第4話 クマさんと天国の住人
それは昼休みのこと。
いつものように学校近くの売店に昼飯を買いに行って、戻ってきた直後だった。
放送部が日替わりで流している無難なJ-POPが、スピーカーから急に途絶え、人の声に切り替わる。
《あーあー》
エレナ先生の声。
《ちょ、ちょっと困ります!》
《いーじゃない。緊急事態なんだから》
《ダメです!》
《帰りに
《いりませんっ!》
《えー、おいしいのに。ええと。それなら、例の件、引き受けるから》
《……本当ですか?》
探るような感じで放送部員が確認する。
《私に二言は無いわ》
《わかりました》
スピーカーONのままで放送部員と
《おらー! 2-Aの
やや怒気を含んだ言葉が校内の全スピーカーから一斉に発信された。
たぶん俺は、この瞬間、校内で一番有名な生徒になっただろう。
「おいしいな、お前」
「なら代わってくれ、
「やなこった」
一緒にいたクラスメイト2人──
「はんはのほほよへ」
そう言ってから口の中のものを飲み込んで、
「あんたのことよね。行ってきたら? パンは教室まで運んでおいてあげるから」
と、言う。
「マジでおもれーな。エレちゃん」
人ごとだと思って楽しんでいる
放送室に向かう途中、顔見知りの何人かに茶々を入れられたが、無視して一目散に走り続ける。
《あと10秒以内に来ないと、》
ばん、と、放送室のドアをぶん投げるように開ける。
俺は肩で息をして呼吸を整え、
「なにやってんだ、あんたはッ!」
「ありがとね、放送部のみんな。例の話は、また明日ということで」
茫然自失の放送部員たちにお辞儀をして、俺の腕を引っ掴む。
「さっさと行くわよ」
「ど、どこに?」
「研究室」
話しながら、ずるずると半ば引きずられるように廊下を歩かされる。
俺を連れて研究室(化学室・物理室とは別に、先生が勝手に研究室と呼んで、私的に利用している部屋)に入り、エレナ先生は内側からカギを閉める。
「お茶、飲む?」
丸底フラスコの中にぱらぱらと緑茶の茶葉を入れ、6割ほど水を入れる。
設置済みの三脚台の上の金網に丸底フラスコを置き、スタンドに付いているクランプで固定し、ガスバーナーを点火する。
「いりません」
「ちゃんと洗ってあるから平気よ。それに、このフラスコはお茶専用だし。茶渋で緑っぽいでしょう?」
もちろん私物よーと、にたりと笑う。
茶葉は湯煎され、フラスコの底からぽこぽこと小さな気泡が浮かんでくる。中の水は少しずつ鮮やかな緑色に変わってきていた。
「そんなことより、ああまでして俺を呼び出した理由が知りたいんですが」
「結果が出たのよ」
結果。
なんの?
「……あ」
「おーおー、やっぱ忘れちゃってるわけね。依頼主が頼んだことを忘れないでよ。こっちは古巣の友達まで使って調査してたんだから」
「そういや、キャンセルするの忘れてた」
もうカナが伊月家に来てから1週間以上経っている。
「は?」
「あれ、もういいです。犯人わかりましたから」
「コレ、なんだかわかる?」
目の下のクマを指さして睨んでいる。
「大きなクマさんですね」
「殴っていいかしら」
その顔があまりにも怖かったので、家に謎のアンドロイドが押しかけてきて住みついてることを簡単に説明する。
「なるほどね」
先生は手際よくガスバーナーの火を止め、るつぼ挟みで丸底フラスコを持ち上げ、茶葉が入らないように丁寧にビーカーに緑茶を注ぐ。
フラスコからビーカーに注がれた緑色の液体を口にするエレナ先生。
先生は飲みなれた感じで自然に飲んでいるが、
「ということで、もう調査の必要はないんです」
「この怒りを私はどこにぶつければいいのかしら」
「次の研究に」
「むう……」
「悪かったよ、先生」
「謝って済むならケーサツもワッパもカツ丼もいらないわ! なんでもっと早く教えないのっ!」
知らせなかったのは、この反応が目に見えたからだ。
カナを庇うわけじゃないけど、エレナ先生が現代科学の結晶のようなアンドロイドを見たら、何をするかわからない。
「放課後、見学しに行くわね」
「見世物じゃないです」
「正体、知りたくないの? 私はすでにある程度、そのアンドロイドの見当がついてるんだけど」
「ほんとですか?」
「あなたの家で回収した金属片なんだけど、あれって、一般の人が入手できるような素材じゃないのよねー」
知りたい。
できれば、カナ本人の口から聞きたいけど。
何度聞いても教えてくれない。
俺は、カナに危害を加えないことを条件に、エレナ先生を家に招待することにした。
**********
放課後のチャイムが鳴ると同時に、エレナ先生は校長室に呼び出されていた。無論、昼休みの放送の件だ。
俺は図書室で時間をつぶすことにした。
「相変わらずの盛況ぶりで」
「お蔭様でね」
俺の意地の悪い冗談をさらりと返す女。
図書委員の
「あら伊月くん、珍しいわね」
「だいたい毎週来てるだろ」
「今日、水曜日だから」
「ああ、そうか」
普段は金曜に借りた本を土日中心に読んで、翌週の金曜に返却して、ついでにまた新しい本を借りる──このサイクルで通っているので、金曜日が休日でない限り、俺が他の日に図書室に来ることは少ない。
「今日は、ただの冷やかしだ」
「帰れ」
「冗談だって。人を待ってるんだ。それまでちょっと暇つぶしの相手が欲しくて」
「ふぅん」
冷やかしと暇つぶしのどこに差があるのかわからないが、
がらがらの図書室。
生徒は、まばら、にも満たない。
俺はいまだかつて図書室内に2桁の生徒がいるのを見たことがない。
ここはいつだって閑古鳥が悲しそうに鳴いている。
「……退屈そうだな」
「そーでもない。本が好きな子にとっては、天国よ。ここ」
天国の住人とは思えない、気の抜けた喋り方。
「そういや、妹は?」
いつも一緒にカウンターにいる
「あの子は金曜と、金曜が祝日の時にその前日に来るだけだから」
「そうだっけ?」
「伊月くんは、ほぼ金曜日しか来ないから知らないだけ」
こちらを向いてそう言うと、また小説のページに視線を這わせはじめる。
「
「ううん、私は毎日いるわよ。月曜から金曜まで。たまたま今日は、当番の一人が病欠で、私一人だけれど」
「……お前だけ暇なんだな」
「どうせ家に帰っても本読んでるだけだし」
「部活は?」
「伊月くんと同じ道草部」
「彼氏でも作れ」
深く考えずにそんなことを言うと、
「なってくれるの?」
熱心に本を読みながら言われても困る。
「……お前なぁ」
「そう言う
「いや」
気軽に話せる女友達なら何人かいるが。
「
真っ先に言われると思った。
「クラスが一緒なだけ」
「
「
「
「昼の放送のことだったら、潔白だ。お陰でいい笑い者だ」
「ふーむ。ではあくまでフリーを主張するわけね」
「事実だからな」
「わかったわ。伝えておく」
「だ、誰に?」
「さあ」
気のない返答。
何冊かの文庫本を小脇に抱えた男子生徒がカウンターに向かってくるのが見えたので、
「そろそろ行く。邪魔したな」
「またね」
「そういや、前に薦めてくれた『孤独回路』読み終えたよ。ああいう面白い本があったら、また教えてくれな」
「うん。
図書室を出るのと校長室からエレナ先生が出てくるのは、ほぼ一緒だった。
校長室のそばというのも、図書室の利用者が少ない理由かもしれない。
「たまにはこうやって校長にも仕事をあげないとね」
まったく反省が見られない。
エレナ先生は、ひと仕事終えたような感じで伸びをする。
──あんたは、何者ですか?
思わず聞きたくなる。
でもどうせエセ教師とか、狂気の科学者だとか、マッドなんたらだとか答えるに決まっているから、あえて尋ねなかった。
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