第5話
一瞬、何をされたのか分からなかった。千川は右手を振りかぶり、ソレを僕に向かってぶつけてきたのだ。
目を開けると、ソレは肩の辺りからサラサラと流れ落ちている。口と、鼻にも少し入った。塩だ。
「何する――」
言い切る間もなく、二投目が全身に降りかかる。
「わっ……!やめろ、やめろって!」
全身にぴしぴしとした痛みを感じつつも何とか千川に歩み寄り、僕は彼女の両腕を抑えた。
「やめろ!」
「だって!安藤君が死んじゃうから!」
彼女の頬は涙で濡れていた。目を真っ赤に腫らし、周りのメイクまで滲んでいた。
千川の身体からふっと力が抜けたかと思うと、彼女の顔は僕の胸に押し当てられていた。それから彼女はワッと泣き出した。
千川が泣き止むのを待って、僕は彼女を部屋に招き入れた。
「お邪魔、します」
玄関にサンダルを並べた千川は、フローリングの床に恐る恐る足を置いた。
「そんなにかしこまらなくても良いよ」
「あんまり、その、入れてもらったこと、なかったから……」
部屋の電灯を点けると、千川の足先が真っ赤になっているのに気が付いた。元々肌が弱いので日焼け止めは全身に塗るようにしているらしいが、そこだけ塗り忘れてしまったのだろう。
「足、ヒリヒリしないか?」
「あっ、大丈夫、だよ。それより安藤君が、心配……」
僕はデスクの上に鞄を下ろした後、冷蔵庫の扉を開けた。
「ああ、ごめんな。飲み物も用意してないんだ。買ってこようか?」
「ご飯とか、食べてる?」
千川は不安げな顔をしていた。僕はいつの間にか下ばかり見ていたようだった。
冷蔵庫が低い唸り声を上げている。
「臭いが、僕にまとわりつくんだ。この部屋だって臭いだろう?それだけじゃない。食べる物……、飲む物だって変な臭いがするんだっ」
僕が吐き捨てるようにそう言うと、千川は提げていたビニル袋の口を縛り、テーブルの上に置いた。
「安藤君。それは幻嗅って呼ばれてるよ」
千川が目の前にやって来る。彼女の手が僕の胸元を撫でた。
「幻覚の一種。いつも怖い写真ばっかり撮ってるから、それで心理的なストレスを感じてるんじゃないかな」
「だって、自分の身体からも腐った臭いがするんだぜ。ほら、今だって――」
僕は千川に腕を差し出した。すると彼女は腕をすり抜け、僕の胸にぴったりと顔を押し付けてきた。
「だから気のせいだって。大丈夫。安藤君、ぜんぜん臭くないよ」
千川がそんなことを言うなんて驚いた。てっきり呪いだとかオカルトめいたことを言われるんじゃないかと思っていた。
「今度、お祓いを受けようって思ってたんだ。栄田の紹介で。呪いなんか信じちゃいないんだけど」
「お祓いも幽霊も、信仰っていう点では心理学だよ。信じることから発生して、信じなければ消えちゃうの。それが呪いの正体、だよ」
千川はゆっくりと顔を離すと、僕の目を見据えた。彼女の目を正面から見たのは初めてかもしれない。
「だから、呪いはあるとも言えるし、ないとも言えるんだよ」
昔、歴史の授業で見せられた黒曜石が好きだった。つるつるした表面は光沢があって、どこまでも真っ黒な鉱石。金属じゃないのに武器になったり、装飾品にもなったりする。強さと美しさがあった。そんな瞳を僕はどこかで見た気がした。
千川に部屋を掃除してもらい、風を通すと臭いはほとんど消えた。彼女にはそのまま泊まってもらい、連泊を頼んだ。千川の存在が頼もしく感じた。
バイト先の駐車場でエンジンを止めた。
ショルダーバッグを掴んで扉を開けると、隣の車からも誰か降りてくるところだった。
「おお、久しぶり」
口を開くと、骨に皮が張り付いただけのような彼の頬がさらにへこんだ。軽く上げた右腕も心なしか細くなったように思う。
バイトとして雇われた僕に初めに声を掛けてくれたのが彼だった。僕が休憩中に一人でいると、いつも挨拶代わりに肩を叩いてくるのだ。仕事中も休憩中も、歌でも口ずさんでいるかのように飄々として、とても陽気な人だった。
「今日からですか?」と尋ねると、藤原さんは上げた手でそのまま手刀を切って、くしゃっと笑顔を作った。何も訊いてくれるな、ということだろう。僕が続けて何か言う前に、彼はそのままさっさと工場に向かって歩いて行ってしまった。
親しいといっても、僕以上に藤原さんと付き合いの長いメンバーはごろごろいる。芹川さんもその内の一人だったが、休憩中に彼女から仕入れることができたのは、最近近くの県で、なんとかという名前の女性が行方不明になった、そんな僕にとってはあまり興味のない情報だけだった。芹川さんでも今日の藤原さんには話しかけられなかったのだろう。
休憩中、芹川さんの話はいつも同じ言葉で締めくくられていた。
「早く解決するといいけどねえ」
それは僕の耳にはとても白々しい台詞として届いた。所詮テレビで知った情報は画面の向こう側の話。芹川さんだけではない。ニュースを知っているほとんどの人はただの傍観者だ。そういうスタンスでいることを表明することで、自分は光の当たるところに立っていると言い張っている。自分は善であり、安全である。勧善懲悪は成される。そう信じたいのだ。
僕は、僕自身がどんどん弱っていくのが分かった。芹川さんは純粋に事件解決を望んでいるのかもしれない。ニュースを知って涙を流しているのかもしれない。
だけど今の僕はそう思えないほどに衰弱していた。真壁トオルの写真を撮ってからまともな食事をしておらず、それに加えてあまり眠れなくなったことが原因だろう。
スマホが振動している。芹川さんのだ。
芹川さんは目を細めながら画面を見つめ、耳に当てた。
「もしもーし。どしたのー?」
子供をあやすような声だった。孫がいるということは聞いていた。
「――うん。バァバはもうちょっとしたら帰るから、寝んねして待ってて」
電話が終わって、スマホの画面を見せられた。4歳くらいの女の子と芹川さんが頬を寄せた写真。
「どう。かわいいでしょう?」
血色の良い柔らかそうな頬が画面一杯、太陽に照らされている。僕が逆立ちしたって撮れない写真。
「いいと、思います」
強張った表情のまま、僕は答えた。
藤原さんは僕と同じ時間に退勤した。社員なら8時間勤務というのが通常だが、子供のことに配慮してあるのだろう。
工場の出入り口を照らすライトに虫が集まっている。そこを過ぎた所で僕はまた声を掛けた。
「藤原さんっ」
藤原さんは僕の方を振り向きもせず、右手を上げて応えるだけだった。それでも僕は彼を追いかけ、回り込んで告白した。
「あの写真を撮ったの、僕なんです」
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