待ちに待った
週末。
この甘~い響きのためにこの一週間頑張ってきたといっても過言ではない。
精を出した自分へのご褒美に、カフェやショッピング、都会の街をたっぷり堪能する休日を、それはそれは楽しみにしていたのに。
それなのに。
「寝過ごしたーーーッッ!!!!」
絶望とともに頭を抱える。
目が覚めた時点で時刻はゆうに午後を回っていた。
「最初の一週間は誰だって疲れるものよ」
「どうして起こしてくれなかったのユリナ!?」
「起こそうとしたけど、ぐっすり寝てたから」
読書をしていたユリナは本から顔を上げずに答えた。
初日から複数の依頼をこなす日々が一週間続き、その疲れがどっと出たのだろう。むしろ3日で限界が来て寝込むかと思っていたとユリナが付け足した。自分でもよく体力が持ったものだと思う。
言われてみれば、あちこち関節は軋みをあげて限界を訴えている。気合いとノリで突っ走ってきて、自分の体の疲れに自分で気付いていなかったようだ。
これはもう大人しく部屋で過ごすしかなさそう。ミリカはがっくりと肩を落とした。
「せっかくユリナとおでかけ出来ると思ってたのに……」
ユリナは心の中で、昨夜あんな雰囲気になっておきながら、まだ自分と休日を過ごすつもりだったのかと面食らった。まるで昨日のことなど覚えていないかのよう。
「まぁ、明日もあるから」
そう言うとミリカは素早く気持ちを切り替える。
「そ、そうだね……!うんうん。今日は食堂やギルドもお休みなのかな?」
「食堂と売店は休みだけど、ギルドだけは年中開いてるわ」
「そりゃそうだよね、魔物には休みとか関係ないし」
寝癖はそのままに「目覚めの一杯!」と称し、スクロールで湯を沸かして紅茶を2人分淹れた。
ミリカ達のような戦闘用魔術を使う者には、繊細な魔力操作を必要とする生活魔術が不得意で、『スクロール』と呼ばれる使い捨ての巻物を使って火を起こしたり、明かりを灯したりする。
わざわざ飲み物を入れるためだけにキッチンへ行くというのも面倒くさい。それに、田舎にいた頃は贅沢品だったスクロール、一回使ってみたかったのだ。
「うーん、やっぱりシェーネルの淹れた紅茶のほうが断然美味しいなー。エアート先輩の手作りお菓子も恋しい」
ぱたぱたとスリッパを鳴らしてベッドへ戻る。受け取ったカップに口を付けたユリナは、充分美味しいけど。と小声でフォローしてくれた。
マリもきっと『そんな事ないよ。ミリカちゃんのもすごく美味しい!』と励ましてくれるに違いない。シェーネルは『当然でしょ』と勝ち誇った笑みを浮かべ、リオは笑いながら『全然駄目じゃん。もっと頑張れよ』と歯に衣着せぬ率直な感想をズケズケ言いそう。セラカなら『よく分かんなかった』と言って2つとも飲み干すだろう。
そうやって生徒会のメンバー達の事や勉強について話したり、普段通りに接しているうち、ユリナもいつしか本を置いて普通に会話をするようになっていた。たったあれだけの事で、2人の距離が開くのは嫌だった。
のんびりと過ごすうちに日はすっかり傾き、夕食の時間。学園から支給される紺色の部屋着に着替え、髪も下ろしたままで軽く梳かす。
休日はほとんどの生徒が外食で済ませて来るものと思っていたのだが、2人が共同キッチンへ降りてくると、そこは多くの自炊派寮生でごった返していた。
「うわ~混んでる~、石炉は順番待ちだね。作業台も埋まってる。どれが自分の料理か分からなくなりそう」
だから調味料や干物にもいちいち名前が書いてあったのか。
「思えば私、アーサーさんから貰った野菜と果物はあるけど、肉とか調味料はまだ買ってない」
「私のを使えばいいわ」
シェーネルと一緒にジャムを作った時はがらんとしていて無駄に広いと思っていたここも、今では談笑と調理音でがやがやと賑やか。私服姿の者もいれば、ミリカと同じく部屋着だったり、ギルドでひと仕事してきたのか制服を着ている者も。
「ミリカ~!ユリナ~!」
呼ばれて、一際いいにおいを漂わせる大釜へ行くと、セラカ、シェーネル、イツミナ、コピュアとCクラスの仲良しグループが勢揃い。Eクラスのマリもいる。こんなに人がいるところへシェーネルが来て大丈夫かと思ったが、ここは女子寮で、奴らがここへ来る心配はない。
「こんばんは~」
「やっほー。ユリナ、体はもう大丈夫なの?」
「ええ」
「よかった。2人は今から作るとこ?」
「そうだよ!この大量のカレーはセラカが作ったの?」
「ほとんどシェーネルがやってくれたけどね。この人、料理が上手いの!」
「なんか分かるかも。お母さんって感じ」
「誰がお母さんよ」
いまひとつ輪に入る勇気の無さそうにしているユリナを、マリが「ほら、ユリナちゃんも!」と引っ張ってきてくれて、ミリカも反対側の腕を捕まえておくことにした。
どうやら作り過ぎてしまったカレーを一緒に食べてくれる助っ人を探していたらしい。5人でも食べきれない量って。
「いいの!?やったねユリナ!夕飯をご馳走してくれるって」
「ミリカちゃん達とお食事できるの、嬉しいな。えへへ」
「私もだよマリちゃん!でもほんとに沢山作ったんだねー」
「もっと作ってセラカ食堂やってやろうと思ってんのよ!だははっ」
大口を開けて笑うセラカには、何言ってんだと一斉にツッコミが入った。
「男子寮にもお裾分けしたら?ほらリオとか」とミリカ。
「男子寮に女子は立ち入り禁止よ」とシェーネル。
「ドトリは?」とイツミナがミリカに訊く。
「あー、あの3人は外で食べてくるって言ってたような」
「はぁ……気軽に大鍋なんて作るもんじゃないわね。だから言ったのに」
「でもほら、これで7人よ。これなら……」
イツミナとコピュアが鍋を覗き込むと、先程と変わらず10人前以上はある野菜たっぷりの出来立てカレー。ぐつぐつ。コトコト。スパイシーな香りに食欲がそそられて腹が鳴った。今ならこの量全て食べられる気がするが、やはり最終的にはだいぶ残ってしまいそうだとイツミナ達はぼやいた。
「ていうか、大丈夫だよ。ユリナが全部食べるから」
「「え?」」
皆からの視線を一様に受けたユリナは僅かに頬を赤らめ、無愛想だが瞳だけが心なしキラキラしているように見えた。
心ゆくまで友達との談笑を楽しみ、お腹いっぱい食べて身も心も幸福感で満たされたミリカは自室の窓から月を眺めて余韻に浸っているところだ。腹が捩れるほど笑った後の夜風が気持ちいい。
この寮はレイオークの中央区をぐるりと囲んでいる城壁の中に建設されていて、ミリカ達の部屋は東側にある。こちらへ向かって歩いてくる3人組の姿は、東区から中央区へ帰ってくる者達のものだ。
「ミリカちゃーん!たっだいまーっ!」
そのうちの一人が、すこぶる機嫌が良さそうに手を振った。
「ドトリちゃんお帰り!東区でいい店でもあった?」
「うん!ねぇ、2人とも談話室に来ない?」
「すごく行きたいけど、今日はもう疲れたから寝ようと思うんだ」
「そっかー。でも、あれ?寮の掃除当番はどうなったの?」
ちょうど部屋の真下まで到達したドトリに問われる。
「う、うん、もういいの。あれはもう終わったから」
「罰掃除の期間が終了したって事よね。それは良かったわぁ~。ふふっ」
「ウケる。次はもっと上手くやりなよ~」
アランシアとキャロットにまで言われ、たじたじになって笑い返した。
「じゃあねミリカちゃん」
「うん、おやすみ~」
手を振って
「ユリナが先生に密告したからだ!根に持ってやる~」
「一回目は見逃してあげたじゃない」
「じゃあ三回目も見逃そうよ!」
「三度目の正直という言葉があるのよ」
「うぐ……そうきたかー」
大仰に怯んでみせる自分がおかしくて笑っていると、ユリナの表情も和らいで見えたのは気のせいだろうか。
初日に比べると目を見てくれることも、ユリナの方から話しかけてくれることも増え、表面上の距離は縮まったように見える。なら、心の距離は?
しばらく他愛もない話を続けた後、灯りを消して寝床に入ったが、何度目かの寝返りの時、こちらへ背を向けて寝ていたユリナに声を掛けた。
「起きてる?」
「ええ」
ミリカはこう切り出した。
「ユリナって、前の学校で何かあったの?」
「どうして?」
『別に』とか『何も』とか返されなかった事に安堵しつつ、先日リオが言った言葉を持ち出した。
「ユリナの戦い方は戦争の時のだって、リオが言ってたよね。私は他の国の事情とかさっぱり分からないけど、リオが言ってた事が本当なら、もしかしてユリナは……」
それに答えは帰ってこなかった。ミリカは起き上がってベッドに腰掛ける。
「ユリナの戦い方はかっこいいと思うけど、やっぱり心配だし、捨て身なのは見ていて心が痛む。もしかして、自分の事なんかどうでもいいとか思ってたりしない?何か抱えているものがあるなら話してほしいの。こういうの綺麗事かもしれないけど、ユリナの悩みや苦しみを私も半分持ちたいから……」
しばしの沈黙の後、ユリナも横を向いて足を下ろし、2人が向き合って座る形になる。
そして窓から差し込む月明かりを見上げながら口を開いた。
「私はストレア大国から来たの」
「うん、それは知ってる」
「ルビアン5区の従士学校に通っていたわ」
「え?ルビー?」
「ルビアン」
雪の大国。
その呼び名の通り、ストレア大国は一年の大半を極寒と吹雪に閉ざされる。
突然心臓が凍って死ぬという、恐ろしい呪いがあるらしい。
東は魔女の森。西は宿敵のアスク大国。
呪いに怯え、敵に囲まれ、いつしか笑うことも忘れ、何も考えずただ寒さに耐えて暮らす日々。心まで凍りついた冷たい人々。
本当はそうじゃない。
隣人同士が身を寄せ合って微笑み合う。時にはウォッカで酔い、陽気に踊り明かす。暖炉の火の灯る暖かい家々から、優しい歌声が漏れる事だってある。
厳しい環境の下、じっと耐え凌ぎ、決して心は凍らない。その情熱と信念は、ストレアの圧倒的な軍力にも顕著に現れていた。
「軍、剣士団、騎士団とその親族関係者のみが住むことを許されている軍都、それがルビアン。このレイオークみたいに5つの区に分けられているの。形もレイオークにそっくりよ」
「そこの従士学校にユリナは通っていたの?」
「そう。私は剣士団に入りたかった。よくアスク大国との紛争が起こる国だったから、何度か援軍として加勢した時もあった」
そんな折、戦場とは関係のないところで従士達が何者かに殺されるという事件が立て続けに起こった。ユリナは親友と共に独断で事件を追ったが、その犯人は、ユリナが尊敬の念を抱いていた剣士団の団長であった。
「えっ?」
「強くて凛々しい、立派な方で、彼のような剣士になりたいと思っていたわ。でも彼は殺人犯だった」
「そんな、一体どうして。動機は?」
一拍遅れて帰ってきた、分からないという返答。
微妙な声の変化や視線の動きを見てそれが嘘であると判ったが、話したくないものを無理に聞き出すことはしたくなかった。
「彼を追い詰めたとき、彼は私を殺そうとした」
「それで……?」
「だから殺した。私がこの手で」
驚愕のあまり声が出なかった。
手のひらを見つめるユリナの表情は、虚無そのもの。
その心情を思うと胸が締め付けられ、たまらなくなって向かいのベッドの、彼女の隣へと移動し、スプリングの軋む音が無音の室内に響いた。
「身勝手な行動をとって規律を乱した上、上官殺しは死罪。でも犯人を探し当てたのは私。審議が行われた結果、私は従士の階級を剥奪されて、学校は退学処分、そしてストレア大国を追放された」
あまりに重すぎる処罰なのではと、大声で抗議したくなった。家族も残してきているはず。階級や学校のことも酷いが、国を追放するのはやり過ぎだ。故郷を追われた者がどんなに辛いか、ミリカには痛いほど分かる。
「そんなのあんまりだと思う」
「そういう国なのよ。情熱的だけれど情に流されず、時には氷のように非情にもなれる。私は軽いほうよ、死刑にならずに済んだのだから」
死刑。その2文字にぞわっと鳥肌が立った。もしユリナが処刑されていたら今頃こうして話をすることもなかったのだ。
「私は、ストレアの剣士団に入ることを小さな頃から夢見てた。ずっと憧れだった。今はもうそれが叶わない。大事な人を殺めたこの手で、もう剣を持つ資格なんて無いの。今はもう、何の為に生きているのか分からない。マリヤ先生の手引きでここへ来たけれど、一体、こんな学園に来て何になるんだろうって……正直、今でもそう思ってる」
淡々と、努めて感情を出さないように抑えられた声は、けれど震えていて、それは今までで一番人間らしいユリナの姿だった。
仄かで優しかった筈の月明かりは、今は逆光となって、手のひらを見つめる横顔に暗い影を落としている。
──ユリナが驚いたのは、不意にその手を力強く握りしめられたから。
「私はユリナの手、好きだよ?」
月虹が照らし出す、暖かな微笑み。
「ずっと自分を責めてきたんだね。そうやって自分を投げ捨てて、罪滅ぼしの為に戦ってきたんだよね。でももうそんな事しなくていいよ、十分苦しんだじゃない」
「でも……私は、恩師を……」
「その時はそうするしか無かった。それに、放っておいたら、もっと沢山の人が殺されたかもしれなかったんだよ?ユリナは仲間達を助けたの!」
冷え切った指先を包み込む、暖かな手、ひたすらに真っ直ぐな声。
月光に輝く緑色の瞳。
「もう悲しまないで。これからはユリナが幸せになれる方法を、私も一緒に考えたい」
それはまるで、失意の闇を切り裂く一筋の光のように。
心にじわりと染み込んだ温もりが、心を覆う氷を溶かしていく。
根底にある深い悲しみまでは取り除けずとも、固く閉ざされた扉は丁寧に、優しく開かれ、そこから差し出された手がユリナの心を引き出す。
「…………うん」
コクリと頷くユリナが母親に甘える子供のように可愛く思えて、美しい金色の髪をそっと撫でた。
「昨日は」
「?」
「昨日は、私が悪かったわ」
「もういいよ、ユリナが無事ならそれで」
「私は愛想が無いから、また不快にさせるかも」
「不快になった事なんてない。ユリナはそのままで可愛いよ」
ミリカに体を擦り寄せられ、直球な愛情表現に頬は赤く染まる。
愛想が無いように見えて、一緒にいれば喜怒哀楽ぐらいは見分けられるようになってくるものだ。無感動だなんてとんでもない。強くて気高く、けれど繊細な、普通の女の子なのだ。
「ねぇ、今日は一緒のベッドで寝ない?」
「それは嫌」
「えー」
夜が更けていくのも構わず、耳元で囁き合うように言葉を交わした。
もう二度と無いだろうと思っていた、胸の暖かくなる感覚。
クスクス笑うミリカの声が、子守唄のように心地良かった。
やがて枕元のランプの明かりが消され、サッと外の闇に溶け込んだ一窓。しかしどの明かりよりも尊い灯が、その部屋には満ちている事だろう。
もし神々が、天上界から見ているのなら祈りたいと思った。
いつか彼女の氷が全て溶けきって、その顔に笑顔が満ち溢れることを願って。
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