第7話 明日のために

「萌っ!」


 千丈が倒れていく八重山を受け止める。両手両足は、光矢のような黒い鎧に覆われている。


「八重山さんっ!」


 光矢も必死に叫んだ。左手を顔に当て、よろめくように後ろにたたらを踏む。

 千丈の鋭い視線が向く。


「葛切……お前」

「違う! 俺は本当に、本当に、そんなつもりなくて! でも、体が勝手に! 信じてくれ!」


 泣きそうな顔の光矢に、千丈は声をかけなかった。

 光矢の頭部が再びヘルメットのような鎧に覆われていく。首元から意思を持つ泥が這い上がっていくような不気味な光景だった。

 千丈が八重山を抱えたまま後方に飛び退いた。

 腕の中の彼女はぐったりしていて、反応がない。


「その人は大丈夫なんですかっ? お願いだから、教えてくれ! そうじゃないと、俺は……俺は……何のために……俺は、傷つけるつもりは……なんだこれは……暗い……」

「こんなことになるとはな……」


 千丈がトンネルに向かって走り出した。

 傷を負った八重山を気遣っているのか、動きは優しい。


「待って……くれ! おおぉぁあっ」


 葛切が完全に鎧に覆われた。表面に再び紅線が浮かび上がると、みるみるうちに、千丈に切られた羽が復活した。

 体が小刻みに揺れる。手のひらを何度も握って広げ、胸を抱え込むようにその場に崩れる。

 だが、最終的に立ち上がった彼の姿は、全身に太い血管のような紅線を走らせ、頭部に深紅の光を纏った鬼のようだった。



 ***



「きばれよ、萌」


 千丈はトンネル内を走っていた。人を抱きかかえているとは思えない速度だ。

 それでも、本来の力はまったく発揮していない。

 これ以上、速度を上げると八重山の負担が大きいからだ。


「つっても、これじゃあ追いつかれるな」


 千丈が背後に視線を送る。

 全身の大部分を紅く変えた葛切光矢が、憤怒を表すように真っ赤な軌跡を描きながら追いかけている。

 そのルートはおぼつかない。

 左の壁に体当たりしたかと思えば、反動で次は右の壁にぶち当たる。

 トンネル内で反響する破砕音はやむことがない。至る所に衝突しているのだ。


「仕方ない……萌、悪いな。いくぞ」


 千丈の両脚の鎧が淡く蒼い光を放った。

 その瞬間――彼は消えた。いや、直線に跳んだのだ。

 それもたった一歩。

 世界を置き去りにした移動は、光矢との距離を一瞬にして開いた。

 だが、光矢も負けてはいない。

 彼は足の代わりに後ろ手に構え、赤い炸裂を使用して追いかける。こちらもかなりの速度だ。

 それを見た千丈が「もう応用か」と苦笑いしながら左に曲がった。

 そこはトンネルの中にある分岐した小さなトンネルだった。

 青い膜を越えると、千丈が再び加速する。

 八重山の片手がだらりと落ちたのを見て、千丈は「さすがうちのメンバーだ」と肩にかつぐ姿勢に変わった。


「さあ、もう少しだ」


 手が胸ポケットにすべりこむ。スマートフォンを取りだした。

 状況をホームに連絡するつもりだった。

 だが、そのタイミングを計ったように、スマートフォンが震えた。表示された名前は海馬夏樹(かいまなつき)。

 千丈の頬が自然と緩んだ。

 頼りになる男だった。


「俺だ」

「連絡が遅い」

「うっ……悪かった」


 相手の第一声は叱声だった。しかし、感情的な怒りはなく、抑揚のない事務的な声色だ。

 書類はここに、と言い換えても通用しそうだった。


「まず、向こうに着いたら私に連絡すると言いましたね」

「しようとは思っていた」

「減点1」

「うっ……」

「目途が着いたら一報を入れる、予想外の事態には連絡する、と出がけに言いましたね」

「なかなか目途がつかなかったんだ。色々あって――」

「減点ダブル加算。それを予想外の事態と言うのです」

「……俺が悪かった」

「それは言うまでもないこと。反省はあとでたっぷり聞かせていただきましょう」

「海馬――」

「何でしょうか」

「準備は?」

「パーフェクトです。状況の説明を」


 スマートフォンの向こう側で、海馬と呼ばれた男の声が楽しそうに響いた。

 簡単に説明しつつ、千丈の口端が上がる。


「突っ込むぞ。標的の《醒零》は完成に近い。予想以上だ」

「どうぞお好きな場所に突っ込んでください。対応しましょう」

「よしっ」


 千丈は通話を切って、乱暴にスマートフォンをポケットに滑らせた。

 目的の場所は目と鼻の先だ。

 地図にない非公式の町――三途渡町。人の来ない山の中のトンネルから分岐して到着できる場所は、彼の第二の故郷。ホームタウンだ。

 細い道路を抜けると、巨大な人工物が見えた。

 その手前には山を改造し木を切り開いて砂を入れた場所、湖をそのまま使用して湖畔として開発した場所、そして中堅のビルを群生させたアクティビティがある。

 だが、それらの目的はもちろんバカンスではない。

 これは、『侵入者を歓迎する仮想戦闘環境』なのだ。

 千丈が背後を確認した。

 光矢が予定通り近づいてきた。だいぶ足が動くようになってきたのか、動きに滑らかさを感じた。鎧の周囲に硬質な膜も浮かび始めている。


「今日はここだ」


 そう言って急に右に曲がった。

 先に見えるのは、ビル群だ。

 海馬の言葉通りなら場所はどこでも良いのだろう。

 千丈はビルの間を一気に走り抜け、非常に大きなドームサイズの広場に出た。

 そして――紅に侵された光矢が肩を弾ませてやってきた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る