第15話 ガラスケースの世界 氷美子

    2 氷美子


 二人が戻って来ない事に痺れを切らせ、かまくらの外に出た俺は数歩も歩かないうちに何かを蹴飛ばした。何かが割れるような音と共に光に包まれ、そして気づくと、目の前に女の子が居た。

「えっと、君の名前は?」

 彼女は酷く驚いた顔をしている。

「私? 私は氷美子」

「氷美子? ひみ……」

「どうしたの?」

 もう一回彼女を見た。

 一つの名前と顔が頭に浮かび上がってきた。

「いや、知り合いに同じ名前の君に似た人がいてね。名字は淡縞(あわしま)とかじゃないよね?」

「そうだよ。これってナンパ?」

「いやっ! そんな恐れ多い!」

 慌てて大きく腕を振りながら後ずさりする。淡縞なんて普通にある名字では無い。氷の女王と呼ばれている研究所職員の顔が脳裏を掠め、冷や汗が出てくる。

 いつのまにか今まで忘れていた研究所の事があたかも始めからそこにあったように思い出せるようになっていた。

 腕を急に掴まれた。

(殺られる!)

「足元」

「えっ?」

 言葉の意味が分からなくて氷美子の表情を凝視したが、先程の驚いた表情は消え、何を考えているかは分からなかった。

「ガラスが散らばってるから……」

 よく見ると光るガラスの破片がキラキラとその存在を主張していた。

「あっ。ありがとう」

「取り敢えずこっち。足元気を付けて」

 氷美子の手はガラスのように冷たかったが、そこに弱さは感じられなかった。俺は掴まれた場所を、そこに何かが残っているかのようにさすりながら逆らう事なく彼女の後を付いてゆく。

 学校の先生だろうか。若さからみて教育実習生かもしれない。ガラスケースの中のその男性はチョークを持って宙に何か書いている。その脇を氷美子は通り過ぎてゆく。

「何処に行くんだ?」

 慣れもあるだろうが、彼女に出会った時の戸惑いも消えて普通に接する事が出来た。自分が知っている女性と少し雰囲気が違ったせいもあるのかもしれない。

「どこかな?」

 彼女は立ち止まってこちらを見た。

「何処でも同じだよね。じゃぁ、ここ」

「ここ? 何かあるのか?」

「何処にも何も無いよ」

 そう言うと氷美子はぺたんと地面に座り込み、おいでおいでと手招きした。

 俺は少しだけ離れてガラスケースにもたれかかった。中には白衣の男が居る。

 あぁ、これは変なんだ。彼女の読み取りにくい表情を見ながら俺は考えた。

 そこらにあるケースの事を彼女は特に意識してないように見える。

(こいつらは彼女と関係がある人物か?)

 思い出そうとしたが研究所の職員にこのような男性達は居なかったように思う。

 氷美子は体育座りをしてぼーっと空を見ている。

(こうしていても埒があかないしな)

「なぁ。ここに居るやつらなんなんだ?」できるだけ、さもなんともないよという風に空を見上げながら聞いた。

「エッチした人達だよ」

 氷美子は表情を変えず空を見ている。

「えっ」

 そして彼女はゆっくりこっちを向いて首を傾げた。

「信じた?」

「いや、信じたというか少しびっくりはしたけど」

「……」

「……」

 冗談だったのだろうか? 彼女の表情からは読み取れない。

「マッチ売りの少女って悲しいよね」

 氷美子は袖から小さな箱を出した。箱をスライドさせマッチを取り出す。シュボっ。箱と擦り合わせられたマッチはそんな音をたてて彼女の指先で儚く燃え出した。

「どんな話だっけか? あんまり覚えてないなぁ」

 炎を見つめる彼女は無表情だけどどこか悲しそうな顔をしていた。ただの炎の揺らめきでそう見えたのかもしれないけど。


   3


「マッチを燃やしている間だけ幸せな幻想が見えるの」

 今にも消えてしまいそうな彼女の存在と炎はそれでも存在感により俺の心をざわつかせる。

「だけどその幻想はとても遠い物」彼女はその指を徐々に上げる。「どうせ何も持ってないから全部燃えちゃえばいいのに」

 改めて自分が知っている淡縞博士と目の前の彼女との違いを考えながら彼女の話を聞いていた。博士は綺麗だが冷たい印象があった。まるで自分自身を氷に閉じ込めた美しい氷像で、触れるのを躊躇わせる何かがあるような気がしていた。だけど氷美子はどちらかというとナイフを連想させる。

 彼女の指先の炎を目で追っていると、最高地点に到達した白い指は吐き出すようにマッチを空中に放り出し、そしてそれは地面に落ちた。

 その瞬間、まるでガソリンにでも引火したかのように炎が広がる。普通の燃え方ではない。まるで写真が燃えていくかのようにそこにある景色や空間全ての存在が消え、丸い虚無が広がってゆく。その虚無は氷美子の足から徐々に彼女の存在を飲み込んでゆき、無表情な顔もニット帽も空間が削り取られるように虚無の中に消えていった。そして炎に呼応するように激しい音をたててガラスケースが次々と割れて、中の男達が黒い炎と化してゆく。

「くそっ! なんだよ急に!」

 前触れの無い突然の世界の変貌に声が荒ぐ。

 虫に食べられた葉っぱのように世界に空いた幾つもの穴は燃えながら広がってゆき、地面を、空を、かつて二人がいた世界を蝕んでゆく。そして燃えた場所から色々な声が俺の中に流れ込んできた。

「あの子氷美子ちゃんて言ったっけ。いつも独りで遊んでる」「お父さん、奥さんに逃げられちゃったんでしょ? 可哀想よね」「氷美子は何考えてるか分からないよね」「今日も遅くなるから」「俺は別にそういうの気にしないから」「あの子ちょっとウザくない?」「あれは無いよねー。氷美子もそう思わない?」「ごめんなさい。私にも新しい環境があるから」「ごめんな。寂しい思いさせて」「ごめん。もう無理だわ」「わりぃ」「すまないが」「悪いとは思ってるけど」

 言葉が風となり虚無の中で冷たく燃える炎を静かに揺らす。

 やがて逃げ場を失った俺の腕や足を虚無が飲み込んでゆく。幾つもの映像や声が俺の存在を上書きしてゆく。痛みは無い。熱くも無い。ただ感覚だけが消失してゆく。

(このまま消えていくのかな俺)

 既に腰から下と左腕は虚無に飲み込まれていた。そしてそれは尚広がり、奏流という存在が闇に塗りつぶされようとしていた。

 俺は一度死んでいる。しかし何故死んだのかは覚えて居ない。

 というか記憶が酷く断片的なのである。その所為だろうか、精神世界に居る所為なのか、はたまた違う理由なのか、現実感に乏しく危機感もあまり無い。まるで大切な物を失った抜け殻のように自分を感じる。自分という概念がゼロに収束、或いは霧散しようとしている。

 消えるのは自分であろうか世界であろうか。

 境界線が消えてゆく。全ての物が者が闇という存在に覆い尽くされ、私はかつての自分が何であったか既に分からなくなっていた。女だっただろうか男だっただろうか。満ちていないという事で満ちている虚空は闇か黒か。どうでも良いことかもしれない。そう、どうでも良いことなんだ。

「氷美子ーっ!」

 誰かの叫び声が拡散してゆく意識を再び世界に収束させた。そして世界を覆いつくす虚無に光のヒビが入り、それが凄い早さで広がってゆく。


 闇が一欠片剥がれ落ちた。


 そこから差し込む一筋の光。何故だろうか自分の中の光が溢れそうになる。これは涙?

(そっか、私は氷美子だ)

(あぁ、俺は奏流か)

 虚無という氷美子の意識から吐き出された俺は、失った物を取り戻したと同時に、何か自分から離れてゆくのを感じた。

(自分は氷美子と意識を共有していた?)

 彼女の絶望と諦めの感情に触れて気づいた事があった

(あぁ、自分は知らない内に絶望していたんだな。自分の気づかない間に間に心は冷えていてすべてを諦めていた。もしかしたら生きていた時も)

 光が闇を溶かしてゆく。ゆっくり瞳を閉じた。それでも光は感じられた。そして自分は俺になった。もう氷美子は居なかった。

(俺は奏流なんだ)


 瞼を開くとひまわり畑と青空。

 そこには一つガラスケースがあり、中には一人の少女の姿があった。


     4 


 ガラスケースにはヒビが入って一部割れていた。

その中には氷美子が瞳を閉じて胎児のような格好で浮いていた。彼女の首筋には大きな火傷のような痣が見える。

「世界と私の間には透明な壁があった。それは諦めともいえる感情」

 風に乗って声が聞こえる

「ガラスケースの中だったのか外だったのか。私にとってガラスケースの中は羨ましいけど決して手に入らない世界。世界にとって私はガラスケースの中に閉じこもった存在。どちらにせよ透明の壁は二つの世界を往き来する情報を全て鈍化させていた。私の声は世界には届かないし、世界の言葉は私に届かなかった」

「男が羨ましかった?」ガラスケースの中には男ばかりだったのを思い出す。

「どうかな。恋心を抱いていたのかもしれない。男になりたかったのかもしれない。強さが欲しかったのかもしれない。同世代の女の子の噂話に嫌悪感があって男の人が眩しく見えたのかもしれない」

 ガラスケースの中の彼女は目を閉じたままだ。ただ彼女の声だけが聞こえる。

「研究室で火事があって、一人の研究者が命を落とした。彼は高校生の娘を助けに水を被って燃え盛る業火の中に飛び込んでいった」

「業火……」俺は唾を飲み込んだ。

「ぐったりとした娘を抱えて戻ってきた彼はその時に負った火傷で」

「そんな事があったんですね」

 氷美子の世界で聞いた彼女を呼ぶ叫び声。あれはきっと父親のものだったのだろう。あの叫び声が彼女が感じていた虚無に光のヒビを入れた。

「火事の原因は分からず不審火と言う事で処理された。これでこの話は終わり」

「あなたはお父さんに救われたんですね」

 少し間があった後にまた声が聞こえた

「その事があるまで私は父の事を嫌っていたし、憎んですらいた。だけどそうなのかもね。だけど気づいた時は全て遅かった」

「それでも貴方は」

 言葉を言い終える前に凄い勢いで後ろに引っ張られ日向が遠くなってゆく。そして周りが闇に包まれる。映画館のスクリーンの中から外に引っ張り出されたかのように、ガラスケースに入った氷美子も、ヒマワリ畑も一枚の画像のようになりそれも小さくなってゆく。俺は必死で手を伸ばすがその画像もどんどん離れてゆき、やがて俺は本当の闇の中に放り出された。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る