蓮の花と夏の夜
暑さが本格的になってきたある日。
私は屋敷の裏側に広がっている池で涼をとっていた。
池は屋敷がすっぽり入ってしまうのではないかと言うほどの広さで、桃色の蓮の花が満開に咲き誇っていた。花は私が嫁いで来たときに植えられ、年々その数を増やしている。今では池中が蓮の花で覆われるほどだ。
私は池に屋敷から繋がって建てられている釣殿の端に座り、蓮の花を眺めていた。手が届きそうな所にあるその花は、清らかな空気を纏っており美しい。
小梅は硝子の湯呑に入った冷えた茶を携えて、私の元にやってきた。
「奥様。端近に出過ぎです。お下がりください」
「池に近いほうが涼しいのよ。ほら水に手が届きそう」
私は低い欄干にもたれかかり池の水に手を伸ばす。
「危ないですから。ほら袖が濡れてしまいます」
「小梅は心配症ねぇ」
私は手を引っ込めて体を起こす。
「旦那様がいない時に奥様に何かあったら私たちは生きていられません」
生真面目に言う小梅に、私は首を竦めながら蓮に視線を戻す。
「ほんと大袈裟なんだから」
池を取り囲む木々からは蝉の声が途絶えることなく響いている。夏も盛りだ。
ふと視線を遠くにやると、目の端に人影を捉えた。
遠目なので顔ははっきり見えないが、池の淵あたりで作業をしているのは八雲だった。彼ほど体格のよい人間はここにはいない。薔薇園以外で仕事をしていることもあるのかとついまじまじと見てしまう。
じっと見ていると、八雲が視線に気付いたようにこちらに目を向ける。そして、私の姿を認めると、こちらに向けて会釈した。
思わず頬が緩んでしまう。
「まぁ!」
突然の小梅の大きな声に肩が跳ねる。小梅を見ると彼女は顔を真っ赤にしていた。小刻みに震えている。
「あの庭師、こちらを見て挨拶しましたよ!」
「いや、私がいるのに気付いたなら挨拶くらいするでしょう」
見た先に女主人がいたなら挨拶するのは特段不自然ではないはず。こんな反応をされたら内心焦ってしまう。
「顔を見ましたか?」
小梅は尋ねてくる。
「こんな遠目からは顔まで見えないわ。小梅は見えたの?」
目がいいのね、と言う私の言葉は耳に入っているのかどうか、小梅はあんな顔するなんてとかなんとか小声でぶつぶつ言っている。
「お部屋に帰りましょう。奥様の姿を長い間晒すのはよくありません」
焦った感じで小梅は言ってくる。
「庭師はもうどこか行ってしまったわよ。誰も忙しくて、こちらを気にする者なんていないわよ」
私は小梅を落ち着かせるように言う。そして、茶の入った湯呑を手に取って、何事もなかったようにゆっくりと口を付けた。
***
昼の熱が冷めやらぬ夜。
もう何度となく重ねているしっとりと甘やかな時間。
一糸まとわぬ姿で寝具にうつ伏せになっている私は、火照る体を冷ましつつ、髪を撫でる八雲の手の感覚を堪能する。
八雲は私の髪に触れるのが好きだ。話をしている時など、気が付けば触っている。その手付きはひたすら優しく、私はとても安心できた。
「今日は蓮池の方で作業してたのね」
「この時期は手伝いに駆り出されるのですよ。でも、昼間に蓮水様の姿が見れて嬉しかったです。蓮の花の清らかな美しさと蓮水様は一枚の絵のようで素敵でした」
そう手放しで褒められるとなんだか恥ずかしくなり、私は話を変える。
「それにしても小梅の心配性には困ったものだわ。ちょっと貴方に見られたからって帰りましょうって大袈裟なんだから」
私がむくれながら言うと、八雲は苦笑する。
「僕も蓮水様を無闇やたらと人に晒したくないのは同感ですけどね」
「私、そんなに人に会うことはないわよ? 屋敷の外には出ないし」
「新参庭師の僕が見初めたくらいですから、結構見られてると思いますよ。蓮水様、案外無防備ですから」
「そんなこと……」
「そんなことあります」
八雲に言い切られ、私はさらに頬を膨らます。
「それなら、貴方も大概無防備だと思うわ」
「僕がですか?」
八雲が首を傾げる。
「貴方、今日礼をした時、笑顔だったでしょう。小梅がびっくりしてたわよ」
「確かに表情が緩んでたかもしれませんが、あんな遠目で見えました?」
「小梅は見えていたみたいよ。あの子、いろいろ目敏いし、視力もいいみたい」
「すごいですね」
八雲は感心したように言う。
「だから、八雲は外で笑っちゃ駄目」
「え。駄目なんですか?」
私の無茶な要求にも係わらず、八雲は楽しそうに笑う。
「なんで嬉しそうなのよ」
「だって、蓮水様が可愛いこと言うから」
「なっ! そんなことっ」
可愛いなんて突然言われなれてない言葉を言われて、顔に熱が集まるのを感じる。
「蓮水様はいつも可愛いです」
八雲はそう言ってわたしに覆いかぶさり、髪に顔を埋める。そして、髪を掻き分けてうなじに唇を寄せてきた。
「あ……っ」
ふいにうなじを吸い付かれて思わず声が出てしまう。
「ほら、可愛い」
良いように翻弄されているみたいで気にいらない私は、起き上がり八雲を軽く睨む。そんな私に怯むことなく強請ってくる口吻はすぐに深くなり、たちまち息を荒らされる。
「……貴方は可愛くないわ」
悔しそうに言う私に八雲は意地が悪い笑顔を見せ、再び唇を塞いできた。
本当に可愛くない。そう思いながらも、心の奥でそんな生意気な態度も悪くないと思っている自分に気付いてしまう。
そんな自分に戸惑いを覚えつつも、彼から与えられる熱の中に全ての思考を放り投げ、再び熱い夜に身を任せた。
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