第33話 ムーンドロップ 終わりの雫

 終章 ムーンドロップ 


終わりの雫


意識を失っていた少女が目を覚ました。彼女はいつのまにか白いワンピースの上に赤いパーカーを羽織っている。そして赤い靴。

「気がついた?」

 少女は小さく頷いた。敵意は感じられない。

「君とは少し話をしたかっんだけど、今いいかな?」

何度も声はかけた事があるけれど、実際に会ったことはない。だけれど、知っている存在というのは安心感がある。

「ええ」

「こっちの世界に来た時現世はどうなっていた?」

「人が人を殺し続けているわ」

「そうか」

彼女は目を閉じた。

「ALICEはどうしてここに?」

 創造物に話しかけるのは変な気持ちである

「私は幸せな夢を見て眠っていたわ。そして父と貴方が創り上げたもう一人の私に呼ばれて一つの存在になった。便宜上、平仮名でありすって名乗ることにするわ」

 彼女は周りを見て言葉を続ける。

「そのうちこの世界も魂の揺籠と一つになるわ」

「そうなれば、実祈と奏流を探せる」

「探してどうするの?」

「現世に二人を連れてかえるよ」

「人が人を殺し続ける世界へ二人を連れて帰るの?」

 あまり、研究室の外には興味が無かったが、それでも現世の荒廃の事は知っていて言葉につまる。

「戻ってから考えれば……」

彼女は消えかかった俺の言葉を上書きするように言った。

「今、現世で人が沢山死に、その記憶、魂が此方に大量に流れてきているわ。このまま沢山人が死んで行けば、世界は裏返り、魂の揺籠は現世として産まれ、現世は死者の世界になる。円の内と外が入れ替わるの」

「魂の揺籠の事は何も知らない」

「知らなくても世界は変わっていくの。貴方は自分の役目を果たせばいいと思うわ」

「役目?」

「現世は荒廃を続けていく。実祈は分からないけど、少なくても奏流は魂の揺籠にいる。このまま行けば魂の揺り籠が現世に変わる。そして貴方は帰る時間よ。少女が目覚めたように」

急に何かを裂くような音が聞こえ、その発生源を探す。

ミリッ!

更に大きな音がしたかと思うと、紅い光と共に昼呼と自分の間にマネキンが現れた。それは手脚がない胴体だけのもので、クリーム色のチェスターコートを着ていた。更にもう一体、薄紅の着物を着たマネキンが現れたかと思うと、次から次へと、膝下と腕先の無いマネキンが現れる。更に灰緑の水玉のパジャマを着たマネキン。クロムグリーンとガーネットのボーダーシャツを着たマネキン。苺色のパーカーを着たマネキン。粘土色をしたスーツの上着を着たマネキン。モスグリーンのモッズコートを着たマネキン。瑠璃色のポロシャツを着たマネキン。ゆったりとした萌黄色のセーターを着たマネキン。現れたと思うと、すぐに次のマネキンが現れ被い隠し、露草色のマウンテンパーカーを着たマネキン。トウモロコシ色のレインコートを着たマネキン。ラベンダーのパレオを着たマネキン。土色のちゃんちゃんこを着たマネキン。カーキ色のデザインボタンがついたネルシャツを着たマネキン。加速度的にマネキンが増えていく。真珠色の刺繍の入ったチャイニーズドレスを着たマネキン。ココアブラウンのカーディガンを着たマネキン。ウルトラマリンのラインが入ったジャージを着たマネキン。ラズベリーのチェック柄のベストを着たマネキン。ツツジ色の花が刺繍されたどこかの民族衣装を着たマネキン。トパーズのチュニックを着たマネキン。多種多様な種類と色の洋服を着たマネキンがやがて視界を被う。マネキン。マネキン。マネキン。マネキン。マネキン。マネキン。マネキン。マネキン。マネキン。マネキン。マネキン。マネキン。マネキン。マネキン。マネキン。マネキン。マネキン。マネキン。マネキン。マネキン。マネキン。マネキン。マネキン。マネキン。マネキン。マネキン。マネキン。マネキン。マネキン。マネキン。マネキン。マネキン。マネキン。マネキン。マネキン。マネキン。マネキン。マネキン。マネキン。マネキン。マネキン。マネキン。マネキン。マネキン。マネキン。

マネキンの波に飲み込まれ、硬い感触が自分をすり潰すように圧を加えてくる。視界が固定されて身動きは取れなく、確認も出来ないがきっと自分もマネキンに変わってしまったのだろう。そんな感覚に呑まれながら、どこかに流されていく。

「流されるんじゃないわ。世界と一体になるだけ。世界は常に流れているから」

ありすの声が聞こえた気がしたが、硬い感触の隙間をすり抜けて、すぐにどこかに流れていってしまった。

気鬱で、邪魔で、弱気で、迂闊で、物憂げで、虚ろで、粗悪で、有耶無耶で、不味い、薄っぺらの、数奇な感情が飲み干して氷しか入って居ないグラスをストローでかき混ぜるようにガラガラと音を立てる。

柔らかくて硬い感覚と共に、一瞬だけ二つの紅い太陽が見えた気がした。そして意識と身体は細かく破砕され、篠上琥珀という存在は消滅した。


◇◇◇


 息が出来ない。息の仕方が分からない。ここは海の中だ。いや羊水の中だ。激しく振り回した腕がどこかにあたり、痛みでそれが自分の身体の一部だと思い出すのに数秒。衝撃で身体が入っていたカプセルの扉が開き、外気が肺を刺激するのまでにさらに数秒。

 僕は座り込んだまま泣いていた。赤ん坊が産声を上げるように、この世界に生きる為に必死で自らの肺を動かすように、ただ生命の本能に従い僕は号泣していた。それは自らの存在証明の為の叫びであり、雄叫びでもあった。自分の中にあった激しい感情の洪水は、喉を震わせ、空気を震わせ、魂を震わせた。

 そしてそれは呻きに変わり、浅い肩呼吸となり、ようやく僕はその瞼を開いた。

薄暗い部屋の中で青白い光が水面に反射して輝いている。

「戻ってきたのか……」

 そこに喜びは無かった。用意してあったケースの中に入っていた注射器を首筋に打ち、後頭部に刺さっていた生命維持装置及び、情報伝達装置を外す。冷たく光る銀色の臍の緒とも言える太い管は音を立てて紅い保護液の中に沈む。

「何も持たずに戻ってきてしまった」

今まで何かを持っていたことがあっただろうか。身にまとわりつくこの薄ピンクの液体さえ、掬おうとすれば逃げて何も残らない。

「僕の役割か」

 それは、実祈と奏流を現世に連れ帰ることでは無かったのだろうか。

洗い流したい。そんな気持ちでシャワー室に向かう。

 シャワーヘッドから飛び出す熱い水滴は肌を滑り落ち排水溝にため息と共に流れてゆく。ハンドルをひねりお湯を止め、身体をタオルで拭いたあと通路に出ると、ガラス越しの月がそこに佇んでいた。

自分が疑似物理世界に降り立ってからどのくらいたったのだろうか。調べればすぐ分かることではあるのだが、今はそんな気にはなれなかった。ただ月だけは変わらず空に浮かんでいる。海を挟んだ本土の方に行けば、見えるのは人工的な生活の明かりであろうか、それとも命を燃やし揺らめく戦火であろうか。

情報を遮断して久しいが、ALICEの言葉を信じるなら、いつの間にか戦争は終わり平和な世界になっているという事は無いであろう。

「滅びゆく世界か」

弓道場に続くドアの前に立つと音も無く扉は開き、僕は先に進む。

手早く弓道着に着替えると場に入り神棚に礼をする。

「この世界は滅びた方がいいのか」

地面が薄っすらと光り輝き始める中、右手を弦にかけ、的を注視する。

人が人を殺す世界。それは新たな世界が産まれる為のプログラムされた細胞の自殺。アポトーシスなのだろうか。集団無意識の中に織り込まれた人類の定めなのだろうか。

呼吸を整えながら静かに両拳を持ち上げる。

人が人を殺さない世界があったとして、それはこの世界と何が違うのだろうか。幸せを与えたなら、幸せを求めて人は人を殺すであろう。豊かさを与えたなら、豊かさを求めて人は人を殺すであろう。自由を与えたなら自由を求めて人は人を殺すであろう。個人の人格や権利の尊重をしていった結果、幸せは個人の幸せになり、豊かさは個人の豊かさになり、自由は個人の自由となった。

ゆっくりと力を加え弓を押し、弦を引いてゆく。

ギプスだ。

過保護に個人を護るそれは、運動性を奪い、やがて中から腐っていった。

実と奏流がカプセルの中で腐っていくのを想像し、すぐその考えを追い払う。

全てを一回握りつぶして、新しい世界に注ぎ込む。

「この世界は死にたがっている」

この世界が滅べば、あの世が現世になる。僕の役目は。現世に実と奏流を生かす事。

その為にこの世界を滅ぼす。そう、あとはこの指を離すだけ。

足元が淡く紅く輝き波打ち始める。

首を振ってその考えを振り払い、弓を下ろした。矢は何処に向かう事なく僕と繋がったままである。同時に足元の紅い光も消えた。

的の上の月を眺める。馬鹿な考えだ。自分がやっている事は月に向かって矢を射とうとするようなものだろうか。

ゆっくり吐いた息は静かな夜に消えていった。


突然、世界は絶叫をあげた。


激しい爆裂音の後、軋む音がしたかと思うと迷彩ガラスが砕け、斬風が荒巻き流れ込む。弓道場の中でガラス片の鱗を纏った風の化身が暴れるがごとく全てを襤褸切れのようにしてゆく。

戦場ではよく感じていた感覚が僕を支配していた。映像がコマ送りのように進んでゆく。爆発音がした時に身体体制は低くしていたが、輝く凶器が吹雪のようにこちらに飛んでくるのが見えた。そして同時に床が紅く光り背中の熱量が急上昇する。

「うがぁ!」

弾ける! そう思った瞬間に背中から自分を突き破る何かを感じた。

それは大きく太い白いスピアーのようなものだった。白く滑らかに輝く象牙のようなものでもあった。何本も突き出たそれは意志を持ち、僕を覆い隠すように、ぐにゃりと曲がり地面に突き刺さっていく。その直後に激しい風の牙が渦巻き通り過ぎて行くのを音と振動が教える。

嵐の第二波は来ず、白い壁は崩れ、風化するように消えた。そして残されたのは見慣れた場所の無残な景色だけである。

射精後の不応期にも似た虚脱感。そんなものに襲われていたが、すぐに弓道場を飛び出した。たった一つの事だけを考えて。

通路の突き当たりは嵐の直撃を受け内から、大破している。残された場所を足場にして飛び越え、施設の中心に向かい駆ける。そしてゴールにたどり着く前に止まった。

通路は途切れ、月と星だけが見える。そして見えない物はいつも見慣れていた物。それでもどうにか平衡を保っていた日常。ぽっかりと削りとられたように、実祈と奏流が居た場所は全てが消滅していた。

その後の僕の記憶は曖昧だ。ただ、一つ思った事がある。 この世界が存在する意味は失われた。

「世界を滅ぼそう」

世界から一人の男が溢れ墜ちてゆく。


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