新しい噂
「ハンスさん、冷たいお水を持ってきたのでよければ使って下さい。いきなりあんなに動いて怪我は大丈夫ですか?」
「何から何までありがとうございます、香草様。本当にミアが申し訳ありません」
「大丈夫ですよ。お気になさらないで下さい」
ベッドの上で上半身だけを起こしていたハンスが頭を下げると、隣に足を崩して座っていたミアの母親もベッドの上で正座になり何かの切れ端のような紙を私に差し出しながら頭を下げた。
そのシワのついた藁半紙の切れ端のような紙には『娘が大変失礼な事を申し上げたと伺いました。本当に申し訳ありません』と記されているが、芯の折れた鉛筆のようなもので書いたのか何度も書き重ねたような文字が気になり、ハッとする。
「あの…少し待っていて下さい。それとハンスさん、奥様を止めておいて頂けると嬉しいです」
キョトンとするハンスに言い残すと私は研究室へ行き、ウィルソン領で購入した紙とアリスが魔女の道具を作ってくれる前に使っていたペンを持って、ルークの部屋に戻り、それらをミアの母親に差し出した。
「もしよろしければ筆談用に使ってください」
「いっ、いけません!こんな良質な紙!私たちはいただけません!」
「大丈夫です。少し買いすぎて困っていたので気にしないで使って頂けると嬉しいです」
慌てるハンスを説得しつつ、聞こえなくても意図を察したのか紙の束を突き返してくるミアの母親から一枚紙を貰って同じ内容を文章で記す。
すると彼女は困り眉を作って、そしてベッドに額をつけるほど深く頭を下げた。
紙をあげたくらいなので、そこまで仰々しくお礼をする必要なんてないのに…
「本当に何から何までありがとうございます。助けていただいた上にこんなにお世話になって…香草様には感謝してもしきれません」
「私は何もしてないので感謝なんて…それに皆さんを助けたのはルークですよ」
事実を告げるとハンスはフッと口角を上げる。
突然の笑みに何か面白い事を言っただろうか?と不思議に思っていると、彼は穏やかな空気を纏ったまま口を開いた。
「ルーク様は真逆の事をおっしゃられておりました。助けに行こうと言い出したのは香草様だ。だから私たちを助けたのは香草様だと…」
「そうだったんですね」
そんな事を言ってくれたなんて…
ルークが言っている姿を想像し、胸が温かくなっていくのを感じていると、彼は今までとは空気を一変させて真面目な顔をした。
「あの…お二人の関係は絶対に漏らさないようミアにはまたキツく言っておきます。もちろん私とサラも絶対に他言しません。この件は私ども3人で墓場まで持ってゆきます。恩を仇で返すようなことは決して致しません!」
ハンスから初めて聞く名が出てきたが、話の内容的にミアの母親の名前だろう。そういえば名前を聞いていなかったなぁ〜と現実逃避しそうになる意識を引き戻す。今は、それどころじゃない。
『墓場まで持っていく』なんて絶対に誤解しているのだ。こういった繊細な問題をルークがいない状態で訂正するのはかなり不安だが、ここで訂正しないと大変な事になりそうなので思い切って口を開く。
「…えっと、念の為に言わせていただきたいのですが、私とルークはそんな関係じゃありません。昨晩の件は…ベッドの手配がうまく行かなくて…その…」
「…そう、ですよね。香草様なその…メイドですからね!」
その先の言葉を考え口篭ってしまうと、ハンスは気を使うように私の言葉に同調する。
全く誤解が解けていない様子に焦る私。今更だが、この一家の前で私はメイドらしい対応をすることをすっかり忘れていた。
そんな状況下で『そうなんです、主人とメイドです』と訂正してもおそらく誤解を深めるだけだ。ならばどうするのが良いのだろう…?
慎重に言葉を選びたいがあまり長い時間を置くのも避けたい…
「えっと…最初の…拾って貰った頃はメイドとして色々と頑張っていたのですが…ルークは優しい人なので…主人ではなくどっちかというとお兄さんのように接してくれて…だから、今はこの屋敷にいるときは私も甘えてしまっているというか…あっ、でも私ルークに拾われる前の記憶がないので、実際はルークが年上なのかわかりませんけど…」
咄嗟に出た言葉はそんな言葉だった。
どうやらウィルソン領の設定が私の中でまだ強く残っているようだ。けれど、パッと浮かんだ割に、誤解を解くには悪くない理由。
それを証明するようにハンスの顔から微かに出ていた疑いの色が消える。しかしその代わりに彼の表情は暗くなってしまった。
何か余計な事を言ってしまっただろうか…?
「…そうだったのですね。母から香草様の話を聞いていましたが、記憶の件は知りませんでした…お辛い経験を思い出させてしまい申し訳ありません」
「そんなっ!大丈夫です!私は全然気にしてないので!」
そもそもそこに関しては嘘なので、胸を痛められる方が申し訳ない。
慌てて強く否定するとハンスは別の意味にとらえたのか、彼はフワッと表情を柔らかくし目を細めた。
「兄のように、ですか。ルーク様は素晴らしい方ですね。変な誤解をしてしまい申し訳ありません。つい見た目に違和感がないので邪推してしまいましたが…香草様が人間なら、まだそう言った歳ではありませんよね」
「そう…なんですかね」
断言するハンスに苦笑する。
本当に私は幾つに見えるのだろう?参考程度に聞いてみようと思ったが、真剣さを纏ったハンスの声の方が早かった。
「あの…ルーク様も香草様も誰かの怨みを買うような人ではないように思います…にも関わらず、どうしてあのような噂が?何かきっかけでも?」
「…私たちにもわからなくて…5ヶ月位前から突然街で噂が流れて…あっという間に国中に…」
正直に答えると、ハンスは眉を寄せ首を傾げる。
「5ヶ月前…ですか?変ですね。私たちが住んでいる村は宮廷から結構離れているので普通なら遅れて広まるはずですが…私たちも同じ位の頃から噂を聞き始めました…あぁ、でも神獣の噂も含めれば1年半くらい前からでしょうか…」
「神獣?なんですか?その噂?」
噂が広がった時に見た張り紙にも、ルークやロイドからの会話でもそんな噂はなかったように思うが…
「実はフレム国とエルフィーネ国の国境にもなっている山があるのですが、そこに住む神獣を殺し、実験の材料に利用した魔女がいるという噂がありまして…最初の頃は『魔女』と伝えられていただけでしたが、最近はその魔女が香草様だと…」
「その噂は初めて聞きました…神獣を殺したなんて…凄い内容ですね」
「えぇ。なので最初に噂が広まり始めた頃は皆半信半疑でした。いくら魔女といえど相手は神獣様ですから…ですがルーク様を操る魔女ならあるいは…と…」
ハンスの話を聞きながら思案を巡らせる。
噂が広まった時期を遡ると私は召喚されていない。つまりそれは絶対に私の噂ではない。
けれど『魔女』に『フレム国』そして『神獣』…今回の件と無関係な噂とは思えなかった。
胸がざわつき一人の世界に入りかけた時、これまでで一番力強さを感じるハンスの声が現実に引き戻す。
「母の住む街に行ったら、私たちも微力ながら噂を払拭するお手伝いをさせていただきます。街の人にここでお二人に助けていただいたことを話せば——」
「それはやめた方がいいです。ルークも言っていましたが、そんな事をしたらハンスさんたちまで街の人のあたりが強くなる可能性の方が高いです。そしたらミアちゃんが…」
街の人たちの目を経験した私はミアにあんな思いをさせたくない。
ハンスの言葉を遮ってキッパリと断ると彼は視線を伏せ、布団をギュッと握った。
「ですが、このままいただくばかりでは…私共の気がすみません。何かお礼をさせてください」
「…それなら、一つお願いしても良いですか?」
「っはい!何なりと!」
私はそんな風に思ってくれるだけで十分なのだが、ハンスの気持ちもわからないくもない。
なので少し考えてハンスに明るい声で問いかけると、彼は強い視線を私に向けた。
「私の事を様づけするのはやめてくれませんか?」
「えっ!?そっ、それは出来ません!恐れ多いです!」
お願いするように伝えるが、ブンブンと首を振ったハンス。しかしこの反応は想定内。
「さっきも少しお話ししましたが、私はルークに保護された、ただの人間なんです。様付けされる立場ではありません。だから、どうかお願いできませんか?ガーベラさんも『香草ちゃん』って呼んでくれてましたし。様付けされると、敬われれいるというより怖がられているように感じてしまって…」
きっと街に行った時、レイの口調が元に戻ったことも要因になっているのかもしれない…。
意識しても不意に蘇るあの視線に顔が強張る。あれは状況的に仕方ないと納得したつもりだったが、記憶が呼び起こされる度に胸が痛み不安になるのだ。私は皆とまた、笑顔で過ごせる日が来るのだろうか…。
ルークたちの事を信じていないわけじゃないのに…ちょっとした事で惑う自分が嫌になる。
「わかりました。それでは香草さんと呼ばせていただいてもよろしいでしょうか?」
ひっそり沈んでいると穏やかな声でそう言ってくれたハンス。噂が広まる前の街の人たちの様な顔にさっきまでの不安が消えていく。
大丈夫、大丈夫。きっとまた、街の人ともこんな風に…なれるはず。
「はい!ついでに敬語もいらないですよ」
「そんなわけには参りません!」
「そうですか。それは残念です…」
調子に乗るとハンスは焦ったように首を振る。これ以上のわがままは少し彼に負担をかけすぎか…。
今度のお願いはおとなしく引き下がると、彼はホッとしたように一度深く息を吐いた。
そして流れる沈黙に、話は終わったので部屋を出ようと思った時、ルークからのお願いを思い出す。忘れるところだった…。
「あの、話は変わりますが…皆さんがここにいる間はルークがミアちゃんに魔法を教えるみたいです」
「ルーク様が直々に!?そういえば、さっきも『ルーク様に魔法を教わる』と言っていましたね…それどころではなったので聞き流してしまいましたが…」
驚きよりも戸惑いの方が大きそうなハンスに一抹の不安を覚える。
「えっと、止めさせた方が良いですか?ルークの指導がご不安な様でしたら私から止めますけど…」
「いえ、滅相もございません!あのルーク様に魔法を教えていただけるなんてとても光栄なことで驚いてしまって…本当にありがとうございます!」
色々知っているせいで、ハンスの戸惑いがルークの教え方だと紐づけてしまったが、違ったらしい。
そういえばレイスやオルフェンもルークに魔法を教えてもらって興奮してたっけ…
「良かったです。それで、教える魔法なんですが、ミアちゃんはまだ幼いので…最初は攻撃性のない、安全で生活に役立ちそうな魔法を候補にしていたのですが…将来の職の幅を広げたり、自分の身を守る術を身につけるという意味では、攻撃魔法を教えるという手段もありだと…でも、時間的に教えられる魔法は少ないだろうから、どちらが良いか両親に話を聞いておいて欲しいと、ルークに言われまして…」
ミアがハンスと話している間、私とルークはどんな魔法が生活に役立つか話し合っていた。しかし話の内容はドンドン広がり、最終的にはやはり攻撃魔法の方がいいのか?と言う方向へ。
その際に『危ない魔法を教えるのは両親の許可がいるんじゃない?』と私が言うと、彼に両親に聞くよう頼まれた。
私は魔法のことはよく分からないので『自分で聞いた方が良いのでは?』と提案したけれど、物凄く面倒そうな顔をしたので今に至る。
ルークはあまり率先して一家と関わりたくないのだろうか?
苦々しい彼の顔を思い出していると、ハンスはサラと筆談で会話をし始めた。これは時間がかかるかな?と思ったが、筆談は3分もかからずに終わり、二人は穏やかな顔で私を見る。
「私たちからは特に希望はありません。なのでミアの望む魔法を教えてあげてください。私たちはあの子が楽しそうに魔法を使うのが一番なので」
「わかりました。ルークにはそのように伝えておきます」
ミアは両親の事を想い、両親もミアの事を想ってる。
当たり前に思えるが、実は掛け替えのない想いに心が温まる。そしてちょっとだけ…元の世界の家族が恋しくなった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます