渋谷巴紋所

神田朔

第1話

 御堂アザミはまっすぐ歩道橋を登っていた。あわせて四枚にもなる督促状をバッグに詰め込んで、乗換のために渋谷で降りたばかりだった。もう三時近い。

 ほとんどうちに帰っていなくて、これだけの督促状が溜まるまで放置してしまった。こっぴどく厳重注意を受けて、それから職場についての問い合わせがあるかもしれない。手に職があるのか、きっと尋ねられてしまう。もちろん、保育園の先生としての仕事もあるし、お給料もそれなりに手取りしている。

 今日こそ早退けするはずだったのに、佐藤アヤカちゃんのお爺さんが、迎えの時間を送らせてくれと頼んできた。何度もご老体に電話越しで頭を下げられたら、あまり強く言えない。結局、しばらく経ってから、アヤカちゃんの相手を同僚に代わってもらった。

 だめだ、まぶたが。化粧の上から眠気が重くのしかかってくる。

 駅構内を移動するより外を回った方が早い。馬鹿みたいに髪を染めた男女たちの間を縫って、走り抜ける。まっすぐにそびえたビルに、電光掲示板がべったり張り付いている。

 別に税務署は午後いっぱい開いているから、かまわない。問題は、私の家に誰もいない時間がわからないことだ。少なくとも、一時から三時までは、彼が出かけていていないはずだったので、なんとか三時までに家に帰って、必要な書類を持ち出してきた。あと少しでも遅れていたら、どうなっていたかわからない。

 ひとかたまりのバンドマンと、国籍不明の親子を押し除けて、飛び跳ねるみたいに横断歩道に降りた。どこかで聞いたナレーションとCMが頭の上から降り注いでいる。後ろから急いで走ってくる足音がいくつも聞こえる。

 目の前の横断歩道の信号が、一体どれなのかもわかりづらい。パチンコ屋の前で、青い点滅を見つけて、私は走り出した。

 間に合う。間に合うはずだ。

 その途端、思わず視界が真っ青になるくらい大きな着信音が鳴って、頭が動く前に、脊髄反射でバッグの中からケータイを取り出していた。震える手で耳に押し付ける。

「もしもし、佐藤アヤカの祖父ですがね。アヤカちゃん、どうしてます?」

 ちょうどその瞬間、肩に手が置かれて、私は思わず腰を抜かしてしまった。衝撃がまぜこぜになって何も理解していなかった。

 どうしよう、なんて言えばいいの。ああ誰? 私は悪くない。時間がないの。もう時間がないのに、どうして。

 雑音ばかり漏れてくるケータイを取り落として、御堂アザミはそのまま横断歩道の真ん中で膝をついた。


                  *


 菱戸田タケシは、時間の流れの遅さを呪っていた。

 俺はマンションの一室でじっとタバコの煙を人の顔に見立てていた。いつまでもここに居座れるものか分からなかったが、もう一週間もひとりきりだ。使えるだけ使ってやろう。その権利が俺にはあるし、その権利を相手からくれたのだ。

時計を眺めて、俺はゆっくりと立ち上がった。面白い仕事ではないが、必要最低限のノルマというものはある。

電車を乗り継いで、渋谷の百貨店のおもちゃ売り場のレジに立った。ただレジにいる分には、悪くない仕事だ。動かずに同じ手順を繰り返せばいいだけだし、売れ行きのテイストもわかる。興味が薄い割に、時間潰しにはなるのだ。しかし二時を回る頃には、店内放送が流れて、重労働である品出しに仕事が変わった。今更どうとも思わないが。

ぼんやり大箱を積み上げていると、猫背で手を前で組んだ、当惑顔の老人が現れた。

「どうなさいましたか」俺はそっと笑って、老人のそばへと斜めに近づいた。

「空気でね、空気で動くあさぎ色のクマがいるでしょう。刀を持ってるんだ」

 あさぎ色がなんだかはわからなかったが、そのおもちゃなら一つしかない。アニメ発の、テディベア剣士のおもちゃだ。売り切れ御免になることが多い人気ラインだったが、ちょうど在庫卸しが昨日だった。

「お嬢様へのプレゼントですか」片目に切り傷の入った美男子のクマを、丁寧にラッピングする。

「ええ、何店舗か回ったんです。それでようやく」老人は趣味のいいハンカチで顔を拭いた。

「この暑い中ご苦労様でした。この商品なかなか人気ですから」

 いたいけな老人を送り出して、俺はタバコを片手に百貨店を出た。ついこの間まで最後の喫煙所が残っていたが、ついになくなった。ただ、この日射の下で熱いタバコを焚いても、あまり良い心持ちはしない。

 ぼうっと駐車場のそばを歩きながら渋谷の雑踏を眺めていると、それは目の前をさっと通り過ぎた。

 はじめは信じられなかった。それでも、俺はまだ冷静だった。

 あの女が、目の前の歩道橋を通って、駆けていったのだ。何度もそばで見た、確かな上背と背中。伸びたふくらはぎと、ちぢれた茶髪。唯一違うのは、俺が買い与えたものじゃない赤いバッグ。

 俺はタバコを足でもみ消すと、百貨店統一のエプロンをはぎ取って折り畳んだ。目線だけは歩道橋の上にじっと止めておいて、はやる足をなんとか抑える。それからなるべく人にぶつからないように、一歩を踏み出した。

 彼女にバレてはいけない。もしもあの女が必要以上のことをするのであれば、なんとかしてその行末を見届ける必要がある。

 彼女はバッグの中をいじりながら、ひたすらに走り続けている。どうしても追いつけない。決して足が速いわけではないけれど、こちらが気づかれないように自然に追いかけるのは難しい。

 まずい、見失ってしまいそうだ。彼女はケータイを取り出している。

 どうして、渋谷に。まさか俺のところに来たのか? それとも、俺がいないうちに俺たちの家に?

 今までのことを思って、思わず頭に血がのぼると同時に、顔からは血の気がさあっと引いていく。

 一体何をするつもりだ。わかってるんだ、お前が何か企んで、人に相談してることだって、全部知ってる。

 この後に及んで、俺をハメようとしてるんだ。わかる、わかるぞ。

 菱戸田タケシは、横断歩道を猛スピードで渡ろうとする彼女に向かって、ダッシュをしてその肩を掴んだ。

 その瞬間、彼女はケータイを取り落とし、その場にへたり込んでしまった。あまりに突然のことに、道連れにされた彼もその場に倒れてしまった。


                  *


 佐藤アケノはデスクのそばの無糖コーヒーを啜った。

「それじゃ上がりますね、佐藤さん」

 女性保護センターは、あまり目立たない雑居ビルの中にある。看板などがない方が、一介の主婦なんかでも相談に来やすいのだ。

 新人の松田さんは、きちんと一時に仕事を上がっていった。もちろん休日出勤なのでそれは構わないが、その分の仕事は当然先輩である私に回ってくる。

今日のお迎えには、とてもじゃないが間に合わない。休日は遅くまで預かってくれないのだ。

 仕方がないので、父さんに電話をする。

「父さん? アヤカのお迎えに行ってほしいの」

「でも、俺はアヤカちゃんの誕生日プレゼントを買わんといけん。お前がケーキを買ってくるんだろ?」

そうだ、確かにそういう約束だった。暑さですっかり忘れてた。

「仕方ないお父さん、アヤカに少し待ってもらってて、プレゼントを買ってからお迎えに行って」

 娘のいうことは昔から聞いてくれた父だ。今度も快諾してくれた。

 受話器を置いて、私はゆっくりとキャスター付きの椅子を回した。外ではうるさすぎて気づかないほどのアブラゼミが鳴っている。

 あとは書類整理だけだ。私も早く仕事を終わらせて帰ってやらなきゃ。アヤカの誕生日くらい、親らしいことをしたい。

ファイルナンバー3454がこの地区では最新のファイルだ。まずはここから。


「ファイルナンバー3454 担当者:松田カオル 相談者:御堂アザミ 」

 御堂さんは昨年9月より、同棲相手からDV被害にあっている。

 マンションの契約や家賃の支払いは主に御堂さんが行っており、世間体から言って

 も簡単に解約や引っ越しは難しい。

 パートナーの菱戸田は出ていくよう言っても応じず、報復に出ることも多い。

 菱戸田は世間体ばかりは良いために、DVの話に関して、御堂さんの親すらあまり  

 真剣に捉えてくれないそう。

 現在御堂さんはマンションの家賃の支払いなどを続け、友人宅から職場に出勤中。

 書類やものを取りに帰るなど、必要があるときには隙を見て帰宅しているそう。

 未婚ということもあり、警察はまだ動いていない。以上。


 私はふと、その名前に違和感を感じた。

 御堂アザミ……まさかね。

 私は一気に缶コーヒーを飲み干した。

 自分で言うのもなんだけど、うちの夫婦仲は円満だ。アヤカだっていつのまにか四歳。これから、悪い虫を見分けられるような真っ当な大人に育てなくちゃ。


                  *


 石狩ノブヒコは急いでいた。

 孫の誕生日となれば、こういう時こそ俺のような爺さんの出番だ。

 車の運転は久しくしていなかったが、こんな暑い日に徒歩でオモチャ屋を何軒もまわる体力は、とうにない。

 アヤカちゃんはとても可愛い子だったし、義息子の佐藤君もなかなか良くできた男だった。

 それにしても今の女の子は、ただ可愛いおもちゃじゃなくて、こういうかっこいいキャラクターが好きなんだな。

 渋谷の雑踏を走りながら、ようやく買えたプレゼントを後部座席に置いて、はたと思い当たった。

 そういえば、勤務時間外だろうに、あの御堂さんという保育士さんには悪いことをした。もうプレゼントは買えたから、すぐに迎えにいくと説明しなければ。

 保育園にかけて、御堂さんとお話がしたいと言うと、ケータイに転送してくれた。今保育園にはいないのか。

ハンドルを握りながら、繋がるまでじっと待った。

「もしもし、佐藤アヤカの祖父ですがね。アヤカちゃん、どうしてます?」

 今、ちょうど渋谷まで来ました。あと十五分ほどです。

 そう言おうとした瞬間、電話の向こうでドサリと何かがくずおれる音がした。

「もしもし、大丈夫ですか?!」

 あまりに電話に集中しすぎていたので、前を見ることをすっかり失念していたのだ。もう止まれない。

 横断歩道に差し掛かった時には、道の真ん中に倒れた男女の、恐れおののいた顔だけが見えた。

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渋谷巴紋所 神田朔 @kandasaku

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