飼育される蝶
「これで蓮水も彼を忘れられるだろう?」
耳元で囁かれたその言葉に、私は目を覆っていた手を下げ、茂平の顔を呆然と見つめた。
「気づいていないと思っていたかい?」
茂平は穏やかな笑顔を崩さないまま言う。
「どうして」
「私が東京にいた頃から蓮水の言動はすべて侍女に報告させていたのだよ。誰と会って何をしているかもね。ここ一年は小梅にその役目を任せていたんだ」
初めて知った事実に衝撃を受ける。
「報告といっても、蓮水はほとんど誰とも会わないし、たまに庭を出歩く以外は部屋で刺繍を刺すような生活だったから、気に入った花や食べ物やなんかを知るくらいだった。けれど、薔薇園の花を気に入ってから変わった。さして物に執着する
自分の日々の行動が長年に渡り茂平に筒抜けに伝わっていたのだと思うとぞっとした。
そして、小梅がいつも異様によく気が付いたり、人との接触を避けさせたりしていた理由がわかったような気がした。私をつぶさに観察していたからだ。
「近々こちらに帰って来ようと思っていたところにそんな事態だ。小梅の報告には記載はなかったが、儂が帰るとわかったら屋敷から逃げ出すかもしれない。そんなことにならないように何も知らせずに帰ってきたんだよ。でも、そうして帰ってきて良かったよ。」
私の肩を抱いていた茂平は空いている方の手で私の頬を撫でる。その生温かい手に悪寒を感じる。私の様子に茂平は苦笑を漏らす。
「蓮水、そんなに怯えないでくれ。怒ったりはしないよ。誰も罰したりなんかしない。むしろ、八雲には感謝しているくらいだ。この屋敷に来てからずっと蓮水は感情を揺らすことがない人形のようだった。このまま変わらず一生を過ごすことになるのかと心配していたのだよ。けど、今回帰ってきてその変化に驚いた。全身から匂い立つ薔薇の匂いもさることながら、目線や口調、雰囲気そのすべてが変わって人間らしくなっていた。東京で男女の色恋を間近で見てきたが、蓮水も恋するとこんなに変わるのかと驚いたよ。さながら
茂平は両手で私の手を握り込んだ。
「儂は蓮水が私の側にいる限り、蓮水を愛するし、お前が大事にしている者たちも傷つけたりしない。だから決して屋敷から出ようと思わないでおくれ」
そう言った茂平の穏やかな笑顔の目の奥に昏い光が見えたような気がした。
茂平が出ていった後、私は呆然としたまま居室に座り込んでいた。
私はずっと観察されて何もできない
その事実が私の胸に暗い影を落とす。
心が悲鳴をあげて軋んだ。
***
「奥様。もう夜が更けてまいりました。もうお休みになられてはいかがですか?」
小梅が遠慮がちに声を掛けてきた。
茂平が部屋を出てからもうどれくらい過ぎたのだろうか、もうすっかり真夜中だ。
夜遅くまで明かりが灯っていたので様子を見に来たのだろう。
「まだまだ眠れそうにないの」
私が力なくそう言うと、小梅はその理由を聞くこともなく、温かい白湯をお持ちします、と一旦部屋を出ていった。
白湯と共に、羽織を持って部屋に入ってくる。
「夜は冷えますから」
秋が深まるこの時期、刻々と気温が下がってきている。
私は小梅が持ってきた羽織を受け取り、白湯の入った湯呑で手を温める。
そして、一息付いたところで、話を切り出した。
「小梅はずっと私のことを監視して報告していたのね」
小梅ははっとして、目を伏せた。
「……旦那様のお言い付けでしたので」
「私と八雲とのことは知っていたの?」
「薄々は感じていましたが、ずっと気付かないふりをしていました。旦那様にお知らせするわけにはいかないと。けれど、先日、実家で父と喧嘩をして屋敷に戻った時、奥様が部屋にいらっしゃらないことに気が付き、まさかと思って、薔薇園の奥の小屋を覗いてしまったのです」
あの時見られていたのか。翌日、小梅が落ち着かなかった理由がわかった。小梅は焦って言い募る。
「でも、旦那様に言うつもりはなかったんです。けれど、旦那様が帰ってきて直接尋ねられると、隠しきれなくて」
小梅が
侍女をはじめ村の者は皆、村一番の権力者である茂平を恐れており、彼には誰も逆らえない。
「貴女は八雲と結婚することに異存はないの?」
「奥様の側にいられないなら、どこに嫁に行っても大差ありませんから。八雲さんは怖い人ではないですし。旦那様の言い付けを拒むことなどできません」
将来を諦め切っている小梅に胸が痛んだ。
「どうせ自分では何も選べない人生なのです。奥様がお屋敷で何不自由なくいつまでもお美しくいらっしゃるなら、それ以上は望みません。だから、奥様も八雲のことは忘れて穏やかにお過ごしください」
そう。このまま何もなかったかのように過ごせば、皆、平穏に生きていられる。
八雲は新しい土地で立派な薔薇園を作り、小梅は妻としてうまくやっていけるだろう。今は何も思ってなくても、一緒に生活していれば想いも芽生えるかもしれない。
そして、私はここで茂平の庇護を受けて、以前と変わらない生活を送る。
この愛は手に入れてはいけないものだと、始めからわかっていたはずだ。この胸が裂ける様な痛みは手に入れてはいけないものを手にした報いだ。
こうして表面上は誰も傷ついていない今のこの状況は、まだ幸せなことなのだ。
私は自分に必死に言い聞かせた。
***
「じゃあ、これから村の寄合に顔を出してくるからね」
茂平は夕刻に部屋にやって来てにこやかに言う。
部屋にはもう薔薇の花はない。あれだけ立ち込めていた匂いもきれいに消え去ってしまった。
「いってらっしゃい」
私は薄い笑みを浮かべて送り出す。
八雲と小梅も、間もなく東京に行ってしまう。なので小梅はしばらく実家に帰っている。次に会えるのは出立する日になるかもしれない。
私は努めて何も考えないようにして過ごしていた。感情を捨て去ってしまえば、やがて痛みなんて感じなくなる。そうやって忘れさせてしまうのだ。
夜遅く、冬が近づく前の冷めた月を見ていた。何の感慨も湧かないが、ただなんとなく見上げていたのだ。
「蓮水様」
突然、呼ばれた。
驚いて庭を見ると、そこにいたのはもう逢えないと思っていた愛しい人。
心が追いつかず動けない私に、彼は手を差し出して言った。
「蓮水様。ここから一緒に逃げましょう」
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