第16話 北大我亜美

「無事着いたからいいでしょ」

「検問でもあったらどうするつもりだったんだ? 無免許運転なんて、絶対やばいことになるぞ。まさかと思うけど、この車……」

「ないない。さあ、適当なコインパーキングに止めて、買い物行こっか」

「せめて、否定してからにしてくれ」


 北大我は黄色い看板のパーキングに車を乗り入れた。

 切り返しなく一度で車庫入れを完了すると、さっと窓を閉めて、後部座席に乱暴に放り込んだ手提げバッグを掴んで降りた。

 光矢が手ぶらでそれに続く。


「北大我は、この辺詳しいのか」

「全然。初めて来たけど、街なんてどこでも一緒。駅か、高い建物の方に進めばなんかあるでしょ」

「一応、本の仕入れなんだけど。北大我はスマホあるよな? 本屋調べたら早くないか?」

「せっかく来たのに? ――っていうか、そこにあった」

「あっ、ほんとだ」


 紺色の看板にBOOKの黄色い文字が目立つ本屋があった。

 人通りも光矢が思っていたよりずっと多く、行きかう人の装いも雰囲気が違う。

 その中で、北大我はなかなか目立っている。

 パンツ姿が似合っていて、モデルのようだ。

 それに対し、やや服が大きい光矢はひどく野暮ったい。ズボンも太もも周りに余裕がある。

 北大我がクールな表情で振り向いた。


「服も買うの?」

「もらったお金は、全部本に当てるつもり」


 出がけに外行きの服を海馬が用意したが、「仕事をこなして、近いうちに自分で手に入れろ」と厳しい対応だった。

 当然、自分の物を買っていいとは思っていない。


「そう。じゃあ本選んできて。私、そこら辺周ってくる。飽きたら適当に迎えに来るから、ここにいて」

「……一緒に選ばないのか?」

「別に本に興味ないから」


 北大我は颯爽とその場を離れていく。

 白いスニーカーの後ろ姿がとてもかっこよく、スカウトに絡まれる様子が自然と思い浮かんだ。

 視線を上げると、奥に背の高いビルが見えた。巨大なアパレルメーカーの看板が出ている。

 てっきり、北大我は大きな本屋に行きたいのだと思っていたが、彼女が興味を持っていたのは大きな服屋の方だったようだ。


「まあ、いいか」


 光矢は自動ドアをくぐり、四階に上がる。

 そこはワンフロアを使った見たこともない規模の本屋だった。手前に店員おすすめの本が並び、左奥には様々な文房具が並んでいる。

 帰宅部で時間を余らせることしかできなかった光矢の唯一の楽しみは、図書室で借りた本を読むことだった。

 もっと種類があればいいのに――

 この本は手元に置いておきたかった――

 読むたびにそう思い、無理だなと諦める。そんな日常だった。

 光矢の心はかつてないほど弾んでいた。

 幼い頃に遊園地でキャラクターショーを見た時の感覚と近いかもしれない。


「まじか、どれも続編があるのか」


 記憶に残る色々なシリーズ物は、『続』、『冒険編』『2巻』といった具合に、その次が用意されている。

 つい手を伸ばして、すっと引っ込めた。

 光矢が読みたい本を買いにきたのではないのだ。

 興味は尽きないが、一巻か、せめて二巻までにして、種類を広げた方がいいだろう。ジャンルもある。


「ああ……そういえば俺、三途渡町の本屋の品ぞろえを確認してないじゃん」


 ここに至って、とんでもないミスに気がついた。

 仕入れといいつつ、店の品の確認すらしていなかった。

 いや、途中までは考えていた。

 だが、この外出の補助員が北大我と決まってから、千丈のもとで話があっという間に決まり、流されるままに出てきてしまった。

 葛切と仕入れ? 別にいいけど――北大我も即答で、「車回してくる」とさっと用意が済んでしまったのだ。


「……だぶったらまずいし、今日はやめとくか。いや、せっかく連れてきてもらったしな。少しだけでも」


 どちらにしろ、北大我が帰ってくるまでは動けない。

 それなら色々と本を開いて、良さそうなやつだけ見繕うことにする。

 最新刊を選べば、かぶらないだろう。


「立ち読みって、大丈夫なのか?」


 本屋の奥では何人もの大人が同じ場所でとどまっている。

 彼らのほとんどは本を返す様子がない。


「悩むな……」


 光矢は結局、買うまで読まない方を選択した。あらすじだけ吟味して、出版日を確認してかごに入れる。

 その作業はまったく苦ではなかった。

 むしろ、自分が選んだ本が三途渡町の本屋に並ぶと思うと楽しみだった。

 そして、仕入れる本をレジで精算し、エレベーターのそばで北大我を手持ちぶさたに待っていたときだ。

 下から上がってくる階段から大きな笑い声が聞こえた。

 三人組の派手な女子高生たちだった。髪は全員黒だが、制服はかなり気崩している。

 そんな彼女たちは階段を登ると本屋に入った。

 見かけによらないな、と思った光矢だが、案の定、数分で出てきた。


「まだ、出てなかったじゃん」


 三人の中で一番身長の高い女子が、不満顔を作っている。

 隣の一人が「あいつ、嘘つきやがった」と同調した。


「ああもう、時間無駄にした――早く来いって」


 遅いのが我慢ならないのか、エレベーターのボタンを何度も乱暴に押した。

 1、2――4階。

 身長の高い女子が、中の乗客を確認せず、開いた瞬間に体を入れた。

 そして――北大我とぶつかった。

 彼女の頭がちょうど女子のあごに当たったのが見えた。

 一瞬置いて、三人がずらずらとなだれ込む。

 あっけにとられた光矢の視線の先で、最後の一人の口端が上がったのが見えた。

 扉が閉まった。北大我が出てこない。


「おいおい、なにやってるんだ」


 ぶつかっただけなら、出てくるはずだ。彼女の目的は本屋にいる光矢のはずだ。

 嫌な予感がした。

 光矢は慌てて階段を降りた。

 一度は止まったはずの心臓が、嫌な音を立てていた。

 一階に到着した光矢は目を見張った。


「おーい、何か大丈夫ぅ? ちょっと怒っただけじゃん。なに、怖いわけ?」

「自分から頭突きしといて、泣くとかうけるわー」


 北大我は地面に膝をついていた。

 顔面蒼白で、全身を震わせている。

 唇が同じ言葉を繰り返している――

 ごめんなさい――光矢は直感した。


「こらっ、なんか言えよ。お前がやったんだろ。うちらが悪者みたいじゃん」


 背の高い女子は肩をとんとんと心配するように叩く。

 だが、その表情から読み取れる思いは嫌になるほど醜悪だ。

 獲物を前に舌なめずりする悪党のように。


「ほら、立てよ。こっちはあごが痛いんだって。こんな場所じゃなくて、あそこの店でなんかおごって謝れよ。連れていってやるからさ」


 笑顔を浮かべた女性が、北大我の背後から脇に手を入れた。

 無理やり立たそうとしているのだ。

 その瞬間――


「ごめんなさい。わざとじゃない、お願い、許して……」


 本当に弱弱しい北大我の声が聞こえた。

 光矢の表情から、すとんと日常が消え去った。



 ***



「悪いけど、もう許してやってくれないか?」


 光矢の声は冷え切っていた。


「それに、ずっと見てたけど、君らもエレベーターの中を確認せずに入ったからぶつかったんだろ?」

「あんた、だれ? え、なに? うちらが悪いって言ってんの?」

「もしかして、こいつの彼氏じゃない?」


 片方の高校生は目を吊り上げ、もう片方は楽しそうに笑みを深める。

 どちらも自分たちに非があると認めるつもりはなさそうだ。


「なに? このびびりの彼氏なわけ?」

「いや、違うけど」

「かっこつけたわりに違うのかよ! じゃあ、友達ね。まあいいや、友達で」

「そうそう。こいつ突然ぶるっちゃって泣いてんの。話にならないから、あんたが治療費払ってくれない?」


 光矢は首をかしげて言った。


「治療費? 店で謝らせるんじゃないのか? そう言ってたぞ」

「はあっ!?」


 長身の高校生の顔色が変わった。なめきった態度に怒りが上塗りされた。

 つかつかと革靴を鳴らし近づいた彼女は、光矢を上から見下ろす形で言った。


「同じだよ。ここで払うか、店で払うかの違いだけだっての」

「うん、あごに何も傷はついていないみたいだ。良かった」

「お前、なめてんのな!」


 彼女の顔に赤みが差した。すっと伸びた片手が光矢の胸倉を掴んだ。

 ドスのきいた声が響く。


「謝れ」

「だから、さっきから何度も謝ってる」


 光矢は膝をつく北大我に視線を向けた。


「そっちじゃねえ、お前が謝れって言ってんだよ」

「なぜ?」

「はあ、もういいわ。お前バカだな。いいから、財布だせ。手持ちで許してやるから」


 高校生が光矢のポケットに手を伸ばした。

 背の低い女子が慌ててどこかに電話している。

 それを冷めた感情で眺める光矢の視線は――北大我の震えながら謝る様子に釘付けだった。

 耳の奥で引っかかっていた彼女の言葉が蘇る。


 ――くたばりそうだけど、苦しいとこ抜けたら案外いけるから。

 ――けど、しんどくなると、またダメになるんだよ。


 三途渡町の店を案内した時の北大我はそう言って車の話をした。

 そう思っていた。

 だが、それは彼女自身のことを表していたんじゃないだろうか。


 ――ついてなかったね。


 クラスでひどい目にあっていたという光矢の話に、そっけなくそう言った。

 だがそれは、北大我がもっとひどい経験をしてきたことの裏返しじゃないか。

 そう思った。

 彼女が死ぬ前にどんな人生を歩んできたかは知らない。

 無理に聞く気もない。

 でも、死んでから、まだ苦しまなければいけないようなことじゃないはずだ。

 まして、自己満足とお遊びのために、人の深い傷をえぐって笑っていられるやつはろくな人間じゃない。

 お前らこそ消えるべきだ――光矢は、自分のポケットに伸ばされた高校生の手首を握った。


「今さらなに、財布とられるのは嫌なわけ?」


 高校生がにらみつける。

 光矢は「そうじゃない」と微笑を浮かべた。


「どうしても攻撃しないと気が済まないのか、って呆れてるんだ」

「なに言って――」

「もうこの手は外れない」


 その瞬間、にぶく低い音が鳴った。

 光矢は手に力を込め始めた。


「――っ」


 高校生の顔色が変わる。

 全力で掴まれた手を離そうと腕を引っ張るが、光矢はびくともしない。

 もう片方の手で自分の手を引くが、ミシミシと嫌な音が響くだけだ。

 その異常な状況を見て、残った二人の表情が変わる。


「美弥を離せっ!」


 自由に動ける高校生が平手を放った。

 光矢の右頬だ。しかし、その手がまたも掴まれる。


「こっちもこれで外れない」


 再び低い音が鳴り始める。

 握られた高校生が小さな悲鳴を漏らした。


「これ以上続けると、折れるかもな」


 その言葉を聞いて、二人の顔に恐怖が広がった。

 光矢は、タイミングを見計らってぱっと手を離した。

 たたらを踏んで尻を着いた二人の手首には真っ赤な指の痕が残っていた。


「この、変質者! 絶対許さないから!」


 長身の高校生が手首を押さえて逃げ出した。

 遅れてもう一人、そして電話をしていたもう一人が続いた。


「ここまでしないとダメだったか……北大我、ごめん、遅くなった。大丈夫か?」


 光矢はしゃがみ込んだ。

 周囲で人がざわついていたが、どうでも良かった。


「も……萌は? 萌は? どこ?」


 北大我は地面に視線を落としたまま片言のように言った。

 ひどく憔悴している彼女に、光矢は淡々と事実を告げた。


「いない。今は俺だけだ」


 光矢は事前に八重山萌から聞いた話を頭の中で反芻していた。


 ――萌ちゃんの状態がひどかったら、とりあえず抱きしめてあげてください。


「ここは目立つから行くぞ。悪いな」


 光矢は北大我を抱えた。

 もう大丈夫、と一声かけ、ビルの合間の暗がりに姿を消した。


「大丈夫、離れないから」


 壁に背中を預けた光矢は繰り返しそう言った。

 しばらくは返事もなかった。

 だが、たまに身じろぎする北大我は、その言葉を確かに聞いていた。

 ゆっくりと理性を取り戻しているのだろう。時折、思い出したように体を離そうとした。

 しかし、途端に震えて光矢にしがみついてしまう。

 それは何かと戦っているようでもあった。

 不衛生でゴミの匂いが漂う裏路地。

 光矢は彼女が死んだ理由を想像する。

 八重山はその内容を決して口にしなかったが、もし何かあって危なくなったときには、という話は聞かせてくれた。

 北大我がカウンセリングを必要としていることも。


「わかってる。わかってるの」


 しばらくして、北大我が胸の中でくぐもった声をあげた。

 顔は胸にうずめたままだ。


「あんなやつら、なんとでもできる。戦える。でも……でも……頭と足が勝手に止まる」

「そうか」

「一回ダメになると、しばらく動けなくてダメになる。そんな自分が……嫌い」


 彼女の声にかすかな嗚咽が混じった。

 光矢は「大丈夫」と言った。


「萌に迷惑かける自分が嫌い。こんなことで立てない自分が嫌い」

「うん」

「髪を染めたってピアスあけたって服を揃えて別人みたいに振る舞っても、やっぱり私は抜け出せない。《黒曜》を使う時だけ強くなった気でいられる。でも……終わったらひどくみじめになる」


 光矢はビルの暗がりで頭上を見た。

 小さな隙間で白い雲の群れが次々と流れていく。


「毎回毎回、嫌になって死にたくなる。めんどくさい自分が大っ嫌い」

「めんどくさいもんな」


 光矢は胸に押し当てられた彼女の頭を優しく撫でた。


「勘違いしないでくれよ。死んでからもそんなことに縛られる自分がめんどうだよなって言ったんだ。俺もそうだ。さっきの光景を見てから、俺が苦しんで死んでも親はのうのうと生きてるし、クラスのやつらも三日経てば忘れるだろうなって思ったんだ。どうしてこんな嫌なことを思い出さなくちゃいけないんだろう」


 北大我の体に回した手にぐっと力を込めた。

 でもな――光矢は言い聞かせるように言った。


「北大我はやっぱり優しい。優しすぎる。たぶん、《黒曜》の力を使えないんじゃなくて、どうなるかわかるから体が無意識に制御してるんだ。俺は違う。俺は傷つけて当然ってつもりであいつらを追い払った。あんな力で脅して、こんなに冷静でいられるのが怖いくらいだ」

「私はただ怖くて……」


 彼女の力の無い声が漏れた。

 光矢はそれを塗りつぶすように言った。


「俺は好きだよ。北大我のそんなところ」

「え?」

「戦えないなら逃げたらいいと思うし、優しすぎるやつが悪いなんてことは絶対にないから。だから――あんまり気にすんな。傷つけてないんだし、胸を張っていいと思う」


 いつの間にか、北大我の視線が上がっていた。

 色素の薄い茶色い瞳の端が濡れていた。

 光矢は少し気恥ずかしくなって、頭を胸に押しつけた。


「もう少し、そうしてていいから。落ち着いてからもう一回考えてみてほしい」

「葛切……」

「ん?」

「守ってくれて、ありがと」

「どういたしまして」


 北大我が光矢の胸に耳を当てるように頭の向きを変えた。

 そして小さく息を吸った。


「ねえ……」

「なに?」

「意外と……恋愛経験あるの?」

「……ない」

「だよね」

「だよねって。あるかもしれないだろ」

「ないって言った」

「言ったけど、可能性の話ってことで――」


 腕の中でかすかな振動を感じた。

 それは震えではなく、北大我が笑いをかみ殺したせいだった。

 光矢は途中で言葉を止めた。

 そして、ため息をついてから虚空に言った。


「もっとためになる本も買った方が良かったかな」


 その瞬間、北大我の忍び笑いが漏れたのは気のせいではなかっただろう。

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