第26話 君に会えることを願う歌 篠上琥珀の決意
篠上琥珀の決意
僕は缶コーヒーのキャップを捻った。
苦みと共に黒い液体が喉を通り過ぎてゆく。冷たい機械の心に冷たい燃料を流し込み、静かに同じ作業を繰り返している。時計の針が冷たい時間を冷たく切り刻み、時を止めた抜け殻が冷蔵庫の中で眠る。そんな冷たい夜だ。
研究所には自分の他に動いている人は誰も居ない。戦争の激化により研究所は地下シェルターの中に移され、シェルター内でも隔離された空間になっていた。自給式の発電や給水システムが備わっており世界から独立した存在ではあったが、僕は外の世界の物を好んだ。そしてそれらの手配はALICEが全てしてくれている。
ALICEは自分が研究所の来たときにはすでに存在していた。
その頃は青いエプロンドレスは着ておらず、白いワンピースに赤い靴を履いた少女であった。
その少女に学習機能を与えたのは自分である。以後研究所のキャラクターとしてシステムの全体的な管理を彼女が行っている。
数字を打ち出している画面を離れ、僕は部屋の外に出た。ここには月の光が届いている。外の世界からは岩肌にしか見えないが特殊なガラスが外からの光を届けている。僕は太陽の光よりも月の光が好きだった。今日の満月はいつもより赤みを帯びている気がする。そんな月の光を満たした空気を吸い込んでから僕はドアノブを開けた。
その部屋には墨膳実祈と墨膳奏流が眠っていた。冷たいガラスのケースからは生命維持装置や、脳波などを見る管、排水管などが何本も伸びていて、それらは集まり壁へと消えている。身体の清浄機能や血流を促すマッサージ機能、全身に電気刺激を与える機能なども備えたそれは今は保護液で満たされ、二人はその身を静かに液体の中へ浮かべている。そして、その横にはもう一台空のケースが並んでいた。僕は実祈の入っているケースに手をつき、それから奏流のケースを軽くノックした。特に意味はない行為だ。
奏流が倒れていたのは奇しくも彼の父である墨膳直哉が死んだ場所に近い場所であった。ただ彼の場合は途中で木々がクッションになったらしく破れた白衣が枝に引っかかっていた。身体に細かい傷が大量がつき、肩の脱臼、骨折はしていたものの命に関わるような外傷は見られなかったのだが、彼が目を覚ます事は今でもまだ無い。
意味が分からなかった。多分自分はあの時、奏流の事なんて見ていなかった。妹は意識不明で父親は自殺。そんな彼の事を放って自分は実祈の事ばかり考えていた。だからなのだろうか。それでも彼が妹を置いて死を選ぶような事は納得できなかった。彼ともう一回話をしたかった。なんで死を選んだか聞きたかった。
「僕のエゴか……」
これから自分のしようとしている事を考えた。実祈については進歩は無い。だが奏流に関して言えば彼がまだ起きて自分の意識を持っていた頃、自分と一緒に記憶のメモリー化をしている。あくまで彼のほんの一部分でしかないかもしれないが、記憶が本人の精神を呼び起こす可能性は十分ある。本来なら実祈を起こす為に行った実験の一部ではあるのだが、今回は奏流を起こす望みに賭ける為に準備を進めて来たのだ。
「それでも僕は、実祈も奏流も護りたい」
◇◇◇
僕は二人のいる部屋を後にし、そのまま弓技場へと向かった。弓術は生まれたこの国の文化に触れるという事で始めた物であったが、道具に頼るでなく自分の技をもってして臨むという面で自分の性に合っており、殊更その傾向の強い倭弓を好んで日課としている。この国に戻って来た際には辞めていたが、研究所をシェルターに移す際に弓道場を造った。金銭面で言えば執着も無く、幾つかの特許で得ていた金を糸目なく使って出来上がった物である。
和服に腕を通し、袴の紐を締めると、その感覚が身を引き締めるように感じられる。ここには敢えて暖房を入れていない。しんとした冷気かそれとも高揚している為だろうか、小さな身震いが一回起きる。息をゆっくり吐いた。そして定位置へとすすむ。的を一瞥してから、流派の型をなぞるように礼から始まり、肌脱ぎを行う。
(僕はこれからどうするべきか)
露わになった肌から身体へと突き刺さる冷気が自分の身の内で熱い何かに変わってゆくのを感じる。
(ベクトルを正しい方向へ)
全ての物事が静かに、しかし確実に張りつめられてゆく。暴れようとする力を己が力で押さえ込む。
(その為に)
放つ。
その意思は冷気を貫き震わせ、鈍い音で終わりを告げる。そして余韻。
「僕はあの世界に降り立たないといけない」
もう意志は固まっていた。既に矢は放たれているのだから。
8
実際は問題点だらけである。目的、手段をはっきりさせるために、そしてそれを阻害する問題点を洗い出し現状把握するために、僕は研究室に戻ってきている。
幾つもの実験を行い。幾つもの失敗を繰り返していた。
実祈の精神を培養するために作った情報空間は混沌が流れ込み、制作者の意図しない新たな世界を形作っていた。人工知能としてナビゲーター役にする筈であったALICEは情報の波に流され、その存在をこちらからは観測出来なくなっている。
記憶のメモリー化を行う為に浴槽へ身を浸たす。光を反射し、蒼く輝く液体の中で世界についてのの思考をたゆたわせる。
世界とはなんであろうか。空間であろうか。物体であろうか。概念であろうか。最近の研究では物理学であれ力学であれ人の心というものを取り込んだ考えが主流になりつつあった。専門性、特異性を突き詰めていった学問は人の為の物理学。人の為の力学と、ある意味で更に特殊な物になってゆく。なぜなら、世界は観察者がいないと存在しないという大前提が出来上がっているからであった。
ここでいう観察者とは人間である。つまり人間が存在しなければ、世界は存在しなく、物理法則も量子力学も天文学も全て存在しない。箱の中に入った猫は観測者がいないのであれば、死んでいると同時に生きていて、ゼロであると同時に無限でありプラスでありマイナスである。可能性という存在だけが漂う混沌の海である。そこには法則は存在し得ない。
「君がいない世界は世界ではない」
僕は昔に流行った歌詞を音楽に合わせ口ずさんでいた。
「君がいない世界では僕もいない」
彼女が好きで電話の着信音にもしていた歌だ。
「だからこんな世界は誰かにくれてやる」
「そして君がいる世界に今からいくよ」
この世界に可能性は無いと思っている。ただあるのは事実だけだ。人間という観測者がいる世界では可能性の海は一点に収束してしまい、つまらない法則だけが世界を形づくっていると。
「この赤き血で世界を切り裂き。この黒き想いで世界を叩き壊す」
ならば自分の存在を零と一に分解できたなら、観測者という存在から外れれば、世界は無くなり、また可能性の海に飛び込めるのではないだろうか。自身を生命のスープに出来たならば、集合潜在意識にアクセスできるのではないか。奏流の記憶というキーを持ってそこに行けたなら。彼をこの世界に呼び起こす事が出来るののではないか。
「壊れた世界の破片で僕は歌を作る」
この世界では自分の存在を分解するのは難しい。だから僕は自分の記憶をデータにし、電子の世界で再構築させよう。新たな世界が出来上がったことは意味がある筈なのだから。
「君に会えることを願う歌を」
君に会えることを願って。
僕は音楽を止めた。まだ続く筈の歌は静かな世界に上書きされ消えた。
僕は目をつむった。照らし続ける光は静かな闇に上書きされ消えた。
浴槽の水位が上がり、身体を優しく包んだ。
やがて、琥珀の中の記憶が点滴のように一滴一滴と電子の世界に落ちてゆく。
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