第4話 この先に

「幸い、障壁は使えんようだな」


 千丈は廊下の壁にめり込んだ化け物を観察する。

 人間の形に近い形態だが、徐々に手足の先が岩のようなものに浸食されていく。

 とうとう左手首の腕時計も覆われた。

 セダンで連れてきた青年は、それだけは片時も手放そうとしなかった。

 八重山の話では、優しかった祖母に入学祝いで買ってもらったらしい。


「――ァァァァァッツツツ!」


 化け物が壁から這い出ようとあがいた。

 目の前の邪魔者を叩き潰して食いつくしてやろうとするように、もがいて暴れて吠えた。

 左腕が壁を破壊して前に出る。

 右腕が構造物を握りつぶして辺りに礫を散らす。

 両足が勇んで前に出ようとした。

 しかし、頭部だけがぴくりとも動かなかった。

 頭部は横顔を壁に張りつけたままで呻いていた。

 壁に黒い渦が蠢き、化け物の頭を引きとどめていた。

 接着されているようにも見える。

 両手足がさらにもがいた。

 だが、頭部はゆっくりと壁にめり込んでいく。


「思い出と命を失っても、まだ苦しいか」


 憐れむように言うと、千丈がとんっとステップを踏んで前に出た。

 狙ったのは化け物の腹部。人間ならみぞおちだ。


「っしょ!」


 引き絞られた左拳が、素早く左下から上に向けて振り抜かれた。

 建物ごと揺れたのかと錯覚するような振動が起こる。

 化け物が頭を固定したまま体を震わせる。すぐに胴体の後ろに黒い渦が現れた。


「『良い人生を』」


 化け物の目と鼻の先で、千丈は両手を合わせた。

 それが彼の葬送官としての見送り方だった。

 頭部の渦と胴体の渦が合わさり、一段と大きくなった。

 異形の体が、呑みこまれるように消えていく。

 そして、その場には何も残らなかった。

 千丈は、ほっと一息吐いてから、視線を素早く左に向けた。その方向にはC棟の入り口がある。


「うーん……。萌、飲ませたか?」


 千丈は眉を寄せながら、室内に戻った。

 光矢の手を握っていた八重山が顔を上げる。


「とっくに終わってますよ。心音と呼吸音も停止しました」

「了解」

「つらかったでしょうね。まだ17ですもん。これで良い結果になってくれたらいいんですけど」

「萌の能力の中で逝けたんだ。幸せな方だろ」

「そうでしょうか? 確かに私の能力は恐怖を和らげると思いますけど、結果はそんなこと関係なくて、ただ死に向かって背中を押しただけです。もしかしたら、看取るのが私じゃなければ、寸前に思い直して、『やっぱり生きるぞ』って選択もできたかもしれません」

「そんな気づきができるやつは、残念ながら早卒センターのフェイクから先に進まないさ」

「例外はあるでしょう?」

「それはあるだろうな。ギリギリで気づいてUターンが無いとは言わない。でも、こいつは自分の意思で、自転車をたっぷり走らせてここに到着したうえ、船戸さんの審判でも止まらなかった。考える機会は何度もあったはずだ。だから、A棟で死ぬか、ここで死ぬかの違いだけだ」

「そうですね……」

「どうした、萌?」

「何がですか?」

「そんなことで迷うのは珍しいな」


 千丈の言葉に、萌がゆっくり立ち上がって困った顔をした。

 短いポニーテールがふわりと揺れた。


「別に迷ってないですよ。ただ、死相が、今までの誰よりも幸せそうなので、これが彼の人生で一番の幸せだったのかなって思ったんです。そうだと嫌だなって」

「確かに……な」

「病気でつらいとか、何かに追い詰められて絶望してるとか、死にたい理由は人それぞれですけど、やっと不自由な世界から放たれる彼は……私たちに感謝してくれるでしょうか?」

「それを決めるのは、こいつ自身だ。と言いたいところだが、そうならないよう努力はする」

「この子は幸せになってほしいですね。がんばってください。リーダー」

「お前もがんばるんだよ。頼りないリーダーの為にな。うちは万年人材不足だ」



 ***



 千丈が右手の腕時計を確認し、じれたようにこめかみを押さえた。

 静けさが室内を支配していた。


「千丈さん、この子……」

「わかってる」


 八重山が沈痛な面持ちで視線を下げた。その先には、死体となった光矢がいる。


「《疑似黒曜》投与後、90分の経過……あり得ない。あいつ、この子に何をしたんだ」

「どうしますか? ホームに移動させますか?」

「まだ確定判断ができない。できればここで結末を見たいが……この状態では――」


 千丈は言葉を切った。

 胸ポケットのスマートフォンが鳴ったからだ。

 画面に表示された相手は見知った人物だった。


「千丈さん」


 通話した瞬間に聞こえた第一声は、冷たい呼びかけだった。

 感情をどこかに忘れたかのような、硬質な響き。

 千丈がスマートフォンを聞き手で握りなおした。


「ここは鎮魂の場であり、時に死を超越した者たちのやすらぎの庭です」


 沈黙を挟んで聞こえた言葉は、千丈の緊張感を最大に引き上げた。


「わかって――」

「千丈さんは、そのことを十二分に理解していらっしゃると、私は思っています」


 言葉にかぶせるように、相手が流ちょうに言った。


「まさかと思いますが――死を弄んではいませんよね?」


 まるで首筋に刃物を当てられた気分だった。

 通話機越しに感じるレベルの殺気ではなかった。

 返答次第では、差し迫った状況がさらに悪化する。

 千丈は慎重に言葉を選んだ。


「ありえない。俺が、いや、俺たちがどういう人種かは知ってるでしょう。船戸さん、あなただけが死者を悼むわけじゃない――俺たちを、信じてくれ」


 千丈は力を込めて言った。

 八重山も千丈も船戸が言うような過ちを犯したわけではないのだ。

 何も恥じることはない。


「……承知しました」


 長い時間を経て聞こえた言葉は『理解の一言』だった。

 千丈は肩の力を抜いた。最悪の事態は去った。

 八重山が安堵の表情でぺたりと膝をついた。

 通話している相手がわかっていたのだろう。


「千丈さん、現時点の施設が置かれている状況はご存知ですか?」

「だいたいは」

「時刻は18時前。閉館時刻を過ぎていますので急いで退館を。それと――あなたの車の出発は保証しましょう」

「すまない」

「礼には及びません。あなたが当施設の理念を汚さないのであれば十分です。――彼はどうですか?」

「眠っています」

「眠っている? そうですか……彼には道を間違えてほしくないですね」


 電話が切れた。

 千丈は深々と息を吐いて「久しぶりに緊張したぞ」とぎこちない笑みを浮かべた。

 八重山も合わせて笑顔を作ったが、口端が引きつっていた。


「連れて出るぞ」

「ええっ! この状況で出るんですか!?」

「それしかなくなった。船戸さんからの最後通告だぞ。外の化け物より深窓の令嬢の方が怖いってことだ。いくぞ。葛切は俺がかつぐ」

「待ってください! 私が背負いますって!」

「背負えるか? その身長で? こいつ、結構でかいぞ」

「でも、背負わなかったら、私が戦うことになるんでしょ? 無理です、無理です! がんばって千丈さんの両手を空けるので、それ以外をお願いします」

「そう? じゃあ、それで行くか。とりあえず車までダッシュな」

「台湾カステラもおごりで」

「船戸さんにつけとけ。それと――大事なことを先に伝えておく」

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