第34話 ムーンドロップ 月夜の晩に

月夜の晩に


 指先に感じる紙の感触を確かめながら私はただ静かに祈っていた。


 あるときは少女と共にその夢を想い

 あるときは少年の側でその母を想い

 あるときは少女の横でその父を想い

あるときは神の傍らでその子を想い

 目の前の現実をそっと塗りつぶし

 綴られた文字を追いながらただ静かに祈っていた


 すこしづつ歪んでいて、だからこそ淡く輝く想い

 その輝きはジグソーパズルのように断片的で、テレビゲームのように実体がなく

 マッチの炎のように儚く、歌のように世界を揺らしながら存在する温度を私は指先から感じていた。

 私が何もしなくても物語は進み、私はその傍らに居た。

 私は何者でもなくただ皆の祈りであった


 ページをめくる指が止まる


 世界を終わらす

 その祈りはとても冷たかった。冷たく鋭いが故に誰かを突き刺し、切り裂くことが想像できる。そんな冷たさだ。


 私は幸せを祈っていた。ハッピーエンドを祈っていた。

 宇宙の意思としての継続を祈っていた。

 

「それは皆の祈りじゃなくて貴方の願いよ」

 歌うような声が聞こえた。黒神歌音

「そして貴方が願うなら。貴方は世界の読者ではいられないわ」

 別の少女の声が聞こえる


 最大の中の最小、最小の中の最大。宇宙に拡散された私の欠片が力に引き寄せられていく

 集められた微少な私が音符となり、その流れは旋律となる。私が作り出した私の歌


「墨膳。これがあなたの器」

 鈴音流歌。黒神歌音だった者が言う

「実祈。これがあなたの物語」 

 ありす。墨膳有子とALICEだった者が言う


 名も無い祈りは新たな器と古き名を得た。

 名付けられた歌は器の中に渦巻き存在を確立させる。

器を震わす歌は再び物語を紡いでいく。


◇◇◇


 細かい雨が月明かりの中で静かに舞っている。

やがて雨粒は地面で水滴となり、沢山の月を宿す。そして水滴同士が繋がり大きな水滴となって弾けて消える。

空には大きな満月。雲は見えない。こういった雨を天泣というのだっけな。

誰が泣いているのだろうか。涙というにはとても優しく暖かい。

「綺麗だ」

そう。自己主張も無く、ただ煌きながら誰の体温も奪う事無く、静かに降り続いている。

俺はそして優しい世界の中で一人の女性を見つける。彼女も俺に気づいたのかこちらに駆け寄ってくる。

そのシルエットが大きくなるにつれ、俺の気持ちも大きくなってくる。

謝らないと。

一歩も動けずに、なんて声をかけるか言葉を探している。

「お兄ちゃん!」

彼女は僕の声よりも早く僕の懐に飛び込んで来た。

その存在の大きさに身体は揺れる。

肩を掴んで向かい合い彼女の瞳を見つめた。

「実祈。ごめんな」

これはけじめなのだと思う。だけれど実祈は笑っている。

「ほら、いいから、それよりお兄ちゃんを待ってる人が居るから」

 肩を叩かれて俺は苦笑いをするより無かった。

「早く! 早く!」

起きないと寝坊しちゃうよ。そんな声が続くのかと錯覚するような俺を布団から起こしていた時のままで実祈は声をかけてくる。

「はいはい。行ってくるよ」

一歩進み、二歩進み、そして振り返る。

 いつのまにか実祈の横にありすがいた。こうしてみると二人はどこか似ている。彼女は微笑んで手を振っていた。

「ありがとう。行ってくるよ」

 涙が出そうになってくる。でも行く場所があるのだ。俺は走り出した。きっと俺の誇りである妹は手を振ってくれているだろう。だから前へ。


◇◇◇


  彼女は顔を埋めて座り込んでいた。俺はその隣に無言で腰を下ろす。

ゆっくりと目を閉じて深呼吸をした。そして瞼を開く。

「今日の月は綺麗ですね」

横から馨を伏せたまま小さな声が返ってくる。

「役目も無くし、何も無い私には何も見えません。なぜ貴方はここに来たんですか?」

「想い重ねて、魂一日千里をも行く。ほら俺は死んでしまっているから。勿論貴方に逢いに来ました」

「雨月物語。でも貴方とは何も約束していません」

「取り敢えず顔をあげてくれませんか?」

「泣き顔なんです」

取り付く島が無い。もしかして嫌われているのだろうか。顔の見えない相手に直接的に好きという言葉は伝えられない。

「役目か……」

空白は何も言ってこない。

「俺、ずっと妹を護るのが役目だと思ってたんだよな。だけどなんていうか違ったていうか、結局俺が護られていた。しがみ付いていただけってのが正しいんだけど」

自然と言葉が早くなる。息継ぎをしないと溺れてしまう魚のように。だけれど伝えたい。俺の我が儘を。

 自分は知らない間に多くの物を受け取っていた。

 父から受け取っていた物。母から受け取っていた物。そして妹から、今まで周りにいた多くの人から。だけれどそれに気がつかないで生きていた。空っぽだと思ってそこに何かを必死に入れようとしていた。

 だけれど気づいた。気づいてしまった。自分が空っぽじゃない事に。その途端に俺の中の魂のビンから感情があふれ出てきた。ビンのヒビから流れて出てとっくに無くなってしまったと思い続けていたものが。諦めの感情に希薄され、世界に溶けて無くなってしまったと思っていた物が。溢れでて鼓動を打つ。

 虹の中にいて虹が見えていなかった。

 伝えたい。この気持ちを伝えたい。

 そして伝えたい人がここに居る。

ちらりと空白の方を見てから言葉を続ける。

「今の俺のは役割なんてなんもないけど、それでも」

 そう、役目の無い俺だけれど。

 「それでも君の隣に居たい」

君の隣にいたいんだ。

 「いや、君に見て貰いたい」

君と一緒に世界を見たい。

 息と想いを吐いたあと、空白からの返事はない。

 空白はゆっくりと顔を上げた。こちらは見ていない。

「月ってこんなに綺麗だったんだ」

 その声は少し震えている。優しい雨が涙を洗い流していく。あぁ、何て綺麗な世界だ。

「空白の事が好きだ」

 こちらを振り向いた空白は微笑んでいた。

「死んでもいいわ」

 その唇を塞ぐように唇を重ねる。

 死んでもいい。あぁ確かに。

 

 こぼれ落ちたのは月の雫か涙だろうか。ただ月が静かに輝いている


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