触れたいのは彼だけ
「蓮水! 何をしている!」
「
私は突然現れた年の離れた夫に目を丸くして、名前を呼ぶ。
「包丁なんて持ってどうしたんだい」
焦る茂平の声に私は逆に冷静を取り戻す。
「夕餉の支度をしようと思って」
淡々と答える私に向って茂平は驚いたような顔をする。
「蓮水はいつもそんなことをしているのかい?」
そして、その視線はその場にいた侍女たちに注がれる。身を縮こませる侍女たち。
「彼女たちは何も悪いことはしてないわ。急に思い立って、今日初めてここに立ったの。貴方がまさか今日帰ってくるなんて一言も聞いてなかったから」
私は彼女らを庇うように茂平に少しの皮肉を込めた言葉を放つ。
すると、茂平は私に向かって困ったような笑顔を見せる。
「あぁ。突然帰って驚かせようと思ったんだよ。逆に驚かされてしまったな。ほら、蓮水。いつまでも儂たちがここにいては夕餉の支度の邪魔になる。儂も夕餉まで長旅の疲れを癒やしたい。夕餉の後でゆっくり話をしよう」
そう言って、茂平は私を促して炊事場を出ていった。
私もそれに素直に従い、炊事場を後にした。
***
夕餉が終わり、しばらくすると居室に茂平がやって来た。
「毎日飾っていると手紙で書いていたが結構な薔薇の数だな。匂いも凄い。薔薇園にいるようだ」
茂平は予め用意してあった座布団に座り、部屋をぐるりと見渡した。
しばらくして小梅が緊張した面持ちでお茶を持ってきて、部屋の隅に控えようとする。
「小梅。二人で話がしたいから下がっていてくれないか」
「か、かしこまりました」
茂平の言葉に、小梅はすぐさま反応して部屋を出ていった。
部屋に茂平と二人きりになり、私は落ち着かない気持ちになり、手で手巾を弄っていた。
「最初は行儀見習いなんてと思っていたが、小梅はよくやっているようだね」
感心するような茂平の言葉に私は頷く。
「小梅はよく気が付く侍女なの」
「それは良かった」
茂平はにこやかに笑う。
「でも、縁談が持ち上がっているとか。せっかく気心が知れてきたのに残念で」
私が目を伏せて言うと、茂平は驚いた顔をする。
「おや、そんな話が出てるのかい」
「ええ。相手は隣村の庄屋の息子だと聞いたけれど、茂平殿は聞いていない?」
「まだ、帰ってから
佐吉は小梅の父親である。
「小梅本人は嫌がってましたが」
「あそこの息子は蓮水とそう年が変わらなかったはず、小梅からしたらちょっと年上だからなぁ。大きい家だし、姑もしっかりしている。若い娘だと気が引けるのだろう。まぁ、明日にでも佐吉に聞いてみるよ」
茂平はそう言って、湯呑に口をつけ目を細めた。
「茂平殿。急に帰ってこられてどうしたの?」
私は一番気になっていたことを尋ねる。
「あぁ。儂ももう若くないと思ってな。事業は長男の
突然の話に私は衝撃を受ける。
これからずっと屋敷にこの人がいるというのか。思考がついていかない。
そんな私の気持ちに気づかずに茂平は私と距離を詰めてくる。
「蓮水は前の正月に会ったときより、綺麗になったな。艷やかになったというか」
そう言いながら、皺の刻まれた手で私の髪にそろりと触れる。
ぞくりと私の背中は粟立った。
「髪からも薔薇の匂いがする。薔薇は女を美しくすると異国の商人から聞いていたが、本当だったのだな」
茂平が私を自分の懐へ導こうとするのを、私は腕を突っ張って抵抗した。
「蓮水?」
私の拒否の態度に不思議そうな顔をする茂平。
両腕で自身を抱きしめながら茂平から少し距離を取る。
これ以上、触れられたくない。
私は彼を見据えて拒絶に効果的であろう言葉を繰り出した。
「茂平殿、東京に女を囲っているのでしょう?」
私の一言に茂平の表情が固くなる。
「そんな話、誰に聞いたんだい」
茂平は探るように尋ねてきた。
「誰だっていいでしょう。ここに帰ってこなくても、その女と一緒に暮せば良いじゃない」
私が冷ややかに言うと、茂平は首を横に振った。
「あの女は、ここに帰ると決めた時に余所に嫁にやったよ。今は誰もそばに置いていない」
私は疑惑の目を向ける。
「本当だ。信じてくれ」
必死に言い募る茂平の顔は嘘を付いているようには見えなかった。
そのまま女と関係を続けていれば、離縁を言い出すこともできたのに。
私は深くため息をついた。
そんな私の様子に、茂平は頭を下げる。
「蓮水、悪かった。けれど、その女も不憫な女でね、放っておけなかったんだ。決して好きごころだけで側に置いていたわけではないのだよ」
私は顔を横向けたまま、黙り込んだ。
「許してはくれないかい?」
「部屋を出ていって。一人になりたい」
私の頑なな態度に茂平は深く息を吐く。
「じゃあ、また来るよ。これから時間はたっぷりある。二人でゆっくり話をしよう。ただ、これだけはわかっておいてくれ。私が本当に大切にしたいのは蓮水だけなんだ」
尚も返事を返さず、取り付く島もない私の様子に肩を落としつつ、彼は部屋を出ていった。
一人になった部屋で私は力が抜けたように畳に手を着いた。
今まで触られることになんの感情も抱かなかったが、今日ははっきりと不快感を持った。
微かに体が震えてもいる。
私に触れてもいいのは、触れたいのは八雲だけだ。この体はそういうふうに作り変えられてしまった。
これから茂平が屋敷にいるということは、監視の目がもっと厳しくなるだろう。もう八雲に会えないかもしれない。
私は絶望に似た思いを抱えながら、手巾に描かれた黄色い薔薇を親指でなぞった。
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