第15話 望まなかったものを捨てて

 夢の底から微睡へ。微睡から覚醒へ。ゆっくりと意識を浮上させたルミは目元を擦りながら上半身を起こした。


「……っ。だい、じょうぶ」


 見慣れない部屋の構造に心臓が跳ね上がり、すぐに手足の自由を確かめる。当然ながら、縄で縛られていることはない。何度か手を開閉して、ようやくその事実を呑み込めた身体は脈拍を緩めていった。

 既にあの事件から三日が経過している。だが、未だに捕らわれていた時間を忘れることはない。恐ろしくて、自分がそんな姿をしているのか、本当の意味で思い知らされて。


 この世界に飛ばされてから始まった、今日も女性のままなのかを確かめる寝起きの習慣。そこに手足の拘束がないのかを確かめる習慣が追加されてしまった。


「ははっ……バカみたいだな……」


 想像していたよりもルミは涙もろいし、臆病だったらしい。自虐げに笑いながら震える肩を抱きしめた。

 

「よりによって、ここで誰かに襲われるなんてあり得ないのに」


 口にすることで自らに言い聞かせる。そう、この部屋はアベルの家ではなかった。

 異邦難民保護施設。保護なんて言葉を使っているが、実際には正体不明の異邦人の収容施設だ。衣食住は保障されているし、強制労働をさせられるわけでもないが、自由に移動することさえままならない。

 その代わり内からも外からも警戒されている施設の中では、ちょっとした争い事さえ見逃されることはないだろう。


 あの奴隷商の事件後、いつの間にか異邦人──地球出身だと看破されていたルミはこの施設に無理やり送られてしまった。生活に不自由はないし、同郷の人間と言葉を交わせたのは喜ばしいことだが、どうにも暇を持て余している。


 だが、今のルミに必要なのは、その暇なのかもしれない。


「ルミさん、起きていますか?」


「……! は、はい。毎回ごめんなさい」


「いえいえ。扉の前に食事を置いておくので、お早めにお取りください」


 職員男性の声が響き、ルミは更に強く自らの腕を掴む。その足音が遠ざかっていくのを聞いて、筋肉を弛緩させた。ベッドから降りると扉を開いて言葉通り、足元に置かれた朝食をトレーごと部屋の中に持ち込む。

 

 柔らかいパンとスープ。そして何やら見慣れぬ卵料理らしき何か。それらを眺めながら、情けなさに反吐が出そうになった。


「やっぱ、ダメだ……っ」


 身体が震えている。ただ職員男性の声を耳にしただけで。

 あの事件以来、ルミは男性が恐ろしく感じるようになってしまった。我慢できないわけではないが、近くに寄られるとどうしても震えが止められない。集団で集まっていると眩暈までしてくる始末だ。

 馬鹿みたいだろう。二十年近く男性として生きてきた人間が、少女の姿になって男性恐怖症を患っているなど。笑い話にもなりはしない。


 何よりも己の中で整理がつかない。早く治してしまいたいし、認めたくないのだ。男性が苦手になったことも、自分が女性であることも。


「もう嫌だ……早く、元に戻りたい……」


 初めこそは“ルミ”可愛いなんてまんざらでもなかったが。もう女性の身体は散々だった。こんなに弱々しい身体ならば。犯罪者に身体を狙われるぐらいならば。今すぐにでも男に戻りたい。

 そして、男性恐怖症だって認めたくない。その事実を認めてしまえば、内面まで女性になっていることで受け入れるようで、二度と男性には戻れなくなってしまう気がした。

 この華奢な身体が、それを女性として扱う社会が、忌々しくて仕方がない。


 一人寂しく朝食を咀嚼しながらに考える。認めたくはないが、解消しないとならないことは理解していた。他の人間が食堂で栄養を補給している中、一人だけ個室に運び続けてもらうのは忍びない。

 ならば、どうすれば良いのか。曖昧ながらも展望はあった。


「ごちそうさま」


 朝食に感謝を述べて、部屋の棚から小さなハサミを取り出す。まずは形から入るべきだ。何よりもそれが周囲への意思表示となる。

 鋭利な刃を見つめて、ルミは僅かに逡巡した。


☆ ☆


「あんたも大変だな」


「ああ、全くだ。けど他の世界の話ってのは中々に面白かった」


「俺っちもだぜ。やっぱ異世界ってのはワクワクするからな。また話を聞かせてくれや」


「構わない。それじゃ、これで」


 食堂から各住民の部屋に繋がる通路で、アベルは知り合ったばかりの男性と別れた。会話の通り、彼はこの世界の住民ではない。つまりここは異邦難民保護施設だ。訳が分からない。正真正銘、アベルは現地民だというのに。

 どうやらルミと共に過ごしていたことが問題だったようだ。疑わしきは収容せよ。現状、異邦人の明確な判別基準が存在しない以上、疑いのあるアベルも問答無用で異邦人扱いと言うわけである。


 そんなこんなで生活の自由を奪われてしまったわけだが。何も悪いことばかりではないのかもしれなかった。


 真っすぐに通路を早足に歩く。向かう先は最近、引き篭もりがちな少女の部屋だ。あの事件以来、どうにも人間不信を患わっているきらいのあるルミ。知り合いであるアベルはともかく、初対面の相手にあからさまに怯えてしまっていた。

 この保護施設に彼女の故郷の友人がいれば良かったのだが、どうにも外れだったらしい。だから、唯一の知り合いであるアベルが気に掛ける他ないのだ。


「……あの子もな。どう扱えばいいんだか」


 悩まし気に独り言ちる。言動の節々に片鱗が垣間見えるし、本人もあくまでそう主張しているが。どうにもルミを男性として扱うには無理があった。本来の姿でも知っていれば、感覚も変わってきたのだろうか。

 彼女の穏やかな気質、なんやかんやで女性としてのお洒落は楽しんでいそうな気配。そういった要素が合わさり、どう考えても男性には見えない。時折、気が抜けて男性トイレに踏み込んだりするが、それだけならば変わり者の少女で済んでしまう話だろう。


 本音を言ってしまえば、非常に面倒だ。けれども、彼女のことを想うのならば慎重にならざるを得ない。心に傷を負っている今こそ、丁寧なケアが必要だった。


「ルミ、いるか?」


「あ、アベル? ちょうど良かった」


 だから言葉選びは慎重に、だ。頭の中で何度も反芻しながら白髪の少女が顔を覗かせるのを待って──


「ル──」


 用意していた言葉が、一瞬で消え失せていくのを感じた。見知った美貌が眼前にある。けれども、その印象が昨日までとあまりに異なる。


「ああ、これなら気にしないで。ちょっと……気分転換だから」


「気分転換、って」


 曖昧に笑って見せるルミ。彼女の長い髪は、バッサリとショートヘアになるまで切り落とされていた。アベルでも女性の髪が大事なことは理解している、いや、彼女は女性であって男性なのだから、無頓着なのかもしれなくて──


「それより、頼みたいことがあって」


「……頼みたいこと?」


 真剣な声色に現実へと意識が引き戻される。驚いたが、彼女の髪は彼女の自由だ。切りたい気分だったのならばアベルに止める権利はない。

 だから気を取り直して、彼女の次の言葉を真摯に待つ。


「──僕に、戦い方を教えて欲しい」


「…………」


「もうみんなに迷惑をかけたくない」


 予想外の言葉に再び驚愕を覚えながらも、心のどこかで納得した。

 己の弱さを隠したがる悪癖。その弱さを嫌う性根。そして、誰かを頼ることへの忌避感。そんな彼女の想いを間近に見れば、嫌でも理解させられる。


 ──ああ。見た目がどうであろうとも、彼女は確かに男性なのだ。


「こ、この頼み自体が迷惑かもしれないけど……」


「……やるなら徹底的にだ。厳しくやる」


「……っ! うんっ!」


 尤も、容姿だけならばこんなに可愛らしい笑顔を振りまく人物なのだが。内面と外面。どうにも噛み合わせの悪い少女に戸惑いつつも、アベルはルミの願いを了承して見せた。

 何かが動き始めている。とても個人では抵抗さえ難しい何かが。だから、彼女が諦めようと、努力し続けようとも、どちらを選ぼうとも力を貸してやろうと、心の底から誓った。



第三章 『空に映る残影』cooming soon……

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