第7話 魂は揺り籠で眠る 涙は紅に溶けて

 

 私は夢を見ている。

 私は一つの大きな卵を見つめている。その卵の中には私が居る。

 卵の外の私は、あぁこれは夢だなと思っていて、卵の中の私は息を潜めている。

 世界には私と卵と私しか無くて、モノクロームの世界は止まった時間の中にあるようだった。

 やがて純白の卵の殻に一点、黒い点が浮かび上がる。

 そしてそれは殻を蝕むように不規則に大きく広がっていく。

 卵の中の私は目をぎゅっとつぶってそのシミに気が付かないふりをしている。

 卵の外の私は何か叫んでいる。

(駄目、駄目、駄目、駄目、駄目っ!)

「駄目ーっ!」


 ぱっと眼を開き、上半身を起こす。

 呼吸は短く荒く、酷く嫌な汗をかいている。身体は硬く柔らかい物体で、自分の物ではないような感覚に襲われる。辛うじて私と身体を繋げているのは鈍い痛みだけであるように思える。

「大丈夫ー?」

 意識の外から聞こえて来た声に一瞬身体を固くして後ろを振り向くと、心配そうな黒い瞳がこちらを見ている。

 何故か正座をしている少女は白いハンカチを握っていた。

「あっ。ごめん」

 状況を理解して咄嗟に言葉が出てくる。

「あー。いいよー。でも良かった。シロちゃん凄くうなされてたから」

 歌音はハンカチをひらひらさせて言った。

「そうるん見つからなくてさー。ヌイグルミの方にいったら急にヌイグルミ光って、消えたと思ったらシロちゃんが落ちて来るからー」

 分からないような分かるような説明を歌音は大きな身振りをしながらする。

「そう…… あのヌイグルミ消えたの……」

「うーん。消えたのかなー? 消えては無いんだけど、あ、そうるんもそこに居るよー」

 歌音が指さした先には壁に寄りかかった神祈の姿があった。

「神祈?」

「そうるんもなんか様子おかしいんだよねー。なんかぼーっとしてるみたいで。そうるんではあるみたいだけど」

 私はゆっくり立ち上がった。ズキンと身体に痛みが走り顔を歪ませる。そして引きずるような足取りで奏流の方へと向かった。神祈の身体が心配だ

 奏流はそこにいた。神祈と言いそうになって言葉を飲み込んだ。

(そうだあれは神祈じゃないんだ)

 奏流はこちらを見ずどこか遠くの空を見ているようだった。どこか遠い目をしていて今まで知っている神祈とは違う表情を浮かべている。胡座をかいたその上には熊のヌイグルミが乗っていて奏流はその頭の上に手を乗せていた。

 あれは巨大なヌイグルミだったものだろうか。もう動いてもいないし普通のヌイグルミにしか見えない。

 なんて声をかけていいか分からないでいると奏流が口を開いた。

「俺、思い出したんだ」

 ゆっくりとした低い声。誰に言うでもなく独り言のような言葉がぽつりぽつりと抑揚なく紡がれた。


  ◇◇◇


私は奏流の隣に座り静かに零れた言葉を聞いていた。

「俺がガキの頃さ、近所にちょと大きめの家があったんだよな。赤い屋根の」

 途切れ途切れで何かを思い出しているかのように話は続いていく。私は紡ぐ言葉が見つからずただ小さく頷いた。

「丁度そこに一人の女の子がいてさ、なんでだったか忘れたけど、親に連れられてその子の家にお見舞いに行ったんだよな」

「……」

「どうもその子、身体が相当弱かったみたいなんだけどさ」

 一語一語口に出した言葉を確かめるように呟く彼の言葉を私は黙って聞いていた。

「ガキの俺にそんな事わからなくてさ、ちょっと具合悪くて今は外に出れないくらいに思ってたんだ」

 奏流が少し表情を曇らせたように見えた。

「当時、俺のお気に入りの場所があったんだ。秘密基地ってやつ」

 奏流の言葉がゆっくりと、途切れ途切れに続いていく

「そこに今度連れて行ってやるなんて言ったんだよな」

 外見上の顔はいつも見ていた筈なのに、その言葉が脆くただとても綺麗に感じる。

「勝手に設定作って、囚われの姫を助け出す王子様気分だったんだ。俺が連れて行ってやるからって……」

「……」

 奏流は夕陽を眩しそうに見ながら続ける。

「二回目に行った時。そう。見舞品にこの熊の人形を持っていったんだよな」

 ヌイグルミの頭がぽんぽんと叩かれた。

「凄い嬉しそうにしててさ。俺なんか凄い照れ臭くてさ」

「……」

「枕元のテーブルに新品の赤い靴が置いてあったっけな。綺麗に揃えられて。外に出るとき履いていくって。多分親に買って貰ったんだろうな」

「……」

「……」

 奏流は拳を額にあてている。よく見えなかったが泣いているように見えた。

「……」

「……」

「わりぃ……」

「……」

「結局、それきり……その子には会ってない……」

 神祈の身体を奪い目の敵だと思っていた存在が儚く感じられる。

「俺、川で溺れてさ……そのあと大熱を出してたんだ」

 ぽつりと吐き出される言葉から彼の悲しみが溢れ、さざ波のように私の尖った感情を洗い流していく。

「元気になってからその子が引っ越したって聞いたよ……」

 神祈ではない奏流としての存在がここに居る。あぁ。ここに居るのは奏流なのだと実感する。

「なんで忘れてたんだろうな」

「……」

「……」

 それきり奏流は黙ってしまった。

 かけるべき声も見つからない。何を言ってもそれは薄っぺらい物になってしまいそうだったから。

 どれくらい時間が経っただろうか。一分にも満たない時間だったかもしれない。しかしそれが永遠の時間のように感じられた。

 奏流が口を開いた。

「彼女は死んじまってるんだろ?」

「ええ。ここに居るなら」

 私はかすれた声でそれしか言えなかった。

「……そうか」

「……」

「彼女、最後にありがとうって言ってた。俺なんもしてやれなかったのにな」

「感謝してたんだと思う。あなたの存在に」

 ヌイグルミの魂の声を聞いた時に少女の感情が少し私の中に流れ込んできた。だから言える言葉。

「……ありがとう」

 その言葉は私に対してだろうか、それともヌイグルミに対してだろうか。

 夕陽は沈む事なくそこで輝き、色々な気持ちをその光の中に溶かしてゆく。

 

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