第6話 目覚め

 ――助けて。こんなの無理。


 近くに声が聞こえた。

 いや、いつからだったろうか、ずっと聞こえていたのだ。

 だが、今の今まで、それが現実の声だと認識できなかったのだ。


 ――この子は幸せになってほしいですね。


 思い出した。

 あの声と同じだ。

 間違えようのない、慈しみの目で自分を見ていた人の声だ。

 手を握って、最期までずっと話を聞いてくれた人の声だ。

 みじめな思い出を語りながら涙を浮かべる光矢に「ゆっくり、ゆっくりでいいですから」と耳を傾けてくれた人の声だ。

 右手が動いた。

 目の前がクリアになった。

 周囲の不快なざわめきが耳に届いた。

 全身が一気に熱を帯びた。


「助けて……」


 はっきり聞こえた。

 これは、あの人が助けを求める声だ。

 ずっと靄におおわれていたような頭の中が、突然開けた。

 ただ聞き流してきただけの声が、情報となって繋がり、頭に流れ込んでくる。

 まだ何が起きているかは理解できない。

 でも――

 ひたすらゴミと呼ばれ、クズと蔑まれ続けた自分に、人間としての温かい最期を与えてくれた人がいる。

 その人が、心の底から震えている。


 目の前の壁を押した。

 壊せることはすぐにわかった。

 そして、それが踏み越えてはいけない壁であることを直感した。

 感じたことのない、マグマのごとき熱さと力が、それを教えていた。

 この先に進めば、人間を辞めるだろう。


「それがどうした?」


 自問に声が答えた。

 人生を終えるしかなかった自分は、最期の最期に救われた。

 冷たい世界にいた自分に、小さい、でも確かな熱を与えてくれた。

 その熱を、恩を返したい。

 そして一言伝えたい――あなたのおかげで楽になれた、と。


「だから――もう怖がらせるな」


 葛切光矢は覚醒した。


 ***


 光矢は赤い光を纏い、空で停止していた。

 改めて、自分の姿を確認する。

 全身がごつごつした黒い鎧に包まれていた。頭部もヘルメットに似たものを身につけている。外れそうにない。

 背中には枝にも金属にも見える黒い棒が複雑に絡み合い、羽のような形状を作っている。

 赤い光が不規則に棒の上を走り抜けては消えていく。

 右腕と両脚は不揃いの岩石に似た何かに覆われ、倍近い大きさに膨れ上がっている。

 胴体には赤い線が幾重にも走り、夜闇の中で明滅している。


「難しいか」


 右腕を軽く振ってみたが、思い通りには動かなかった。鉛を巻きつけられているような動きの悪さを感じる。

 それに対し、左腕は完全に鎧の形状だ。

 こちらは岩ではなく、金属のような滑らかさと光沢を持つ物質で包まれている。


「よくわからないけど……まあ、いいか。先に――」


 頭の中はひどく冷静だった。

 化け物になったというのに、まったく焦りが湧いてこない。

 思考は一つ――怖がらせたやつらを倒す。それだけだった。

 光矢が重たい右腕を振った。

 自然と岩石に似た物質が離れ、そのまま落下しながらセダンの周りを囲むように転がる。

 そして、それらが赤い光線を伸ばし、糸のように巻きついた。


「これで大丈夫か。次は――」


 光矢は眼下の化け物たちを睥睨する。

 彼らは一様に、空中に停止する光矢を凝視していた。

 目がない化け物も含め、そのことが、なぜかひしひしと伝わってくるのだ。


「さあ、来いよ」


 光矢が鎧の中で口端を上げる。

 我に返った数匹が、空を目指して飛びあがった。周囲から襲いかかった異形たちは、一様に壁に阻まれた。

 不可視ではない。光矢の周囲に揺らぐ何かがある。

 鋭利な腕を差し込もうとした化け物は、逆に壁に固定され、もがけばもがくほどがんじがらめにされていく。


「お返しだ」


 光矢は両手を開いて前面に向けた。

 そこには輝く紅玉があった。ピンポンサイズの玉が炸裂する。

 広がる赤い光と爆発音。

 異形は跡形もなく消えた。

 空中にさらに紅玉を追加した光矢は、それを足場に高速で移動する。

 土煙すら起こさない着地は異常を示していた。

 光矢の右腕が真横に振り抜かれ、今度は赤い波が一帯をなめ尽くす。

 悲鳴をあげて逃げまどう異形。その間を縫って、数匹が牙を立てようとして跳びかかった。


「丸見えだよ」


 光矢は小さく跳んで卵のように足を抱えていた。

 いつの間にか、背中の羽が無数に伸びて、彼を守っている。

 そして、遅れてやってくる――紅線。

 熱か、爆発か、未知の力か。

 彼にもその正体はわからない。

 だが、一つだけはっきりしていることは――この力の使い方がなんとなくわかるということ。

 気づけば、右腕は細く軽くなっている。

 動きづらかった両脚は意のままに操れるようになっている。

 重戦士のような見た目は、いつの間にかライダースーツのように体にぴたりとフィットしている。

 何もかもが思い描く通りになっていく。

 ぐるりと視線を巡らせる。

 逃げようか、跳びかかるか。

 そんな迷いが透けて見えた。

 光矢は目尻を緩めながら羽を縮めると、複雑に絡み合う背中の一本を引き抜いた。

 見る間に刀の形状に変わったそれは、刀身がまっすぐの直刀だ。

 しかし、刃には紅線が走り、振れば軌跡が紅く描かれる。


「これは使えるかな」


 光矢はおもむろに刀を振った。

 それに呼応して右腕の紅線が太さをまし、まるで血管のごとき不気味な脈動を作り出す。

 その力は絶大だった。

 異形がことごとく切り裂かれ、その足下に巨大な黒渦が出現した。

 悲鳴と怨嗟の合唱がこれでもかと響き渡る。


「終わりかな。まだ次を考えてたのに」


 脈動が徐々に早く、広くなっていく。

 右腕の紅線は今や赤々と燃えるような光を放ち、胴がどんどん浸食されていく。


「気分、いいな。体が軽い」


 横から残り少ない異形が跳びかかった。両足と腹にかみついた者たちに対し、光矢は微動だにせず、両手を広げた。

 頭部が紅い脈を打った。

 すると、異形たちの体がずぶずぶと光矢に取り込まれ始めた。


「これもいいけど、楽しさはないな。ああ……これが、世界――」


 光矢の背後に、直径30メートルはあろうかという巨大な黒渦が出現した。

 頭がゆっくりと後ろに倒れていく。

 吸われているのだ。


「光矢さんっ!!」


 響き渡ったその声が、光矢にぶん殴られるような衝撃を与えた。

 気づけば、黒渦に向かって足が下がっていく。

 今、何をしていた。

 混乱の中、声の主――八重山萌は、必死に叫んでいた。


「ここです! 私はここです! そっちじゃないです!」


 光矢が全身に力を込めた。

 両脚と胴体に癒着した異形が、先に吸い込まれ始めている。

 背中の羽を抜いた。

 素早くつなぎ目を切断し、前に足を出す。


「光矢さんっ!」


 わかってる。わかってるんだ。

 光矢は後ろを振り返れなかった。

 今ならわかる。

 背中から異質な気配を感じる。嗅いだことのない生臭い臭いが漂っている。

 ――違う。こいつは生臭いなんて生易しいものじゃない。温かさは後ろじゃない、前だ。


「光矢さんっ! 早く!」


 八重山が走ってくる。

 だが、体が前に出ない。手が伸びない。

 羽の一部が黒渦に捕らえられているのだ。


「動け、出ろっ、体、動け!」

「動くな」


 光矢の上空から声が聞こえた。

 この声も知っている。これは――

 背中が急に楽になった。と、勢いよく前に倒れた。

 途端に体がぐっと重くなり、頭部の鎧が溶けるように消えて顔が露出した。

 千丈が光矢を覗き込むように見下ろしていた。


「悪い、羽を切っちゃったわ。まあ喰われるよりはマシだろ」

「千丈……さん?」

「おっ、やっぱ意識あったか。さすが、適性高いな」


 光矢は全身に力を込めて、のそりと立ち上がった。

 今までの高揚感はなんだったのか、嘘のように動きづらい。

 気づけば黒渦が消えていた。周囲にいた異形も綺麗さっぱりいなくなっている。


「あ、ありがとうございました」

「いいって、いいって。それに、もう少し仕事、残ってるしな。状況わかる?」

「……なんとなくですけど」

「十分、十分、ここまで来たら何とかなるでしょ。そこら辺のは、ほぼ蹴散らしたしな」


 千丈がにかっと笑い、光矢の眼前で手を振った。


「なに……してるんですか?」

「ん? どれくらい馴染んだかなって」

「馴染んだ?」

「おっ、萌だ」

「もえ?」


 光矢が千丈の視線の方向に首を回した。

 小柄な女性が慌てて走ってきた。


「お前にずっと語りかけてたやつの名前。八重山萌。自己紹介してないか? 忘れたなら覚えてやれ」

「やえやま……もえ、さん」

「そうそう。お礼言っとけよ」

「光矢さん、もう大丈夫なんですか!?」


 八重山が短いポニーテールを揺らして駆け込み、荒い息を吐いた。

 千丈が「だいじょーぶ、だいじょーぶ」と口にしたが、「千丈さんには聞いてません!」と怒られて、「あっそ」と唇をとがらせた。


「もう平気なんですか!? 危うくいなくなっちゃったかと思いました」

「いまいちよくわかってないんですけど、一応、このとおりです」


 光矢が両手を広げてアピールすると、八重山がほっと胸を撫で下ろした。


「良かった」

「あの……色々と聞きたいことがあるんですけど……」

「ですよね? ですよね? いーっぱい聞いてください! その……」


 八重山は曖昧な笑みを浮かべ、「時間はありますから」と、声を落として言った。


「なあ、光矢。お前、その刀みたいなの、すごいな」

「千丈さん!? 今、ちょっと真面目な話をしてるんで、あとにしてもらえません!?」


 突然割り込んだ千丈に、光矢が「大丈夫です」と会釈し、向き直った。


「俺……後半から、何やってるのかわからなくて……それに、この鎧みたいなの、どうやって戻ればいいんでしょう? すごく動きづらくて」

「どうって言われてもな。戻れーって念じれば適当に戻るぞ」

「千丈さん、光矢くんは初めての経験なんですよ。もう少し丁寧に教えてあげてください」

「もう少しねえ……なら、この俺がぱっと戻る方法を教えてやるから、見てろよ」


 千丈はそう言って数歩下がり、「《醒零》(ざれい)」と口にした。

 すると――

 光矢の右手から伸びた直刀の先が、八重山萌の胸に吸い込まれていた。

 そして、彼女は後ろ向きに倒れた。

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