日常が反転する時

 茂平が屋敷に帰ってきてからというもの、屋敷の雰囲気は一変した。

 屋敷内は私しか居ない時より人が増えているはずなのに静まり返っている。侍女たちは皆、常に気を張っているように見えた。

 茂平が屋敷を出たり入ったりする時だけざわざわと玄関が騒がしくなる。


 茂平は隠居するとは言ったものの、煙草畑の様子を見に行ったり、水車などの設備を視察したり、日々、忙しく動き回っていた。

 村人たちは永らく不在だった主人が連日やってきて大慌てだろう。

 そして、茂平は私の居室にも朝な夕な暇を見つけては足繁く通って来ていた。


***


「お茶をどうぞ」 

 朝、いつものように小梅がお茶を持ってきた。

 礼を言って茶碗に手を伸ばす。ちょうど良い温度で飲み頃だった。

「お茶を淹れるのが上手になったわね」

 私がそう言うと。小梅は黙って僅かにはにかんで見せた。

「最近、茂平殿が帰ってきてから、あんまり話さなくなったわね。いつも元気な貴女らしさがないわよ。誰かに何か言われた?」

 小梅はふるふると顔を横に振った。

「大丈夫です」 

「何か困ったことがあったらいいなさいね」

 そう言うと、小梅が下を向いて唇を噛みしめる。そして、何かを決意したかのように顔を上げた。

「……あのっ」 


「失礼するよ」

 小梅が何かを言おうとしたと同時に茂平がやって来た。

 小梅はびくっと体が跳ねて姿勢を正す。

「あっ、私、旦那様のお茶を淹れてきます!」

 そして、足早に部屋を出ていった。

「そんなに慌てなくていいよ」 

 茂平はそんな小梅の背中に穏やかな声を掛けてから、こちらに向き直った。


「蓮水。これを」 

 薔薇の花束を手渡される。10本ほどの花は全て赤い色をしていた。

 茂平は照れくさそうな顔をしている。 

「八雲に聞いたのだが、薔薇には花の色ごとに花言葉というものがあるのだそうだよ」

「花言葉?」

「赤い薔薇には『愛情』という意味があるのだそうだよ」

「愛情……」

 私は、薔薇の花束をじっと見つめた。この花束を作ったのは八雲だろう。そう思い至ると、茂平を介して、八雲が私に愛の言葉を囁いているような気がした。

 私は思わず花束を腕に抱きしめた。久方ぶりに薔薇の匂いが甘露のように甘く感じた。

 茂平はそんな私の様子を見て満足気に微笑んだ。



***

 

 夕餉が済んでから、また茂平がやって来る。

「佐吉から今年一番の蜜柑を貰ってきたよ。また明日にでも食べればいい」 

 籐のかごに盛られた蜜柑は少し緑がかっているものの、つやつやとして美味しそうだった。茂平はこちらに来るときはいつも何かしら持ってきていた。

「ありがとう。けど、毎回持ってこなくても良いのに」

「蓮水にはいろいろあげたくなってしまうのだよ」

 茂平はにこにことしてそう言った。

 以前からそうだが、茂平は私にはとことん甘い。今まで怒られたことなど一度もなかった。


 夜はいつも侍女を下がらせて二人きりになる。二人きりになるといっても、あれから茂平は蓮水に触れようとはしなくなった。

 そうしてくれるのは私にとっては好都合だったが、なぜかどこか落ち着かない気持ちになった。


「そうだ、蓮水。前に言っていた小梅と隣村の庄屋の息子との縁談はなくなったよ」

「そうなの?」 

 隣村とこちらの村が婚姻で良好な繋がりを持つことは村にとっても有益なはず。なので、少し驚いた。

「小梅本人も嫌がっていたしね。小梅には堅苦しい旧家よりも、もっと良い所があると思ったのだよ」 

 確かに、小梅の明け透けな感じは旧家には馴染まないのかもしれないが、でも、よく気がつく所はどこでも気に入られるのではないか、とも思っていたのに。


 茂平が話を続ける。

「それでね。小梅には八雲と一緒になってもらおうかと思っているのだよ」

 茂平の言葉に耳を疑った。

「今なんて」

「小梅と八雲を夫婦めおとにしようと思っているんだ。八雲には今年の薔薇の花が終わったら、東京に帰ってもらうつもりだ。将来のある若者にこんな田舎で終わってもらいたくないからね。東京にいる時に招かれた宮家の饗宴で、宮様の別邸に薔薇園を作る話が出てね、そこの責任者に彼を推したのだよ。悪くない話だろう」

 突然の話に言葉を失った。

 八雲と小梅が夫婦になる。お似合いだと思ったことはある。けれど、まさかそんな話が出るとは思いもしなかった。


「……二人には伝えたのですか」

 なんとか言葉が絞り出す。

「小梅も八雲も驚いてはいたが最終的には了承したよ。まぁ、年も近いし、知らぬ仲ではないしね」

 主人である茂平に言われたのなら受け入れるしかないのはわかる。それでも、八雲が他の女との結婚を了承した、その事実に心が痛んだ。

 私は思わず両手で目元を覆った。

「小梅がいなくなるのは寂しいだろうけど、村の若い娘をまた仕えさせよう。そして、薔薇園の管理もまた新たな者を呼ぶから心配しなくて大丈夫だよ」


 茂平は近づいてきて私の肩を抱いた。私は呆然として彼のされるがままになる。

 そして、茂平は耳元に唇を近づけ優しい声色で囁いた。

「これで蓮水も彼を忘れられるだろう?」


 私はその言葉に背筋が凍りついた。


 

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