第7話

雨が降っていた。


叫んだのか呟いたのかすら覚えていない。


僕のアパートはいつの間にかたくさんのパトカーと野次馬に囲まれていた。




「安藤さんの恋人の、千川みゆきさんで間違いないんですね?」




僕に毛布を掛けてくれた男性の警察官が尋ねてきた。パトカーの後部座席で隣に座る彼に対し、僕は目だけで返事をする。


僕の身体は背骨を誰かに揺さぶられているように震え、それが止まらなくなっていた。暑さも寒さも感じない。赤色灯と周りの民家の灯り、車内を照らすルームライト。明るいのか暗いのかも分からない。僕自身の目がしっかりと開いていなかったのかもしれない。唯一、パトカーの中を満たす新車のような臭いだけをはっきりと感じていた。




「やあ、安藤さん。刑事課の杉崎です。覚えてますか?2、3回会ってるんだけど」




助手席から振り向いたのはネクタイで坊主頭の男だった。さっきまで制服姿の警官だった気もするが、いつの間に交代したのだろう。見開いた目と彫りの深い顔立ちは仁王像のような印象で、真壁トオル事件の後に何度か会っていた。


少しだけ口を開こうとして、上下の歯がぶつかりカチカチと音が鳴る。




「あ、あー。世間話はいかんな。辛いでしょうが、単刀直入にとりあえずお話を聞かせてください」




そう言って杉崎刑事はどこからか書類を挟んだバインダーとペンを取り出した。その紙をルームライトにかざすようにして、1、2枚ずつめくり上げていく。手を止めると、またぎょろりとした目をこちらに向けてきた。




「そうだ、安藤さん。あの遺体が恋人さん、千川ミユキさんだと思った理由ってのは?」




千川の名前を聞いただけで身体が強張ってしまう。




「く、黒い、シャツと、香水の匂い。今夜は、僕の部屋にいるはずだったから」


「じゃあ、顔は見てないんですね?」




僕が言い終えるかどうかというくらいで、杉崎刑事は言った。僕が小さくうなずくと、彼は眉間にしわを寄せた。




「いやね、実は、ご遺体の頭部がないんですよ。まあ、自宅の中は見させてもらってますけどね」




身体の震えが止まった。それと同時に、遺体を見つけた時のことを思い出していた。


洗濯槽から飛び出した足は確かに女性のものだった。だけど白かった。




「違う」


「なんです?」


「やっぱり違います!千川の足はサンダルの、日焼けの跡がありました!」




立ち上がりそうになり、隣の警察官に腕を引っ張られた。




「まあ、ご遺体も損傷がありますんで、一人分かというのは調べないと分かりませんがね。千川さんの連絡先には?」


「まだ、かけてないです」




はっとしてポケットからスマホを取り出す。通話履歴を探した。




「えっと……あれ……」


「どうしたんですか?」




隣の警察官が覗き込んできた。最後に彼女と電話で話したのはいつだったか。どれだけ遡っても見当たらない。




「もしかして、番号を登録してないんですか?」


「ええと……、はい……」




今度は杉崎刑事が身を乗り出してきた。




「千川さんとは恋人関係、なんですよね?」


「最近は、そうだったんですが……。少し前までは僕のアパートに勝手に押しかけてきたりして。その、正直、気味悪く思ってる部分もあったから……」


「あまり仲が良いわけじゃあなかったと?」




僕が無言なのを見て、杉崎刑事はスマホを取り出した。一瞬だけ画面を表示して、またポケットに戻す。






それから、昨晩千川が泊まっていったことや話した内容、僕が家を出た時間、バイトが終わった時間、帰り着いた時間、普段の生活スタイルまで事細かに説明した。口元のけがのことから藤原さんとのことを伝えると、杉崎刑事の雰囲気が明らかに変わった。メモリーカードを破壊してしまったのがいけなかったのかもしれない。


明日も警察署で話を聞きたいということで、明日正午の電話の約束はキャンセルするよう言われた。今のうちに断りの電話を入れることは許可されたものの――。




「すみませんね。真壁トオル事件も解決してないですし、関係者のご家族とのお話は僕も聞きたいんですよ」


「構いませんけど、藤原さんが了承するかは分かりませんよ」


「それはもちろん」




杉崎刑事からはスピーカーフォンでの会話を頼まれた。


真壁トオル事件も今回の件も、僕は間違いなく疑いを持たれている。それは僕も理解していた。警察からの事情聴取は入れ替わり立ち替わり、5回も6回も受けている。




藤原さんから教わった番号を表示させ、杉崎刑事の顔をちらりと見てから発信ボタンを押した。




「もしもし、安藤君か?」




藤原さんの明るい声。遺体画像を拡散してしまったということを許したわけではないだろうが、少なくとも僕への接し方については切り替えたということだろう。


運転席と、僕の隣に座った警察官、それから杉崎刑事が聞き耳を立てている。




「藤原さん、いきなりすみません。もう家に着いたんですか?」


「夜中は車も少ないからね。今から風呂でも入ろうかと思ってたところだよ。それで、何の電話?」


「あ、ええと、その前に」




警察がこの場に同席していて、僕たちの会話を聞きたいと言っていること。それを藤原さんに説明した。




「事情聴取ってやつ?聞くのは構わないけど、えらく夜中にやるんだな」


「あ、はい。えっと、僕からこの時間を指定したんです。仕事終わりなんで」


「なるほど。警察の人も大変だ」




杉崎刑事は何かメモを取っている。僕は「それじゃあ」と言って、スピーカーモードに切り替えた。




「あ、ええと。明日の電話なんですけど、その……」




杉崎刑事が僕の顔を見た。首を横に振っている。




「急用を思い出したんで、お昼に電話ができそうにないんです」


「ああ、それなら別に、安藤君の都合の良い時で構わんよ。息子が話をしてくれるかは分からんのだけど」




僕が「すみません」と言ったところで小さくドタドタと音が立ち、それからしばらく雑音が響いたかと思うと、「安藤君?」と藤原さんの声がした。




「息子の生活リズムも滅茶苦茶みたいでね、起きてたみたいなんだ。今で良ければ少しだけ話せるけど」




運転席の警察官がもう一つバインダーを取り出した。隣の警察官も一つ身じろいで、杉崎刑事はICレコーダーを取り出し僕に視線を送った。僕は小さくうなずく。




「警察の人が会話を録音したいと言ってるんです。息子さんに伝えてください」




また雑音。藤原さんとセイヤ君が話している。


返答は意外なものだった。




「ごめん。だめだ」

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