駒込・アズズ(冬)



 ――駒込・アズズの朝は、尋常でなく遅い。


 第一に、朝に弱い。第二に、夜が遅い。第三に、もう朝ではなく昼だ。

 起床のラッパはとうに鳴り、宿舎の外の世界では人々が健康的に日々の営みを始め、それぞれが人生を再開している最中、アズズはなおも眠りの中にいる。


 ただし、その眠りは熟睡とは言えない。アズズの眠りは浅く、自他共に認める彼女の明晰な頭脳は常に働き続け、真に彼女が休める時間は訪れない。


 極々稀に、本当にたまに、ある少女の膝を借りたときにだけ熟睡できたものだが、生憎と今のアズズを柔らかく包むのは、相応に高級感のあるベッドだけだ。

 このベッドも、軍の施設に置かれる官給品としては不釣り合いなほどの高級品、だが、ワルキューレの待遇は軍内でも飛び抜けて異例が許される立場にあり、早い話が特権階級というわけだ。そして、アズズはその特権を行使することを躊躇しない。


 アズズの哲学では、人間とは平等ではないし、能力で格差は生まれるものだ。


 故に、能力のあるものは相応の待遇に与り、代わりに凡人にはできない成果を発揮する必然がある。そのために義務と権利があるとアズズは考え、実践している。

 ワルキューレである以前に、アズズは『駒込・アズズ』であった。そこに迷いは一切なく、今朝も彼女は高級ベッドで昼まで惰眠を貪るのである。


「……遅い」


 唸るように呟いて、アズズがベッドの上で寝返りを打つ。めくれたシーツの下に覗く肢体は、下着だけを身に着けた無防備なものだった。

 肌の色は透き通るように白く、程よく膨らむ女性的な曲線は芸術的の一言。波打つ癖のある髪は色素が薄く、微かに顰められた眉の下には聡明な印象の端麗な顔貌がある。

 その薄い唇から悩ましい吐息を漏らし、アズズはゆっくりとベッドで上体を起こした。シーツを胸元に引き寄せ、カーテンの引かれた暗い部屋の入口をじっと睨みつける。


 アズズの寝起きは悪い。朝は大抵機嫌が悪いのだが、今日の機嫌は特にすこぶる悪かった。その原因は、この朝の目覚めそのものにある。

 本来、アズズが自発的に起きることなど滅多にない。自慢にならないことのようにも思えるが、それがアズズの在り方だ。そんな彼女がいつもはどうやって目覚めているかというと、頼んでもいないのに起こしにくる存在の功績だった。


 それに慣れ切ったせいで、逆にそれがないと起きられない。起きたとしても、心底不機嫌――それが、今朝のアズズの状態だ。


「さてはあのバカ、寝坊したか……?」


 自分の立場を棚上げして、アズズは白い頬をわずかに膨らませる。やれやれと肩をすくめて、寝坊相手の顔でも拝んでやるかとベッドから足を伸ばした。


「たまには、こっちが寝顔を見てやる。これで少しはウチの気分が……きゃんっ」


 悪巧みする顔のアズズが、踏んづけた何かに足を滑らせてひっくり返った。大股を広げてベッドに倒れた彼女は、一瞬呆けたあと、頬に朱を立ち上らせる。


「ぐぐぐ……」


 誰にも見られていなくとも、己の羞恥から自分で目を背けることはできない。

 足を滑らせたのは、床に散らばる書類の束か、脱ぎ散らかした衣類のせいか。いずれにしても、片付けできない性分が仇になった。思わず漏れた悲鳴は、終生の恥だ。


「何もかも、あのバカが悪い! ウチをほったらかして、寝坊なんかして!」


 八つ当たり気味に言い放って、アズズは伸ばした手でカーテンを開く。部屋に射し込む光に「ぐあ!」と呻いて、今度こそ足の踏み場を選んで洗面所に向かった。

 顔を洗い、歯を磨く。疲れた目元を軽く揉み、鏡を見る。右、左、今日も美少女だ。

 それから、アズズは机に引っ掛けた白衣を掴むと、それを羽織って部屋の外へ向かおうと――して、足が止まった。


「――――」


 じっと、自分の体を見下ろす。下着に白衣だけの、かなり際どい格好だ。無論、プロポーションは完璧だし、人に見せて恥ずかしい体はしていない。

 問題は、アズズがワルキューレであり、人類の希望を背負う象徴であること。

 端的に言って、基地には男の目があるのだ。良くも悪くも、ワルキューレは注目されることを避けられない。それはワルキューレにあって、当然の覚悟である。

 他人の目を気にしないなんて言い訳は、決して自分たちには通用しない。

 ワルキューレは美しく、戦士たちの憧れでなければならない。それが不文律だ。


「服は……ええい、めんどくさい!」


 部屋の中を見回し、アズズは畳まれていた制服を手に取った。しっかりとアイロンのかけられたシャツに袖を通し、手前の無精さと対照的な手つきで丁寧に着替える。

 鏡の前で髪をとかし、襟を正して、可憐で聡明なアズズの完成だ。問題なし。

 そうして当面の問題を片付けたところで、当初の問題に立ち返ったアズズは気付く。

 今朝のことについて、そう言えば昨夜、言われていた気がする。


「……あのバカ、哨戒任務で飛んでくるって言ってたっけ」


 道理で、朝になってもアズズを起こしにこないわけだ。それなのに、それを忘れて一人でヤキモキしていたなんて、自分がひどく間抜けに思えてくる。


「誰が馬鹿だ、誰が。ウチは天才だし」


 そんな呟きを汚い部屋に落として、アズズはため息と共に部屋を出た。

 ぐっすり眠ったはずなのに、朝早くに叩き起こされるより疲れた気分を引きずって。



                △▼△▼△▼△



「よお、下着娘。今朝は……もう朝じゃねえな。昼だ。一人か」


「だ・れ・が! 下着娘だ、誰が!」


 格納庫にアズズが顔を出すと、出迎えの嗄れ声はずいぶんなご挨拶をしてくれた。その言葉に顔を赤くして怒鳴るアズズに、汚れたツナギ姿の壮年男が肩をすくめる。


「誰も何も、お前しかいねえだろ。俺も長く整備兵やっちゃいるが、ハンガーに下着姿でやってきた戦乙女はお前だけだぞ」


「あれは寝惚けてただけだっての! たった一回の特例を、あたかも毎回のことみたいに脚色するのは凡人の悪癖! ウチが露出狂だとでも言いたいのか!」


「別に責めちゃいねえだろ。若ぇ連中はそりゃもう喜んでたしよ」


「~~っ!」


 壮年――整備班長の心無い責め苦に、アズズは恥辱でいよいよ声も出ない。思えば、あれは人生最大の失敗だった。あれも、やはり一人で起きた朝の出来事で。


「と、とにかく、ウチは同じような失敗は繰り返さない。もう二度と、あんな幸運に期待しないでもらいたいもんだな」


「期待も何も、俺は乳臭い小娘の下着姿見たって何とも思わねえよ。喜んでたのは若ぇ奴らだけだ。乳と尻と歳増量してから出直してこい」


「完璧なウチになんて言い草だ!」


「完璧主義者気取りなら、自分の足下ぐらいちゃんと見てこい」


 指差され、「え?」とアズズは視線を下に向ける。かっちりとした軍の制服を着込んだ自分の長い足があり、そこに可愛らしい猫のワンポイントが見えた。

 最近、アズズのお気に入りである、デザインが可愛い猫サンダルだ。

 頭が煮詰まったときなど、基地に出入りする猫に会いに、このサンダルで出かけたりすることが多い。もちろん、平時に履いて出歩くことなんてないはずで――。


「な、な、な……」


「お前さん、本当にあのポニーテールがいねえと隙だらけだな。うちの連中に馬鹿な真似する奴はいねえだろうが、戦乙女らしくもうちっと気ぃ張っとけ」


「……ウチがだらけて、気が抜けてるって言いたいのかよ」


「そうは言わねえ。だから、こんな時間に起きてきたって何も言わねえだろ」


 自分の肘を抱くアズズの声に、整備班長は首の骨を鳴らしながら応じた。そうやって首を傾けた視線の先、フェンスの向こうには白い建物――病院の頭が見えている。

 昨夜遅くまで、アズズが負傷者相手に奮闘していた病院だ。


「お前が戦乙女としても、医者としても、全力を尽くしてくれてるこたぁ基地にいる全員がわかってる。だから、俺たちも必死で整備する。寝てていい間は寝てりゃいい」


「ウチが全力を尽くしても、足りないところだってある」


 珍しい整備班長の気遣いに、アズズは視線を合わせずに小さく呟いた。

 自分の力不足も、現実の理不尽さも、アズズは毎日味わわされている。昨夜だって処置の甲斐なく、負傷者の一人が亡くなった。民間人だった。


「――ッ」


 じわりと、目の奥に込み上げてくる熱をアズズは懸命に我慢した。

 アズズは特別だ。天才だし、頭脳明晰だし、ワルキューレでもある。――だからこそ、自分では届かない場所が、普通の人間よりはっきりと深く理解できる。

 一進一退と言えば聞こえはいいが、人類は緩やかに後退し、滅びに迫りつつある。それを知っていて、何もできない事実にアズズは常に脅かされ、罪人の気分だ。


 だからだろうか。その、迷うことなく真っ直ぐ走っていく背中に憧れるのは。

 全ての後ろめたいものたちが憧れる理想が、その背中に体現されているように思えて。


「泣くなら、俺は機体の向こうっ側に隠れてるが」


「泣くか! 泣くもんか。あと、気遣うんならもっとちゃんと気遣えし。とにかく、ウチは遊びにきたわけじゃない。愚痴りにきたんでもない!」


「じゃあ、何しにきやがった?」


「当然……次の、ウチの英霊機の改造プランを話しにきたに決まってる」


 持ち込んだ図面を広げるアズズに、整備班長が目を見開く。その図面に描かれるのは、人類軍の最高機密、天翔けるワルキューレだけが操れる『英霊機』だ。

 ピラーに通用する唯一の武装であり、大神オーディンがワルキューレに与えた寵愛――それに手を入れ、あまつさえ変態的な改造を施す異端児はアズズ以外にいない。

 英霊機は替えが利かない。壊せば終わりの魔改造に、他の誰が手を出せようか。


「俺もかなり英霊機いじっちゃいるが、こんな怖いもの知らずはお前しか知らねえぞ」


「どんなじゃじゃ馬になっても乗りこなす度胸があって、問題が起きたときの原因と対策がすぐに練れる……つまり、ウチ以外には誰にも試せないだろうよ」


「それで試験的なデータが集まれば、他の戦乙女の英霊機にも改造が施せる。そうすりゃ、腕が足りなくておっちぬ奴らも減るってか。……お前の体も一個しかねえんだぞ」


「か、勝手にウチの考えを捏造した上に説教とか、大きなお世話だし!」


 胸の奥を見透かされた気分で、アズズは整備班長にそっぽを向く。しかし、その頬は赤く紅潮していて、言い逃れとしての効果はゼロに等しかった。

 ともあれ――、


「この図面は預かっといてやる。現実的に可能なラインかはあとで報告してやらぁ」


「あー、うん、お願い。だけど、ウチが説明した方が早いと……」


「お前には別の用件があんだろうが。ほれ、相方が戻ってくるぞ」


 図面を丸めた整備班長が顎をしゃくると、遠く、空を風切る飛行機の音が聞こえてくる。聞き慣れたその音に、しかしアズズは悠然と腕を組み、勝ち誇った。


「はん、引っかかると思ったのか? あのバカが相方なんて、ウチは思ってないし」


「そもそも、ポニーテールの名前を出してねえよ。やってやったみたいな面してねえで、とっとと飛び込んで甘えてこい」


「チクショウ!」


 顔に似合わない悪罵を吐いて、アズズが滑走路の方に足を向ける。心なしかその足取りは軽く、それを横目に整備班長は小さく笑った。


「ああ、それから忘れてるかもしれねえが……」


「うん? 何の話……きゃあ!」


 遠のく背中に注意を促そうとして、サンダルの少女がわりと豪快にすっ転んだ。

 格納庫の天井に向かって、すっぽ抜けた猫のサンダルが高く舞っていく。


「サンダルなんだから気を付けろって言いたかったんだが……遅かったな」


 そんな可愛い悲鳴に頭を掻いて、整備班長は図面片手に仕事に戻っていくのだった。


《了》

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る