渡来・園香(秋)



 ――渡来・園香の朝は、ゆっくりと遅い。


「ふわ……」


 柔らかいベッドの中で丸くなり、朝の気配に園香の意識は緩やかに覚醒していく。

 朝は、あまり得意ではない。目覚めてもすぐには頭が働かず、残った眠気に比例して瞼はひどく重たい。まず、血の巡りと重い瞼との戦いが園香の日課だ。

 そして大抵の場合、その毎朝の戦いは激しく、長時間戦闘になるものだった。

 しかし――、


「んん……ん?」


 ぐるりと寝返りを打とうとして、園香は熱くて柔らかい感触を背中に感じ、喉を鳴らした。妙に大きな異物が背中に当たっている。大きくて、熱い、柔らかい。

 それへの疑問符が頭の中を飛び交い、眠たい意識に問いを投げ込んでくる。すると、


「――あんまり、もぞもぞと動くんじゃないよ。目が覚めちまうじゃないのさ」


「ひゃっ」


 がばっと、その背中に当たっていた感触が動いて、園香の体を突然抱きしめてきた。正面に回った腕の感触と聞き慣れた声、驚いた園香はすぐに相手の正体に勘付く。


「……弥生お姉ちゃん?」


「んー、そうそう。あんたの、弥生お姉様ですよー」


「お姉ちゃんは、お姉様なんて柄じゃないと思うけど……ひゃんっ」


「まったく、起きて早々に口の減らない子だよ。そんな悪い子の原因はここか? それともここかー?」


「ふふっ、あはっ! くすぐったい! くすぐったいってば!」


 掛け布団の中、蠢く魔性の手に翻弄されて、こそばゆさに身悶えする園香はついにベッドから追い出される。床に下りて、恨めし気な目で振り返ると、ベッドには頬杖をついた女性――天塚・弥生の姿がそこにあった。

 短くした髪と悪戯っぽく輝く瞳、すらりと背が高く、それでいてスタイル抜群な肢体を持つ弥生は園香の憧れだ。ただ、部屋着だからといって、白いシャツに短パンだけのラフすぎる格好は、少し目のやり場に困るのではないかと思わなくもない。

 それに、急に人のベッドに潜り込んでくる悪癖も、どうかと思うのだ。


「お姉ちゃん、また夜中に勝手に部屋に入り込んで……わたし、すごく驚くから」


「そのわりに、朝までぐっすりだったじゃないのさ。可愛い寝顔しちゃってさ。……寝てる間に、もっと色々されてても全然気付きもしないで」


「色々、って……?」


「そりゃ、色々は色々だよ」


 艶っぽく微笑み、弥生は細い指で自分の唇をそっとなぞる。その仕草を目の当たりにして、園香は頬に熱が上ってくる感覚に顔を伏せた。

 弥生の悪癖、いわゆるキス魔というヤツだ。出会ってからこっち、妹分として弥生に可愛がられる園香は、幾度となく彼女の悪癖の餌食になっていた。


 もちろん、可愛がって面倒を見てもらえることは嬉しいし、姉代わりのように振る舞ってくれる彼女にはいつも助けられている。弥生には感謝しきりだ。

 日本でも指折りのエースである弥生、彼女がこんなふやけた態度を見せる相手は限られており、その一人が自分なのだと思うと優越感もわずかに覚える。

 ただし――、


「それはそれとして、お姉ちゃんはもうちょっと慎みを持った方がいいと思う」


「うわ、ひどい言い草。女になりかけぐらいの蛹ちゃんのくせに、あたしの妹分はなんて生意気なんだろうね。女には愛嬌って武器も必要じゃないのさ」


「愛嬌と淑やかさがないのは、全然別物だよ、お姉ちゃん」


「くっ……妹が厳しい。あんなに優しくて、お姉ちゃん大好きって言ってた頃の園香はどこにいっちまったんだい……」


「わたし、顔洗ってくるね」


「本当に強くなって、まぁ!」


 芝居がかった態度の弥生を置き去りにして、園香は洗面所の方に足を向けた。そんな背中に弥生の悲鳴がぶつかるが、すっかり扱いに慣れた園香は気にも留めない。

 が、洗面所の扉を閉める前に、ふと弥生の方に振り返った。そして、枕にヘッドロックを極めている弥生に向かって、告げる。


「それと……お姉ちゃんが大好きなのは、変わってないからね」


「――――」


 その言葉に、弥生が唖然とした様子で目を見開く。それが急に恥ずかしく思えて、園香はそのまま勢いよく扉を閉めた。しかし――、


「そーのーかー」


「わ、わ、お姉ちゃん!?」


「このこのー、可愛いヤツめ、可愛いヤツめー。んちゅー」


「キャーッ! 調子に乗せちゃったー!」


 扉を開け、洗面所に滑り込んできた弥生に抱きすくめられ、額に頬に、髪にうなじにキスの雨が降り注ぐ。

 それに必死に抵抗しながら、園香は弥生からの親愛を全身で堪能していた。

 そんな二人の朝のから騒ぎは、そのドタバタを聞きつけた上官に怒鳴られ、揃って怒られるまで延々と続いたのだった。



                △▼△▼△▼△



「――渡来ぃ」


「ぁ」


 呼びかけに我に返り、園香は微かな吐息をこぼした。途端、指からジョウロの取っ手が滑り落ちて、こもった音を立てながら土の上に水を広げていく。

 花壇の花たちが、そうして無意味に流れる水を物欲しげに眺め、風に揺れていた。


「ととと、悪い悪い。いきなり声かけて、驚かせちまったかね」


「……いえ、ごめんなさい。わたしがボーッとしてたんです」


 歩み寄り、倒れたジョウロを拾って渡してくれる男性に、園香はゆるゆると頭を下げた。

 その動きに、頭の両端で括られた淡い色合いのお下げが揺れる。ふわりと花の匂いが香る雰囲気と、小柄な背丈は夢に見た憧れとはずいぶん遠ざかって思えた。


 懐かしい。そう、懐かしい夢を見てしまった。

 あまりにも懐かしすぎて、自分自身がそこから抜け出せていないような、まだ優しい誰かの腕の中に包まれているような、そんな錯覚を覚える夢を。

 そんな夢を見た園香を責めることなく、男性は軽く肩をすくめた。


「水やりの最中に気もそぞろなんて珍しい。そうそうないこったろう」


「そんなこと、ありませんよ? わたし、抜けてるから」


「お前さんが抜けてるなんて、基地の連中にゃ聞かせられない評価だよ」


 そう言って苦笑いし、男は懐から出した煙草を口にくわえた。そうして煙草の先端に火を付け、思い出したように「いいかい?」と園香に尋ねる。

 そんな悪びれない態度に、園香は少し呆れた風に唇を緩めると、


「ダメです。消してください」


「そ、そう言わずに。ほら、風下! 風下に立ってるから!」


「わたしもお花も、煙草の煙は嫌がります。ワルキューレの体を気遣うのは暗黙の了解で……それは里見さんも同じですよ」


「ちぇー、手厳しいもんだ」


 強固な理論武装に阻まれ、男――基地司令の里見・一郎は名残惜しそうに煙草を口から離すと、携帯灰皿の中に押し込んで火を消した。


「つけたばっかりなのに、もったいない」


「それ、今、人に消させた子が言う台詞じゃないよね?」


「里見さんの不注意のあまり、役目も果たせずに消えた煙草が不憫で……」


「あれ、あれれ? いたた、痛い痛い。なんか、おじさん、胸が痛くなってきた」


 チクチクとした園香の物言いに、里見は胸を押さえて顔をしかめている。と、その様子に小さく噴き出し、園香は大きく実った胸を手で撫で下ろした。

 夢に見た弥生に近付けたところがあるとすれば、こんなところぐらいだろうか。背丈も顔つきも、ワルキューレとしての腕も遠く及ばないのに。


「せっかく笑ってくれたのに、まーた切ない顔だ」


 ふと、隣でこちらを覗き見る里見に言われ、園香は自分の頬に触れる。緩んだばかりの頬が、今は硬くなってしまっていて。


「……胸が切なくなる夢を見たので」


「白昼夢ってヤツかい。胸が切なくなる夢ってーと……」


「里見さん、セクハラです」


「何も言ってないし、何なら目も向けてないんだけどね」


「セクハラは、そうと感じた側の意見で成立してしまうみたいですよ」


「判官贔屓だし、ワルキューレには勝ち目ないなぁ」


 降参、とばかりに両手を上げた里見に、園香は内心で申し訳ない気持ちになる。

 小娘に話を合わせて、里見は翻弄される芝居に乗ってくれているだけだ。そんな気遣いをさせてしまうのは、彼には園香の目にした夢の心当たりがあるから。

 園香にとって、夢に見る懐かしい日々の欠片に、彼の姿もまたあったからだ。


「覚えてますか? わたしと、おね……弥生さんが、里見に一緒に怒られたこと」


「……正直、心当たりが多すぎて、ちょっとどれかわからんねぃ」


「そうかもですね」


 里見に受け答えに、今度は笑みがこぼれなかった。代わりに胸を過ったのは、甘く痺れるような疼痛だ。過去の記憶が、深く優しく園香を傷付けてくる。

 あの日々から遠く、こんな場所で、花など育てている園香のことを。


「そう遠くないうちに寒くなるってのに、花は綺麗に咲くもんだ」


「冬の季節が続いていても、人間だって屋根の下で元気にしてるじゃないですか。お花だって、そんなに変わりませんよ」


「人間とお花が? みんなみんな、生きているんだ友達なーんーだーって?」


「どちらかっていうと、歌、下手ですね」


「控えめなコメントありがとう」


 またしても、余計なことを言いそうになった誤魔化しに里見が乗ってくれる。そんな大人な対応に甘えながら、園香は空っぽのジョウロを抱え、水場の方に振り返った。


 弥生のように、自分の後輩に優しく指導する先輩にはなれそうもない。だから、園香は後輩を可愛がる代わりに、花を育てることにした。

 自分なしでは咲くことのできない花壇の花々に、自分が必要とされていると、そんな勘違いの達成感を味わいたい。――そんな想いのために。


「そんな理由で、こんなに綺麗に花は咲かないとおじさんは思うがね」


 水場へ向かう小さな背中に、里見の疲れたような囁きは届かず、秋風に消えた。


《了》

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