安穏たる日々が終わる音

 八雲の元から戻ってきた朝、身支度の手伝いにやってきたのは小梅だった。

 このところ古参の侍女に替わって小梅が来ていたが、彼女は今朝はまだ実家にいて他の者が来る思っていたので少し驚く。


「あら、屋敷に戻ってきていたのね」  

 私が声を掛けると、小梅は浮かなそうな顔をした。

「家にいたくなくて昨夜のうちに帰ってきました」 

「何かあったの?」

 問いかけると、小梅は逡巡する様子を見せたが、俯いてしまった。

「まぁ、いいわ。取り敢えず朝の支度を進めてちょうだい」

 私の言葉に従って、小梅はいつもよりゆっくりと櫛の準備をし、鏡台の前に座る私の背後に座り私の髪を櫛で梳き始める。

「奥様の髪はつやつやして本当にきれいです」

 そう言いながらも、鏡越しに泣き出しそうな顔をしている小梅が見えて、私は後ろを向き直接小梅を見た。

「本当に何があったの?」

 小梅はしばらくの沈黙の後、ようやく話しだした。


「……昨日、突然父から私に縁談があると言われました。それで喧嘩して昨夜のうちに屋敷に帰ってきたのです」

 小梅は、もとから屋敷には嫁入り前の行儀見習いとしてやってきたので、少し早いなとは思ったものの、私は特段驚きもしなかった。

「そうだったの。お相手の方は?」

「隣村の庄屋の息子です」

 隣村はうちほどではないが、栄えていて裕福だったはず。そこの庄屋の一人息子は私よりいくつか年下で、働き者の若者だと聞いたことがあった。

「良いお話ではないの」

 思ったままそう言うと、小梅は首を横に降振る。

「私はまだこの屋敷で奥様のお側にいたいです。結婚なんかしたくない。ずっとここに置いてください」

 懇願するよう見上げてくる小梅に今度は私が首を横に振った。

「それは難しいわ」

 何せ小梅の父親は娘を良家に嫁がせるために小梅をこの屋敷にやったのだ。ずっと屋敷に仕えさせておく気はないだろう。それは例え私がどんなに側に置くといっても覆らない。そんなことをすれば小梅も私のように嫁に行き遅れてしまう。こんな好条件な縁談はそうはない。

「大丈夫。あなたは若いけど、よく気のつくし、きっと可愛がってもらえるわ」

 小梅は、大きな家の嫁に入るのが不安なのだろう。私はそう思い宥めるように小梅の膝の上に置かれた手を取り、両手で包み込んだ。

 小梅はその手に力を込める。そして、私の目を真っ直ぐ見て言った。

「どうか奥様は変わらずずっとここにいてくださいませ。そしたら私も知らない場所でも頑張れます」

 私はその言葉に曖昧に笑顔を返し、何も答えられなかった。



***


 お昼過ぎ、私は一人、居室の薔薇を眺めながら、昨夜の八雲とのやり取りを思い出していた。


 八雲は屋敷を出て二人で生きようと言った。けれど、そう簡単にいくだろうか。私は思考を巡らせていた。

 運良く二人で逃げおおせたとして、その後の生活はどうするのか。

 八雲は何とかすると言っていたが、今のように何もしなくても食事が出てくることはないだろう。

 私はこれまで炊事も掃除もしたことがない。裁縫が少しできるくらいだ。自分一人では何もできない自分に愕然とする。

 けれど、何とかしなければ。

 私は居ても立っても居られず、部屋を後にした。



「奥様! そのようなこと、私共がやりますから」 

「危のうございます」 

 侍女たちが悲鳴に近い声を出す。

 夕餉の支度が始まる炊事場。

 たすき掛けをした私は包丁を片手に青菜の前に立っていた。

 まずは炊事をやってみようと思ったのだ。 

「なによ。私には出来ないとでもいうの?」

「いえ、決して出来ないとは申しませんが……」

「慣れてませんとやはり危ないかと」

 強気の私に歯切れが悪く言い募る。

「で、どうすればいいの?」

 私の問いにどう答えたものか迷う侍女たち。


 そこに、小梅が血相を変えて炊事場に入ってきた。

「奥様! どういうつもりですか?! いきなりこのようなこと」 

 私はその問いに前もって用意しておいた返答をする。

「貴女、さっき私に変わらずここに居ろっていったわよね。でも、あの人に離縁されたら私は炊事もできなきゃ生きていけないでしょう」

「離縁って」

「私、知ってるのよ。あの人が東京で女を囲ってるって」

 そう言った途端、場が凍りついたように静かになった。

 なぜ私の耳に届いているのかと、皆一様に青ざめている。

「そういうことだから。私はこれから炊事を覚えるわ。教えなさい」

 私は再び、包丁を構える。

 皆どうしたらいいか考えあぐねている中、入口から声が掛かった。


「炊事場がやけに騒がしいがどうかしたのかい?」

 皆、その声に驚いて入口に視線を向けた。

 声の主が、包丁を持った私を見て一瞬息を飲み、そして、大きな声を出した。

「蓮水! 何をしている!」

「茂平殿」

 そこには、東京にいるはずの夫の姿があった。

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