第9話

遠くの空に稲光が走った。


もうすぐ夜明けだというのに、木々は陰湿な魔物のように僕を取り囲んでいる。スマホを握りしめ車から降りた僕は、校舎の入口に向かった。




鎖と南京錠が足元に落ちている。向こう側に空の靴箱が並んだガラスの扉は、じっとしていると背後に何か映りそうな気がしてくる。濡れた顔を軽く拭って扉を引くと、途端に埃とカビの臭いが鼻腔に滑り込んできた。




キィと扉が閉まって雨音が遠ざかった。ポケットからスマホを取り出して、胸の前に片手で構えた。


ポンッと撮影開始の音が鳴る。校舎の一番端で跳ね返り、また戻ってくるような音の感覚。目の前の廊下に窓からの暗い光が落ちている。スマホの照明を点灯させて、怪しい空気をかき分けるように足を踏み出した。






入口から右側に向かい、突き当りの部屋に照明を当てる。引き戸の小窓がぎらりと光った。中はフレームだけのベッドが2つと、天井から垂れ下がるのは白っぽいカーテン。保健室のようだ。扉には南京錠が掛かっていて入ることができない。




――僕に何をさせたいんだ。


横を向くとまた闇、右手に階段が見える。この先には教室が並んでいるのだろう。息苦しいのを堪えて、僕は喉を震わせた。




「栄田!千川!」




雨の音が聞こえた。ライトの前を細かな埃が舞う。床の上に一人分の足跡が、階段に向かって続いている。壁に背を当てながらそれを追った。






2階、3階。上に行くほど空気が生ぬるくなってくる。


部屋を一つ一つ見ていく気はなかった。校舎の中にはいない気がしていた。ロープを潜り抜けてさらに階段を昇る。カビの臭いに合わせて、かすかに甘い匂いがする。




屋上への扉の前で立ち止まった。スマホの撮影停止ボタンを押して、さっきのメールアドレス宛に動画ファイルを送信する。完了を確認して、スマホをポケットに仕舞った。




ドアノブに手をかける。歯を食いしばって、ゆっくりと回した。




雨粒が斜線を描いている。少し風が出てきたようだ。




暗闇から解放されたことでわずかにほっとした気持ちを感じながら、屋上へと歩み出る。周囲に人影がなく、誰かが隠れられるような場所もない。眼下に広がるグラウンドを見渡していると、スマホの振動に気が付いた。


画面に表示されているのは藤原さんの番号。




「もしもし?」


「あ……」




小さな声。子供だ。




「セイヤ君か?」


「はい。あの、警察の人は?」


「今は一人。学校まで来たんだ。どうし――」


「女の人です!」




僕の言葉を遮るように、セイヤ君が叫んだ。




「女の人が、俺らを学校に連れてって、『かくれんぼしよう』って!それでその人、トオルだけ置いて家に帰れって!警察にも言うなって言われたし……」


「それじゃあ、やっぱりトオル君は――」




背後で扉の閉まる音がした。






近所の公園。トイレの後ろで男の子が泣いている。




「俺がひどいことされてるのに、2人とも先に帰っちゃうんだもんな」


「とっても恥ずかしかった。助けてほしかったのに」




僕はその子の背中を見ていた。




「これで、鬼は終わり?」


「一応、そのつもりだけど。分かんないな」


「アユちゃんみたいに痛がったり、しないかな」


「吊るすのは痛くないんじゃないかな」




雨が降ってきた。顔が濡れている。




「ねえ、アンちゃん」






雷が照らした。


濡れた髪の隙間からうつろな目が僕を覗き込んでいる。




「千、川っ!」


「安藤君、大丈夫?」




僕はコンクリートの上に倒れていた。頭の後ろがずきずきと痛む。手が後ろで縛られている。足の自由も利かない。太ももの辺りから下全部が何かでぐるぐる巻きになっているみたいだ。首にはロープ。


どこかの壁際かと思ったが、あちこちに顔を向けて分かった。屋上の端の方だ。




「僕を……殺す気かっ!」




僕が喚くと、千川は手に持ったスマホに耳を傾けた。




「やだなあ、当たり前じゃないですか」




間延びしたような話し方。僕は聞いたことがある。




「本当はトオル君のことでもっと苦しんで、自殺とかしないかなって思ってたんですけどねえ」


「お前……、栄田なのか?」


「直接会うのは初めまして、ですね。ああ、8月分の振り込みは終わってますから安心してくださいね。約束はちゃんと守りますよ。もうすぐお別れですけど」


「なんで、真壁トオルを殺した」




千川の口元がニィと広がる。




「恥ずかしい写真を撮るとおカネになるでしょ?子供の頃に俺がやられたことと一緒ですよ」


「子供の頃?」


「遊んでたんですよ。アンちゃんと俺、それからアユちゃんで。安藤さんは俺のこと『タケちゃん』って呼んでくれてましたね」




当時、近所に住んでいたのは男の子と女の子、一人ずつだったはず。




「タケト……か?」


「ああ、違う違う。タケトじゃなくて、松竹梅の竹に、唐辛子の唐でタケトウ。竹唐みゆき。苗字ですよ。もう使ってない名前ですけど」




千川の耳からスマホが離れた。




「あんまり、昔のことは思い出したくないの。ひどいことされたから」




タケちゃんは内気なところがあって、いつの間にか会わなくなっていた。




「安藤君も、一緒にしてあげるからね」


「いずれ捕まるぞ!」




また耳に近づける。




「深層ウェブって知ってます?通常の検索エンジンに引っ掛からないようなページを言うんですけど、そういうところにもサイトを持ってるんです。言ったでしょ?オカルトサイト持ってるって。良い商売になるんですよ」


「また、誰か殺すのか」


「需要はバカみたいにありますからねえ。あ……」




そう言って千川は遠くに目を向けた。視界の端に赤い光が見える。


僕の足が持ち上がった。




「安藤君のスマホ、GPSで追ってきたのかな」


「やめろ!やめろっ!」




落下防止用の柵はない。屋上の端にはほんのわずかな段差があるだけで、どんなに暴れてもいずれ落とされるのは目に見えている。




「バタバタしないでっ。早くしないと写真が撮れないよ」




縛られた両足の先が宙に投げ出された。首に巻かれたロープは屋上のどこかに括り付けられているのだろう。




首吊り。いつか栄田のサイトで見た。


僕の番だ。


千川が僕の頭の方に回り込み、両手で僕の肩を押す。ロープの冷たい質感。


段差にお尻が当たった。


僕の番。




僕の番。




滅茶苦茶に、声にならない叫び。






突然、扉が開く大きな音がした。




「な、何してる!」




怒鳴り声に合わせて千川が後ろを振り返る。




「あ、安藤君か!?」




千川はバッと僕から離れると、「ううぅ」と恨めしそうに唸った。




「こら待て!」




千川の足音が遠ざかる。もう一つの足音も追いかけていくが、やがて一つだけが戻ってきた。




「藤原さん!」




サイレンが鳴り始めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る