永遠の愛を誓う

「蓮水様。ここから一緒に逃げましょう」


 八雲は私に手を差し出した。

 私は反射的に座っていた縁側の椅子から立ち上がり、吐き出し窓から外に出ようとした。けれど、窓に手を掛けたまま私の動きは止まる。


「無理よ。私たちのことを夫はすでに知っている。居なくなったら、すぐに追いかけてくるわ。逃げ切れる訳がない」

 私はその場にしゃがみ込む。

「もう一緒にいられないわ。私は一生ここを出てはいけない」 


 そんな私を見て、八雲は私に差し出したままになっている手を握り締め、眉を寄せて辛そうな表情をする。

「貴女はそれで良いのですか」

 八雲は私の方に真っ直ぐ視線を向けてくるが、私はそれを受け止められずに目を逸らす。

「八雲。貴方はまだやり直せるわ。東京に帰って立派な薔薇園を作って、幸せな家庭も築ける。私のことなんて忘れてしまいなさい」

「それ本心じゃないですよね」

 苛立ちを含んだ八雲の声に顔を見ることができずに下を向いたまま答える。

「……貴方には幸せになって欲しいの」

 これは紛れもない本心だ。


 八雲の息を吐く音が聞こてる。そして、感情を抑えた声で言い募る。

「前にも言いましたよね。貴女じゃなくていいならとっくにこの想いは捨ててるって。貴女に二度と逢えなくなるなら生きていても意味なんてないんです」

「そんなこと……」

「そうなんです。僕を幸せにできるのは蓮水様、貴女だけです。そして、貴女を笑顔にできるのも。蓮水様、今自分がどんな顔をしているかわかってますか。表情が全くなくなっている。これから一生そうして死んだように生きていく気ですか」

 八雲は再び私に手を差し出した。

「蓮水様もここにいたら絶対に幸せになれない。貴女がまだ僕のことを愛してくれているのならこの手を取って」

 彼のためにはこの手は絶対に掴んではいけない。けれども、私は八雲の私を求める強い眼差しをどうしても拒否することができなかった。

「どうか拒まないで。誰かの為とかではなく、自分の心に従って選んで」

 懇願にも似たその言葉に私の心は揺さぶられた。


 私は八雲を愛している。

 世間から見ればこの気持ちだけで動くことは決して許されないだろう。けれど、この大きな屋敷でただ寿命が来るまで生きるよりも、誰がなんと言おうと彼だけを信じて生きていきたい。

 自分の本音が見えると、もう胸の中で押さえ込んでいた感情を止めることができなかった。


 私は窓から身を乗り出し、遂に彼の手を取った。



*** 


 八雲は私の手をしっかりと掴み、もう片方の手に持っている小さな灯りだけを頼りに山道を行く。

 外を歩くことさえ滅多になかった私には夜の山道は過酷だった。けれども、必死で前に進む。

 しばらく歩いた所で八雲が立ち止まる。

「ここから足元が悪くて危険です。蓮見様、僕の背中に乗ってください」

「自分で歩けるわ」

「できるだけ屋敷から離れたいから少しだけ辛抱してください」

 結局、問答無用と背中に帯紐で括り付けられた。

 二人で逃げようといった日から、今日まで荷物を背負って山道を行ったり来たりしていたから慣れたと、私を背負っていているとは思えない程ずんずんと進んでいく八雲に驚く。

 確かに若く逞しい体は力があるのだろうとは思っていたが、これ程とは思っていなかった。私は彼の背中の熱と息遣いを感じながら広い背中にぴったり寄り添った。

 山の中を数刻歩き続け、岩の陰にある洞穴に辿り着く。

 もう夜は気温がかなり低いというのに、彼の体からは汗が滴り落ちていた。私は持っていた手巾で汗を拭う。

「蓮水様。寒くないですか?」

「私は大丈夫よ」

「この洞穴の中に旅支度を置いているのです。蓮水様の旅装束も用意しましたよ」

 洞穴は居室の半分くらいの広さがあって、その隅に隠すように荷物が置いてあった。

 私は促されるまま旅装束の支度をする。

「これで準備は整いましたね。少し休みましょうか」

 八雲は洞穴の中の人が腰掛けられるくらいの岩の上に座り、私を膝の上に乗せる。

「一人で座れるわ」

「岩の上は冷えますし、それに久方ぶりなんですから触れさせてください」

 そう言って私を後ろから抱きしめられる。

 こんな状況でも久しぶりの温もりが心地よかった。

「あぁ。やっぱり蓮水様の側が一番落ち着きます」

 首を回して八雲を見上げると穏やかな顔をしていた。八雲は私の顔を見ると嬉しそうに笑った。私も顔を綻ばせる。

 八雲と一緒だというだけで温かな感情が次々と湧いてくる。


 私は彼の胸に頭を預け、束の間の安らぎに身を任せた。



***


 明け方になる前に再び歩を進める。


 動きやすい格好をしていても、今までろくに動いたことがない私はすぐに息が切れてしまい、思うように先に進めない。

 それでも、私は八雲に励まされながら共に歩み続けた。


 空が明るくなり始め暫くすると、静かだった森がにわかにざわめき始めた。

「追手が来ました。急ぎましょう」 

 八雲と私とは追手を縫うように山道を進む。

 太陽が遮る高い木々の間を上がったり下がったりしているうちにどちらの方向に進んでいるのかわからなくなっていった。


 ほとんど休みなく進み続け、突然木々がなく開けた岩場にたどり着いた。

 目の前には大きな滝がある。進む先は崖になっており、行き止まりになっていた。

「そんな……」

 私たちは急いで引き返そうとするが、追手がもうそこまで来ていた。

 私たちはその切り立った崖の上に追い詰められる。

 

 八雲は私を後ろ手に隠し、数十人いる追手を睨めつける。

 追手は少し離れた岩場の入口から近づいてこない。

 どれくらい睨み合っていただろうか。追手の後ろから茂平が息を弾ませながら出てくる。

「蓮水を連れてここまで来るとは、たいしたものだよ。けど、もう先はない。諦めろ」

 茂平は冷めた目で八雲に言い放つ。

 私は八雲を庇うように前に立って茂平と対峙した。

「私たちに近づかないで!」 

 私は茂平を睨みつける。

 すると、茂平は困ったような顔をした。

「蓮水。逃げ出しちゃ駄目だってあれ程言ったのに、悪い子だね。けど、もうお仕舞だ。儂からは逃げられないとわかっただろ。お前から儂のところに戻ってくるなら、許してあげよう」

 私は首を横に振った。

「あぁ。この男のことを心配してるのだね。大丈夫だよ。今なら村から追い出すだけで済ませてあげるから。さぁ。おいで」 


 私が揺らめきかけたとき、腕をくんと引かれた。八雲が私を縋るように見ていた。

 私はその彼の目を見て悟ってしまった。

「……そうね。二人でいられないなら生きていている意味がないものね」

 八雲の手を取って、指を絡めた。

「ずっと離さないでいてね」

 二人で手を強く握り合った。


 私と八雲は崖の方を向いた。

「蓮水。待て、止めろ!」

 私は走ってくる茂平を横目に、八雲と顔を見合わせて笑顔で頷くと、崖の先へ跳んだ。

  

 私はずっと抱えていた見えない重りを下ろしたような、清々しい心持ちになる。

 私はやっと自由に飛べる蝶になるのだ。

 咲き乱れる薔薇の花の間をひらひらと舞うつがいの蝶のように、二人でいつまでも寄り添って飛んでいく。

 そんな幻想を見た。


 二人が離れることはもう二度とない。

 私たちは永遠の空に飛び立ったのだから。





               《了》

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