、僕はいつだって夢に恋焦がれている。

 眠るときはいつだって、夢に溺れる時間が1秒でも続くように祈ってしまうくらいに。

 それほどに僕は夢を見たいのだ。


 **********************************


 帰宅を促す曲がフロア全体に流れている。飲みに出る者、家路の帰路に就こうとする者、各々がそれぞれの予定の為に一人、また一人と帰っていく。

 そんな同僚たちを羨ましいと思いつつ、入社二年目の夏越独古なごし どっこは自分のデスクに噛り付き、残業を行っていた。

 パチリ、パチリとキーボードを打ち込む。

 報告資料はようやっと半分以上完成した。

 あと残りは三割くらいか。けどその三割の終わりが途方もなく長い。

 完成の全体図が見えない現状に、独古は溜息を吐くしかなかった。


「あ、あれ、夏越君。ま、まだ、帰らない……んですか?」

 

 おどおどとした声色に、独古はキーワードを止めて隣を見た。

 同じ部署で一つ年上の先輩の三越みつこしが、自身の通勤バックを両腕で抱え込むように立ち、せわしなく視線をウロウロとさせている。


「み、皆さん帰りについていますし、夏越君も、早く帰った方がいいんじゃない」

「お気遣いいただきありがとうございます。でも、この通りまだ資料が完成してなくて」


 独古はちらりとパソコンを横目に見る。

 埋まっていない項目の空白が、画面上で光っている。


「朝には部長に一度見せないといけませんし、今日は残業します」

「い、いや、そ、それが今日はまずくないかな、と思ってて。いや、夏越君が残りたいのであればそれを尊重すべきだし私なんかがこうして先輩面するのも悪いし夏越君がそれでいいのであればそれでいいのだけれど」

「先輩マシンガントーク過ぎです。というか、なんで今日はまずいんですか? 今日の鍵当番の方早帰りの方でしたっけ?」

「い、いや、今日、ノー残業デー」

「え」

「七時には、フロア全体が、し、閉まっちゃうから」


 独古はデスクの右の方に置いてある卓上カレンダーをひったくった。目を凝らすまでもなかった。今日の日付の横に、わざわざ赤字で、大きく印書された"ノー残業デー"は、普通の人なら絶対に見落とさないくらい派手だった。

 そう、普通の人なら。ああああ、と頭を抱えて蹲る。

 またか、またなのか。

 何故言われるまで頭から抜け落ちていたのか。

 ちらりと見た時計はもう6時50分を指していた。

 その時計と資料を交互に見比べて、やばい、と冷や汗が垂れる。

 どう見繕っても明日の朝までに間に合わない。

 脳裏に部長から雷を落とされている明日の朝の自分の姿が思い浮かんだ。


 夏越 独古という人間は、考える事が足りない人間だ。

 やる気はあれど、考えが甘くて詰めが甘い。

 プライベートで予定が記憶から抜け落ちるのは日常茶飯事。

 家で家事をこなそうとしても、どれをやったかと考えるうちに、どれも中途半端。

 仕事で資料作成をすれば、最後の最後で数値の取り間違えを起こす。

 いつも何かが足りず、大切なものを取りこぼしていく。

 そんなんだから、いつだって周りからの評価は低い。

 子供であれば、多少間が抜けていてもほどんと許されるだろう。けれど、大人の世界で、そんな人間は許されない。自分で自分の責任を持てない大人なんて許されない。


 頼まれた仕事ができない社会人なんて。


 今週の僕、終わったな。

 毎度のことながら、自分の駄目さ加減にもう引きつるような笑いしかでない。

 自分を呪いたくなるなんてものの例えは、今の様な状況を指すのだろう。

 独古は思わず泣きそうだった。


「な、夏越君、大丈夫?」

「大丈夫じゃないけど、大丈夫です。僕が悪いですから。ほんとなんでこんなに愚図なんですかね、毎週のように部長を怒らせて先輩方に迷惑かけて……。本当にすみません」

「いや、違う」

「何が違うんですか」

「わ、私、明日、鍵当番なの」


 独古は絶望でジメジメとした雰囲気を醸し出し始めていたが、聞こえた声にのろのろと顔を上げる。


「あ、明日、いつもより一時間早く会社を開けに来てあげるよ。そうすれば、こ、この量なら、間に合うよ……ね?」

「み、三越先輩~!!!」


 目の前には神しかいなかった。彼女こそが女神であった。

 今なら電灯がミラーボール張りに輝いて彼女の後ろに後光を射している幻覚すら見える。

 そんな独古に彼女は狼狽するが、無償の善意に感涙極まっている独古に彼女に対して気を配る余裕などない。

 十分泣きついた独古は、ぐず、と鼻をひと啜りしてPCをスリープモードに落とした。

 デスクの下の鞄を引っ張り出し、三越とともにフロアを出る。


「じゃ、じゃあ、なるべく七時には会社に来るようにする、ね」

「本当に、本当にすみません」


 会社から出てすぐの所で別れ際に明日の話をする。

 独古が頭を下げれば、三越は大丈夫と両手を蜜蜂の様に振って否定する。


「じゃ、じゃあ、良い夜を。わ、私は本当に大丈夫だから、本当に気にしないで」

「はい…三越先輩も、良い夜を。お疲れ様です」


 三越はそう言うと、競歩じみた速度で通りの向こう側へと帰っていった。

 それを見送り、独古も帰路につく。

 

 夕暮れ時の道は様々な人で溢れかえっていた。

 弁当袋を片手に歩くサラリーマン。

 スマホに夢中な青年。

 その中を一人歩いて帰る。

 そよそよと、楓並木を初夏の生温い風が吹き抜けていく。


「ねえねえ、あのニュース見た?」

「見た見た、目覚めない患者が増えてるっているニュースでしょ? SFものの小説かよって感じ」

「嘘報道も大概にしろって感じー! 怖―い!」


 ふと、聞こえてきた声の方向を向いた。

 キャラキャラと楽しそうに女子高生が痴話話に花を咲かせながら歩いていた。


「それよりもさあ、今夜ジュンジュン主役の特番放送日だよ!?」

「うっそ、それヤバいじゃん! 小テストの勉強なんてやってる場合じゃないって」


 彼女たちは笑いながら去っていく。独古はしばらくその背を眺めていた。 

 特段、彼女たちの話が気になったわけではない。彼女たちと、今の自分を比較してしまったのだ。

 草臥れて一人虚しく帰っている大人の自分と、誰かと一緒に今この時を楽しく過ごす少女たち。どちらがしあわせな人間で、今を楽しんでいるかなんて、考えるまでもない。

 羨ましかった。自分も、あんな風に誰かと歩いて帰る日々を送れたらどんなに楽しいだろう。

 ドン、と肩に衝撃が走る。驚いて顔を上げると、怪訝そうな目と目が合う。前から歩いてきた人にぶつかられたのだ。

 いつの間にか立ち止まっていたらしい。

 独古は慌てて足を動かし、その場から逃げた。

 そういう自分の在り方が、ひたすらに悲しかった。

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