第5話 覚醒
C棟を出た瞬間に目に飛び込んできた光景は――
沈む夕日に照らされた異形、異形、異形の化け物たちの群れだった。
千丈が室内で『送った』化け物のような、原型が人間だと分かるものは一体もいない。蛇に似た岩のようなもの。
三角錐を逆さにした体を左右に揺らすもの。
岩石を貼りつけた触手に似た細い器官を体中に生やしたもの。
統一性も規則性もない。
集まった化け物たちは互いに負けじとつぶし合いをしつつも、空間に降りた透明感のある蒼いカーテンのようなものに行く手を阻まれていた。
接触した最前列の化け物が、バチバチと群青色の火花と共に燃え上がる。
だが、そのあとを前に進めと群れが踏み潰す。
八重山が光矢を背負ったまま息を切らせつつ、絶叫する。彼女は間近で戦った経験が少なかった。
「きゃぁぁぁっ! 船戸さんって、こんなのどうにかしてたんですか!?」
「野良の『境界渡り』だ。偽物だがな。一時間以上はこの状態だったろう。船戸さんにとっては、大した仕事じゃないとはいえ……多いな。よっぽど腹をすかせてるらしい」
「多いなんてもんじゃないです! 私たち、この中を出ていくんですよね!? 大丈夫なんですか?」
「俺がいる。安心しろ。それにやつらはそこまで速くない。見ろ、車は無事だ。さっさと走るぞ」
「待ってください! よく考えたら、千丈さん、戦ってないじゃないですか!?」
「ん? まあ、船戸さんのエリア内だからな。俺の出番は外に出てからだ」
千丈が先頭で「それがどうした?」と首を回した。
八重山が泣きそうな顔になる。
「私が車まで運ばなくても良いのでは?」
「……萌が運ぶって言うから任せたんだが? 俺は意思を尊重するぞ」
「両手空いてますよね? 光矢君の足、引きずっちゃってるんですけど」
千丈の顔が合点がいったものに変わる。「確かに」と頷いた彼は、走りながら位置をあわせ、光矢を軽々と肩に背負った。
「さっすが、千丈さん」
「ほれ」
「は?」
千丈が八重山に片手を伸ばしていた。
「萌も、急げ」
「私は自分で走れますよ」
「時間が迫ってる。しがみつくよりはマシだろ」
千丈は説明もそこそこに八重山の手を急に引いた。そして、そのままの流れで前方に放り投げた。
彼女が軽い放物線を描きながら、盛大な悲鳴と共に見事にセダンに向けて飛んでいく。
千丈が前傾姿勢に変わると、今まで比較にならない速度で移動する。
「ぁぁぁぁあああああっ――」
ちょうどセダンにたどり着いたタイミングで、八重山の体が落ちてきた。
人間一人分。
けれど、千丈は片手で八重山の腕を掴み、一回転して勢いを殺すと何事もなく受け止める。
「運転、頼む」
「最初に、もっと言うことありますよね!? 前線組ってみんなこんな扱いなんですか!?」
「全部、あとで聞く。行くぞ」
「もう!」
八重山はふらふらしつつ、運転席に座る。
年代物のセダンが、エンジンを鳴らした。
「トランク、開けてくれ」
「後ろに載せないんですか?」
「この方がやりやすい」
千丈は有無を言わせず光矢をトランクに放り込んで閉めた。
そして後部座席に素早く乗り込み、指を差す。
黒い群れの中だ。
「あの方向だ」
「真っ直ぐ突っ込むんですか?」
八重山の頬が引きつったが、千丈は逆に頬を緩めた。
「安心しろ、船戸さんは『車の出発は保証する』と言った。なら、最短距離で行く」
「し、信じていいんですか?」
「俺は船戸さんに『信じてくれ』と言った。信じてほしいなら、まずは俺が信じないとな。さあ――行くぞ」
八重山が頷いた。腹をくくった顔だった。
「轢くつもりで行きます」
アクセルが傾いた。
セダンが、「ばかを言うな」とばかりに大きく震えた。
***
「目を閉じろ」
「はい」
千丈の無茶苦茶な指示に八重山が素直に従う。
アクセルは踏みっぱなしだ。
途端、薄暗く変わる世界に、まばゆいばかりの道が通った。施設から伸びたそれは、幅10メートルはあろう長大な直線道路のようだった。
セダンは一瞬にして強烈な光に呑まれ、周囲一帯が何も見えなくなる。
「このままでいいんですか!?」
「ハンドル固定、アクセル全開」
いつもと変わらない飄々とした言葉に、八重山の不安がピークを迎えた頃、光がすうっと消え去った。
「目を開けろ」
「うそ……」
八重山のフロントガラスには化け物のいない幹線があった。
驚いてハンドルを離しかけた彼女は慌てて持ち直し、バックミラーを確認する。
後ろも普通の光景だ。
千丈が「さすが」と大きな声で笑いながらシートにもたれかかる。
「なんだかんだ言って、十分すぎる手助けをしてくれたな」
「さっきの群れは……どうなったんですか?」
「消滅したんだろう。全部じゃないとは思うが、船戸さんが俺たちの通り道を綺麗にしてくれたんだ」
「あの方って、何者なんですか?」
千丈が「さあな」と窓の外に視線をやってから、おもむろに上着を脱いだ。
「直接聞いたことはないから、知らん。だが、今わかっていることは三つ。俺たちと近い人種ってこと、死者の鎮魂って概念をとても大事にしていること」
「あと一つは?」
「縄張りと勤務時間は、はっきりと線を引くってことだ」
「どういう意味ですか?」
「運転はこのまま真っ直ぐ。トンネルに入ったら、いつも通り左だ」
「千丈さん?」
八重山はそう言って、息を呑んだ。
バックミラーに二足歩行の化け物が映ったからだ。
ごつごつした岩を体に貼りつけた、頭部が180度逆さまについた異形。
浅黒い肌は夜間に視認しづらいが、『境界渡り』であることは間違いない。
そして――姿が消えた。
ドン。
セダンのトランクが大きく揺れた。
手を離しかけた八重山に、落ち着いた声が飛ぶ。
「萌、俺がいる。お前は安心してまっすぐ走れ。このパターンは先日もあった」
千丈はそれだけ言い残して窓からひらりと飛び出し天井に乗った。
「追いついたところ悪いが、それは餌じゃないんでね」
目の前にはトランクに手をかけようとした異形がいる。
興味はここにしかないと言わんばかりの逆さの顔が、ぎょろりと千丈を見た。光彩の無い薄い色の瞳だ。
と、あごの部分が割けた。
飛び出たのは黒い礫だ。
千丈は目にも止まらぬ速さでそのすべてを叩き落とすと、腹部に向けて左の拳を振るった。
だが、《境界渡り》は全身をのけぞらせて間一髪かわす。
そこに、すでに空に跳ねた千丈の両脚が落ちた。
「落ちろ」
《境界渡り》の頭部が道路に押しつけられ、コンクリートで削られる。
千丈は途中で空に舞い上がり、ようやく止まった異形に拳を落とす。
「bagau」
「何言ってるかわかんないねー。って、固いな。あれで呑みこまれないか」
視点の定まらない瞳が揺れる。
《境界渡り》の頭部が『180度回転』した。
その瞬間、千丈の視界が逆転した。
「これは……」
千丈がとんっと後方に跳ねた。そして、微妙に足をねじった。
左足で着地したはずだが、地についた感触は右足に伝わっている。
右手で顔に触れた。
違和感があった。
なぜか左手に感触がある。だが、腕時計をつけた腕――右腕は間違いない。
「触ってないのに、逆の手足に感触が伝わるのか。ついでに視界が上下左右反転と」
さらに心臓に手を当てた。
「中は変わってなさそうだな。ということは――」
千丈が顔を上げた。
視界は反転しているため、《境界渡り》の顔が下に移動する。
「ふぅ……《醒零》(ざれい)」
千丈がつぶやいた。
すると、右腕の肘から先が黒く変色した。どこからともなく現れた靄が、その腕に巻きつき、見る間に金属製の籠手のようなものが形成された。
「何、笑ってやがる」
千丈と《境界渡り》は互いに微笑を浮かべていた。
そして、その一秒後に、《境界渡り》の体が穴だらけになっていた。
光彩の無い瞳が見開かれた。
「お前の能力、珍しいけど大したことないな」
千丈は散歩するような気軽さで異形に近づくと、両手を伸ばした。
境界渡りの背後には黒い渦が現れている。
「相手を船酔いさせたいなら十分だが、その程度じゃ俺には勝てないよ。よいっしょ」
伸ばした両手は無傷の頭部を掴み、上下を反転させた。
異形の甲高い悲鳴が聞こえ、千丈の視界や感触が元に戻る。
「《境界現象》は、元から絶つ。鉄則だな」
千丈が左手を引き、間髪容れずに頭部を打ち抜いた。
ぐしゃりという破砕音と共に、一段と大きくなった渦が《境界渡り》を闇に呑み込んだ。
「大物は終わったな。車に追いついてくるとか勘弁してくれ」
千丈が「やれやれ」とつぶやいて、移動を開始する。
短距離なら車に追いつくのは容易いことだ。
先に行けと指示したが、八重山なら千丈を途中で待っている可能性もある。
あとは、トランクの積み荷の状況次第で――
「いや、待てよ。どんだけ呼び寄せるんだ」
二、三分走った千丈は息を呑んだ。
まただ。
異形、異形、異形の群れ。
この周辺で最長のトンネルの入り口で、シルバーのセダンが停止していた。
ブレーキランプがついたり消えたりを細かく繰り返している。
車内の八重山が小刻みに震えていた。
車は、百鬼夜行の中心に放り込まれたような状態だった。
進むのも引くのも不可能な状態では、取り得る手が一つしかなかった。
「やるか」
千丈の顔つきが険しいものへと変わった。
守る物はトランクと八重山の二つ。
千丈の力は攻めに特化している。決して相性は良くないが、今はどうしようもない。
とにかく蹴散らし、《境界渡り》が恐れてくれれば――
そう考えていた千丈の視線の先で、トランクが跳ねあがった。
飛び出したのは、《黒曜》にプログラムされた死を超越した者だった。
理不尽な世界での苦行を終え、生まれ変わった葛切光矢が顕現した。
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