迷いと決意

 よく晴れた昼下り。

 私は鏡台の前に座り、紅を少し小指に付けて唇にほんのりと色を乗せ、そして、緩く結い上げている髪を整えた。

 自然と口角が上がる。

 鏡台から立ち上がった私は縁側から庭に出た。


 梅雨の合間の日差しは日に日に力強くなり、木々の陰影が濃くなっていく。

 淡い色合いの単衣に、帯に刺した真っ赤な珊瑚の根付が揺れる。丸い形のそれはまるで小さな薔薇の花のようで私の心を明るくさせた。少女の頃のように心も体も軽やかに感じる。

 私は薔薇園までの慣れた道を進んでいった。


 薔薇園の入り口に近づくと、ふいに中から女の声が聞こえた。私はとっさに葉の茂った木陰に隠れた。

 そっと薔薇園の方を覗いてみると、遠目に八雲と若い女が立っているのが見えた。


 女をよく見るとそれは小梅だった。話している内容までは聞こえないが、小梅は親しげに喋りかけている。八雲の方は光の加減で表情を見ることはできなかったが、それでも穏やかな様子だった。

 それを見た私は心がざわつくのを感じ、たまらずその場を離れた。着物の端が木に引っ掛ったのを感じたが、そんなものは構っていられなかった。

 そのまま部屋に戻るのも嫌で、私は屋敷とは逆方向に体を向けた。


 それにしても、と私は深い緑の庭を歩きながら先ほどの様子を思い出しながら思いに耽る。

 八雲と小梅、年若い二人が並んでいると、違和感なくその場に馴染んでいるように思えた。この二人であれば明るい未来が描けるだろう。

 それに比べ、私と八雲が一緒にいても先には暗い闇しかない。彼にとって私は障害にしかならないのだ。そう思うと、胸が締め付けられるようだった。

 その痛みをなんとかやり過ごし、ふと顔を上げると、随分と木々が深いところまで来ており、太陽の光が見えない暗い所まで来ていた。


 どれくらいの時間歩いたかわからないし、どれだけ屋敷から離れたかもわからない。

 この屋敷の庭はそのまま所有の山へと繋がっている。あまり遠くへ行くとまずい。

 私は取り敢えず来た道を引き返すことにしたが、道なりを歩いてきたはずなのに分かれ道が出てきてどこから来たのかわからない。私は途方に暮れた。


 でも。このまま誰にも見つからないままで良いのかもしれないという思いが湧いてくる。このまま地面に積もっている落ち葉と同じように朽ちてしまえばこんな思いを抱えることなくなり、楽になるのではないか。私はその場に立ち止まり目を閉じた。この空気に溶けてしまえればいいのに。


 その時、ガサガサとこちらに何かが近づいてくる気配がした。

 何か獣にでも出くわしたかと身が固くなる。私は逃げることもできずにその気配に背を向けた。


「蓮水様!」

 聞き慣れた声で呼ばれて振り返る。そこには予想通りの人物がいた。

「八雲」

 自分の想像以上に震えた声が出た。

「蓮水様!」 

 もう一度名前を呼ばれ、走り寄ってきた八雲に強く抱きしめられた。

 私はその大きな温もりにしがみつく。八雲は寄りかかってくる私の体重を難なく受け止めてくれた。強張っていた体の力が抜けるのを感じる。


「なぜ貴方がこんな所に?」

 暫くしてようやく声を発した私に八雲は深く息をつく。

「それはこっちが聞きたいです。何でこんな所で迷子になってるんですか」 

「! 迷子って……」

 この年で幼子のように言われて私は思わず顔を上げる。

 そこで見上げた八雲が想いもよらず真剣な顔をしており、言おうとしていた文句が全部引っ込んだ。

「これ、蓮水様のですよね」 

 八雲が手に持っていたのは赤い珊瑚の根付。自分の帯の方を見るといつの間にかなくなっていた。

「薔薇園の入口付近の木の陰に落ちていました」

 あの場を離れた時に落としてしまったらしい。

 八雲から根付を受け取る。

「それを見つけた後、屋敷に帰られたのかとお部屋の近くに行くと、侍女殿が蓮水様を探しておられたから、それで庭を探していたんです」

「よくこちらに来たとわかったわね」

「そんな入り組んだ所には入っていないと思いました。それに蓮水様が泣いているような気配がして」

 八雲の手が私の頬に伸びる。

「泣いてなんかないわ」

 私は気丈にそう言い手を払う。実際に涙など出ていない。

「でも、さっきとても思い悩んだような、悲しげな顔をしていました」

 顔をじっと見られて、思わず顔を逸らす。

「悲しい顔なんてしてないわ。ただ、貴方には小梅みたいな若い子の方がお似合いなんじゃないかって思っただけよ」

「それ本気で言ってますか?」

 感情を抑えたような声で問うてくる。

「だってそうでしょう。私なんかよりあの子といた方が幸せになれる」

「僕を幸せにできるのは貴女しかいない」

「そんなこと……」

「貴女しかいらないんです」

 反論しようとする私を黙らせるように痛いくらいの力で抱きしめてくる。

「貴女じゃなくていいならとっくにこの想いは捨ててます。手放した方が楽であろうこともわかってる。でも無理なんです」

 その悲痛な告白に私は息が詰まって何も言うことができない。  

「蓮水様。迷わないで。僕に全部委ねて。僕がどんな手を使っても貴女を幸せにするから」

 その覚悟の籠もった強い言葉は私を洗脳するように響き、私は抱き返すしかできなかった。


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